第2話  消えていく顔


## 一


「今日の私、どう?」


莉奈はスマホを掲げ、カフェの窓際で自撮りを繰り返す。光の角度、表情、背景のボケ具合――すべてが完璧になるまで、何十枚も撮り直す。


美術系大学に通う彼女にとって、SNSは自己表現の場であり、承認の場だった。毎日の投稿は日課。フォロワーは現在8,500人。インフルエンサーと呼ぶにはまだ小さいが、着実に増えている。


「よし、これ」


満足のいく一枚を選び、フィルターをかける。肌を少し明るく、目を大きく、唇に艶を足す。完璧。


投稿ボタンを押す。


いつものように、コメントと「いいね」を待つ。最近の平均は投稿後30分で500くらい。それが彼女の日常だった。


スマホの画面を見つめる。


10分後――「いいね」が1,200を超えていた。


「え?」


莉奈は目を疑った。いつもの倍以上。コメントも溢れている。


『美しすぎる』

『完璧』

『どうやったらこんな風になれるの?』


心臓が高鳴る。


これが、バズるということ?


---


## 二


翌日。


莉奈は昨日よりも気合を入れて準備した。メイクは完璧。服装もトレンドを押さえた。撮影場所は大学構内の中庭。


何枚も撮り、ベストショットを選ぶ。


フィルターをかけて――投稿。


5分後。


「いいね」が3,000を超えた。


「すごい……」


莉奈の手が震える。コメント欄が凄まじい勢いで更新される。


『神々しい』

『見とれてしまう』

『この透明感、どうやって出してるの?』


透明感?


莉奈は首を傾げた。今日は結構しっかりメイクをしたのに。


大学の講義中、隣に座る親友のユカが莉奈のスマホを覗き込んだ。


「ねえ、莉奈。この写真……」


「どう? いいでしょ?」


「いや……その、顔、見えなくない?」


「は?」


莉奈は画面を見る。自分の写真。中庭に立つ自分。服装も背景も完璧に写っている。


顔も――ちゃんと写っている。


「何言ってるの? 普通に写ってるけど」


「え……でも」


ユカは困惑した表情で画面を見つめた。


「なんか、ぼやけてるっていうか……のっぺりしてるっていうか」


「画質の問題じゃない?」


「そう、かな」


ユカは納得しなさそうだったが、それ以上何も言わなかった。


---


## 三


三日目。


朝起きて、いつものように自撮りを撮る。


ベッドの中、寝起きの自然な表情。「すっぴん風」を演出するために、実際には薄くメイクをしている。


投稿。


10分で15,000「いいね」。


「すごい……すごいすごい!」


莉奈は興奮で叫びそうになった。


コメントを読む。


『この儚さ、たまらない』

『存在自体がアート』

『顔がないのに美しい』


――顔がない?


