第17話 本当に望むもの

天城が去った後も、俺はしばらく席から動けなかった。太ももに残ったあいつの指の感覚が、まだ残っているような錯覚に襲われる。


少ししてから俺は静かに立ち上がり、カフェスペースを出て、美術展の入り口の方へ向かった。桐生さんは、そこでずっと待っていてくれていたようだ。


「佐伯くん」


俺の姿を見るなり、桐生さんは安堵したように、しかし、どこか沈痛な表情を浮かべた。


「ごめん、待たせて。先生に急に捕まってしまって」


「ううん、大丈夫だよ。でも……」


桐生さんは、俺の顔を覗き込み、眉をひそめた。


「さっきの先生。あの人が、君の最近の悩みと関係があるのかな?」


その鋭い問いかけに、俺は一瞬、言葉を失った。


「そんな、まさか……」


俺は慌てて否定し、嘘をついた。


「違います。ただ、あの先生、急に担任になった人なんですけど、進路のことで俺と意見がぶつかってるんです。俺、就職したいと思ってるんですけど。あの人は大学に行けって、やたらと勧めてきて」


桐生さんは、俺の答えに深くは追及せず、ただ静かに頷いた。その優しさが、嘘をついた俺の胸をチクチクと刺す。


「そっか。進路の悩み、か」


桐生さんは、穏やかな瞳を遠くの壁に向けた。


「自分のやりたいことって、自分でも本当はよくわからなかったりするよね」


「え?」


「僕もね、なんとなく良いと言われる大学に行って、なんとなく安定した仕事に就いた。周りが望む道を歩いた。でも、それが本当に自分が求めていることなのかって、今でも時々わからなくなるよ」


彼は苦笑した。


「だから、いつもこうして美術館に来たり、カフェで本を読んだりして、自分の好きなこととか、やりたいことを常に探しているのかもしれない」


桐生さんの言葉は、すっと俺の中に入ってきた。


(俺の現世の目標は、母さんを支えること。エリシアの魂の使命は、ルシアンを救うこと)


天城先生(ルシアン)との背徳的な関係は、俺の現世の目標を脅かす「呪縛」だ。


「自分の人生を生きていいんだよ、佐伯くん。誰かのためでもなく、誰かの望みのためでもなく、君が本当に笑える未来を選んでいいんだ」


桐生さんは、俺の肩にそっと手を置いた。その温かい手の感触は、天城の支配的な指の冷たさとは、全く異なるものだった。


「僕がもし、君の進路の力になれることがあれば、いつでも言ってね」


桐生さんの純粋な優しさに、思わず涙が溢れそうになる。


「ありがとうございます、桐生さん」


俺は深々と頭を下げた。この温かい光に、俺はどこまで頼っていいのだろうか。天城から逃れるための、都合のいい避難場所として、桐生さんを利用しているのではないかという罪悪感が、俺の心に重くのしかかった。

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