第18話 教室の悪意

日曜日のあの出来事から、俺は桐生さんへの罪悪感を抱えつつ、天城先生の激しい嫉妬と独占欲を目の当たりに、動揺していた。ルシアンの魂は、まだエリシアに囚われている。その事実に安堵すると同時に、天城の支配から逃れられなくなる予感に、身が竦む。


月曜日の朝。重い足取りで教室に入ると、いつもと違うざわめきが俺を迎えた。


生徒たちは皆、教室の前方に集まり、ひそひそと何かを話している。その視線は、一点に集中していた。


「なんだ、朝から騒々しいな」


俺が教室内を覗き込もうとすると、俺の姿を見つけた幼馴染の祐樹が、慌てた様子で俺の腕を掴んで止めた。


「陽翔……!だめだ、今は行かない方がいい」


祐樹の顔は青ざめていた。その表情に、ただごとではないことを察する。


「なんだよ…」


俺は祐樹の手を振り払い、ざわめく生徒たちの肩越しに、無理やり黒板の方を見やった。


そして、俺の全身の血液が一瞬で凍り付いた。


黒板には、大きく殴り書きされた、悪意に満ちた文字。


『佐伯陽翔は最低のビッチ野郎』


その文字の下には、三枚の写真が貼られていた。


一枚は、美術展で俺と桐生さんが親密そうに並んで立っている写真。もう一枚は、天城先生がカフェで俺の耳元に顔を寄せている、あの日の写真。そして三枚目は、週末、天城先生が女性と歩いているところに、俺が偶然遭遇した現場を、遠くから隠し撮りしたような、ぼやけた写真だった。


俺と先生、そして見知らぬ女性、さらに桐生さん。すべての人間関係が、悪意を持って切り貼りされ、「佐伯陽翔は教師と常連客を股にかける、ふしだらな生徒」として仕立て上げられていた。


「なんだよ、これ……」


俺が呟いた途端、教室中の視線が一斉に俺に突き刺さった。生徒たちのひそひそ話が、急に止まる。


羞恥と怒り、そして心臓を鷲掴みにされたような恐怖が、俺の呼吸を奪った。


その時だった。静まり返った教室に、冷たく、威圧的な足音が響いた。


カツ、カツ、カツ。


「何事だ、騒々しい」


天城だ。いつものように完璧な教師の仮面をつけ、教室に入ってくる。


生徒たちが狼狽しながらも席に戻る中、天城は黒板に貼られた写真と、悪意の文字を一瞥した。彼の表情は、一瞬たりとも崩れなかった。しかし、その青い瞳の奥で、ルシアンとしての激しい怒りが渦巻いているのを、俺だけは感じ取ることができた。


「くだらない」


天城先生は、低い声で吐き捨てるように言った。


「高三という、この大事な時期に、こんなくだらないことをしている暇があるのか。君たちには、やるべきことがあるだろう」


彼は教卓に立つと、淡々とした声で生徒たちを諫めた。


「席につけ。これは立派な盗撮行為だぞ。それ以前に、クラスメイトへの悪質な中傷だ」


そして、彼の声に冷たい威圧感が混ざり始める。


「はあ…。知っての通り、佐伯の成績は学年でも上位だ。この時期、進路の相談にのることだってある。教師として言うべきではないとは思うが、成績上位の者を贔屓してもおかしくないだろう?学校だって、より多くの生徒にいい大学に行ってほしいのは事実だよ。優秀な生徒の足を引っ張るのはいただけないし、低レベルなゴシップに興じる暇はない。もし、この件に深く関わっている者がいるのなら――ことによっては、そいつの進路にも影響が出るかもな?」


その言葉は、もはや教師の指導ではなく、王子の威嚇だった。ルシアンの魂が、エリシアの魂を護ろうと、生徒全体に圧力をかけている。


生徒たちは黙り込み、全員が下を向いた。


天城は、冷たい視線で教室を見渡した後、ある一点でその視線を止めた。


俺は天城の視線の先を追った。


そこにいたのは、深月葵だった。天城を慕い、正面から陽翔に忠告をしてきたあの女生徒だ。彼女は顔面を蒼白にさせ、小さく震えているように見える。


(深月……?)


天城は、深月を射抜くような視線を数秒送った後、冷たく言い放った。


「二度と、このようなくだらないことはしないように」


天城は黒板に歩み寄り、写真を一枚ずつ、丁寧に剥がしていった。その指先が、桐生さんと俺が並んでいる写真に触れた時、一瞬、ルシアンの深い嫉妬が、彼の瞳の奥で青い火花を散らしたように見えた。


無言で写真と紙を全て回収し、無言でそれをゴミ箱に捨てた。


「では、今から授業を始める」


何もなかったかのように、天城はいつもの完璧な教師の顔に戻った。


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