莉奈は眉をひそめた。また同じことを言っている。


写真を拡大する。


自分の顔。


ちゃんと――


……待って。


莉奈は息を呑んだ。


顔の輪郭が、わずかに、ぼやけている。


目鼻立ちは判別できるが、まるでソフトフォーカスをかけたように、細部が曖昧になっている。


フィルターのせいだ。


そう思い込もうとした。


でも――昨日の写真を見返す。


昨日は、もっとはっきり写っていた。


一昨日は、さらにはっきり。


「……気のせい、だよね」


---


## 四


四日目。


莉奈は鏡の前に立った。


いつものようにメイクをする。ファンデーション、アイシャドウ、リップ。


しかし――


鏡に映る自分の顔が、どこかぼんやりしている。


目の形が、いつもより曖昧な気がする。


「疲れてるのかな」


そう呟いて、大学へ向かった。


講義中、ユカが何度も莉奈を見ては首を傾げる。


「ねえ、莉奈」


「ん?」


「今日、化粧濃くない?」


「え? いつもと同じだけど」


「そう……?」


ユカは不思議そうに莉奈を見つめた。


「なんか、顔がはっきりしないっていうか……」


「どういう意味?」


「ううん、なんでもない」


昼休み。


莉奈はトイレの鏡で自分の顔を確認した。


普通だ。


ちゃんと自分の顔が映っている。


ただ――


なぜか、自分で見ても、輪郭がぼやけて見える。


「おかしい」


スマホで自撮りをする。


画面に映る自分。


目鼻の位置は分かる。でも、細部が見えない。


まるで、顔にモザイクをかけられたような――


いや、違う。


もっと自然に、溶けているような。


投稿はしなかった。


その日初めて、莉奈は投稿をためらった。


---


## 五


五日目。


朝、鏡を見て悲鳴を上げそうになった。


顔の輪郭が、明らかにぼやけている。


目も鼻も口も、形は分かるが、細部が判別できない。


「嘘でしょ……」


慌ててメイクをする。ファンデーションを厚く塗る。アイラインを濃くする。リップを真っ赤にする。


鏡を見る。


少しはマシになった。でも――


まだ、ぼやけている。


大学には行けなかった。


部屋に閉じこもり、何度も鏡を見た。


スマホを開く。


昨日の投稿の「いいね」が30,000を超えている。


コメント欄。


『透明感が異次元』

『顔がないのに惹きつけられる』

『この無個性が逆に個性』


――顔がない。


みんな、そう言っている。


莉奈は震える手で、新しい自撮りを撮った。


画面に映る自分。


顔の部分が、白くぼやけている。


目も鼻も口も――溶けている。


---


## 六


六日目。


鏡に映る自分は、もう「莉奈」ではなかった。


顔がない。


完全に、のっぺらぼう。


肌色の楕円があるだけ。


「いや……いやいやいや」


莉奈は鏡を叩いた。


でも映る姿は変わらない。


スマホを開く。


昨夜、寝ている間に投稿された写真がある。


――自分で投稿した覚えはない。


写真には、ベッドで眠る莉奈。


顔の部分が、真っ白。


「いいね」は10万を超えている。


コメント:


『完璧な美』

『顔がないから、誰でも自分を投影できる』

『これぞ究極の透明感』


莉奈は震えながら、母親に電話をかけた。


『もしもし、莉奈?』


「お母さん、私の顔、見える?」


『は? 何言ってるの』


「私の顔! ちゃんと見える!?」


『……莉奈、最近疲れてるんじゃない?』


電話を切った。


家族にも、見えていない。


莉奈は部屋の隅で膝を抱えた。


---


## 七


その日の夕方。


ユカが心配して家に来た。


「莉奈、大丈夫? 連絡ないから心配して」


ドア越しに、莉奈は答えた。


「大丈夫じゃない。私の顔、見える?」


「え?」


「私の顔! ちゃんと見える!?」


ドアを開ける。


ユカが莉奈を見て――表情を曇らせた。


「ごめん……莉奈だよね?」


「何言ってるの、私だよ!」


「だって……」


ユカは困ったように莉奈を見た。


「誰だか、分からなくて」


その瞬間、莉奈は理解した。


自分は消えている。


顔が、消えている。


存在が、消えている。


「帰って」


「莉奈――」


「帰ってよ!」


ユカを押し出し、ドアを閉めた。


---


## 八


七日目。


莉奈は決意した。


すべてを、終わらせる。


スマホを手に取る。


アプリを削除しようとした。


しかし――


画面が勝手に動く。


カメラが起動し、自撮りモードになる。


「やめて……」


シャッター音。


勝手に撮影された。


勝手に投稿された。


画面に映る写真。


そこには、顔のない莉奈が立っている。


「いいね」が、リアルタイムで増えていく。


10万、20万、50万――


コメント欄が爆発している。


『神』

『完璧すぎる』

『顔がないのに、こんなに美しい』


莉奈はスマホを床に叩きつけた。


画面が割れる。


しかし――


スマホは光り続けている。


通知音が鳴り止まない。


---


## 九


莉奈はスマホをゴミ箱に捨てた。


玄関を出て、そのまま街に出た。


SNSを断つ。


承認欲求を捨てる。


鏡を見ない。


写真を撮らない。


それで、きっと――


数日後。


莉奈は恐る恐る鏡を見た。


顔が、戻ってきている。


うっすらと、目鼻の形が見える。


「戻ってる……」


涙が溢れた。


やっと、自分に戻れる。


---


## 十


それから一週間。


莉奈は静かに暮らしていた。


SNSは見ない。


写真も撮らない。


ただ、日常を生きる。


ある日、街を歩いていると、見知らぬ女性が近づいてきた。


「すみません」


「はい?」


「写真、撮らせてもらっていいですか? インスタに載せたいんです」


莉奈は身構えた。


「いえ、遠慮します」


「え……でも」


女性は不思議そうに莉奈を見た。


「顔、写ってないから大丈夫ですよね?」


莉奈の心臓が止まった。


「……何?」


「だから、顔写ってないし、プライバシーとか問題ないかなって」


女性はスマホを向ける。


画面に映る莉奈。


服は写っている。


体は写っている。


でも――


顔の部分が、真っ白だ。


「いや……」


莉奈は後ずさった。


「ちょっと、どうしたんですか?」


女性が困惑する。


莉奈は走り出した。


人混みをかき分けて、走る。


ショーウィンドウに映る自分。


顔がない。


「嘘……嘘でしょ……」


スマホを捨てたのに。


SNSをやめたのに。


なのに――


交差点で信号待ちをしていると、隣にいた男子高校生がスマホを向けてきた。


「すみません、TikTokに使いたいんですけど」


「やめて!」


莉奈は叫んだ。


高校生が驚いて、スマホを下ろす。


「ごめんなさい……でも、顔写ってないから平気かと思って」


莉奈は膝から崩れ落ちた。


もう、戻らない。


一度失った顔は、二度と戻らない。


---


## 十一


その夜。


莉奈は部屋で、手鏡を見つめていた。


鏡に映る自分には、もう顔がない。


肌色の楕円があるだけ。


ノックの音。


「莉奈、入るわよ」


母親が部屋に入ってきた。


「ねえ、最近様子がおかしいけど、何かあった?」


莉奈は母を見上げた。


「お母さん、私の顔、見える?」


母親は困ったように微笑んだ。


「何言ってるの。ちゃんと見えてるわよ」


「本当?」


「ええ」


でも、母の目は虚ろだった。


まるで、何も見ていないような――


莉奈は理解した。


母も、見えていない。


ただ、「見える」と言っているだけ。


「そう……ありがとう」


母が部屋を出ていく。


一人になった莉奈は、窓の外を見た。


街の明かり。


人々の営み。


そこに、自分の居場所はもうない。


---


## 終章


翌朝。


莉奈のスマホに、メッセージが届いた。


送信者不明。


『顔を失った者へ。あなたは今、完璧な存在です。誰からも見られ、誰にも認識されない。これが、あなたが求めた承認の形です』


莉奈は震える手で、返信を打とうとした。


しかし――


指が、画面を通り抜けた。


「え……」


もう一度。


やはり、通り抜ける。


自分の手が、透けている。


鏡を見る。


体全体が、薄くなっている。


「いや……いやだ……」


莉奈は叫んだ。


しかし声は、誰にも届かない。


部屋のドアが開く。


母親が入ってくる。


「莉奈? いないの?」


母は部屋を見回す。


莉奈は目の前にいる。


「お母さん! ここにいるよ!」


しかし母には、見えていない。


聞こえていない。


母は首を傾げて、部屋を出ていった。


莉奈は床に座り込んだ。


もう、誰にも――


認識されない。


***


数日後。


莉奈のSNSアカウントは、フォロワー100万人を超えた。


毎日、自動的に投稿される写真。


そこには、顔のない少女が写っている。


コメント欄は、賞賛で溢れている。


『完璧』

『美しい』

『もっと見たい』


しかし、本物の莉奈は――


もう、どこにもいない。


ただ、写真の中だけに。


顔のない姿で。


存在している。


***


**了**


---


## あとがき


SNSの「いいね」は、何を見ているのでしょうか。


あなたの顔ですか?


それとも――


あなたが作り上げた「虚像」ですか?


鏡を見てください。


そこに映るのは、本当の「あなた」ですか?

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