第15話 アモルとプシュケ
そのまま流されるがままに桐生さんと美術館へ行く約束をし、俺の感情は揺れ動いていた。
一つは、エリシアの魂が、ほかの男と2人で出かけることに対して俺を責めている。
もう一つは、桐生さんと遊びに行くことを純粋に楽しみにしている俺の心。
桐生さんは俺のあこがれの大人だ。
物静かで、落ち着いていて、人当たりがいい。いつもスタッフを気遣ってくれて、俺以外のスタッフとも仲が良い。
以前、難しい本を読んでいたから何を読んでいるのかと聞いたら、面倒くさい素振り一つ見せず、わかりやすく丁寧に教えてくれた。話も上手で、それまで全く興味がなかった本だって、一度読んでみようかな、と思わせてくれるからすごい。
美術品なんて全然わからないけれど、桐生さんだったら上手に解説してくれそうだ。
天城とは全然違う、優しくて、温かい大人。
あの準備室での屈辱的な出来事。あれ以来、天城は俺を学校で呼び出すことも、カフェに現れることもなかった。その静寂が、かえって俺を不安にさせた。
(あのクズ野郎、完全に俺を弄んで放り投げたのか?)
そう思えば腹が立つ。
けれどもしかしたら、簡単に体を許した俺を軽蔑したのかもしれない、という恐怖にも襲われた。一度触れ合えば、俺のことだけを見てくれるかも、という期待があった。少なくとも、俺の中のエリシアはそう信じていた。
(…エリシアはお姫様だからな…。現代の貞操観念にはついていけなくてショックを受けてるかも)
エリシアのために、昼ドラでも見ようかな。
ちなみに、エリシアが俺に直接語り掛けることはない。なんとなく、こう感じているだとか、感情の揺らぎだとか、そういう自分と別の感情を感じ取ったときに、こっちはエリシアの心だ、という認識ができる程度だ。
桐生さんと遊ぶのは、天城以外にももっといい男性はたくさんいる、というのをエリシアにも理解してもらえるいい機会かもしれない。
そして約束の日がやってきた。
美術館前で待つ桐生さんは、柔らかなニットに身を包み、いつも通りの穏やかな笑顔だった。その姿は、天城の纏う、冷たい支配欲や、危険な色気とは正反対の、安心感を与えてくれる。
「陽翔君、来てくれて嬉しいよ。今日は楽しもう」
「こちらこそ、ありがとうございます。すみません、気を使わせちゃって…」
「いやいや!本当に僕が来たかったんだよ。つまんなかったらごめんね」
そう言ってふにゃりと笑う桐生さんは、カフェで会う時とは違って、少し幼く見えて可愛い。いつも難しい本を片手にコーヒーを飲んでいる姿を見ているからか。
受付でチケットを見せ、中に入る。
美術館の中はそこまで混んでおらず、涼しくて過ごしやすい。今日は絵画をメインに展示がしてあると聞いた。なにやらどこかの国の昔の有名な絵画を集めたイベントらしい。
「陽翔君、展示品の解説を聞きながらまわれるヘッドフォンを借りれるみたいだけどどうする?」
桐生さんが指をさした方向を見ると、受付の横にヘッドフォンの山があった。
追加料金を払えば借りれるものらしい。
「うーん。俺は桐生さんの解説で十分です。今日もそれを楽しみにしてたんで」
「ええっ …プレッシャーだなあ…」
「博識な桐生先生、よろしくお願いします!」
二人で他愛もない会話をしながら、展示室へと歩いていく。
「この絵、すごく綺麗だ。」
俺は一つの絵画の前で立ち止まった。
俺がふと口にした言葉に、桐生さんは静かに微笑んだ。
「これは、愛(クピド)と魂(プシュケ)の物語を描いた絵画だよ。プシュケは、試練の末に毒の瓶を開けてしまい、死のような眠りに落ちる。それを目覚めさせるのが、愛の神クピドのキスなんだ」
「へえ…有名なお姫様と王子の物語の映画みたいですね」
「そうだね。芸術は、時代や文化を超えて、人の魂を救おうとする。そして、この絵は、魂は愛によって救済されるという、普遍的な真実を描いている。」
「魂は、愛によって救済される…」
彼の言葉一つ一つが、俺の心の奥のエリシアとしての純粋さを肯定してくれるようで、自然と心が軽くなった。
「やっぱり桐生さんはなんでも知ってますね」
「ふふ、実は少し家で予習してきちゃったんだよね。陽翔君にいいところ見せたくて」
桐生さんが照れたように笑う。
その後も、気になった絵画があれば桐生さんが解説をしてくれた。
桐生さんは自分からうんちくを語るようなことはせず、俺が気になったことだけを丁寧に教えてくれる。こういう立ち回りが本当に素敵だ。
(なんて有意義な休日なんだろう。ここ最近の嫌な出来事なんて、すべてなかったみたいだ)
最近はずっと気を張っていたし、あいつのことを考えない日はなかった。
考えるたびに心は重くなり、あいつのいる学校で過ごす一日はとても長く感じた。
(ずっとこんな穏やかな日が続けばいいのに。)
しかし、その安堵は、一瞬で裏切られることになる。
美術展を一通り見終え、カフェスペースで休憩していた時だった。
「…佐伯くん?」
背後から聞こえた、冷たく、耳に馴染みすぎた声に、俺の身体は硬直した。
天城 陵。
彼は、休日にしては珍しく、シックなジャケットを身にまとっていた。その傍らには、モデルのように華やかで美しい女性が寄り添っている。
俺のテーブルの前までやってきた天城は、俺の隣にいる桐生さんを一瞥した。
「失礼。お楽しみ中だったかな?」
「天城先生……」
まさかこんなところで会うなんて。
学校では一切話しかけてこないくせに、プライベートの大事な時間には声をかけてくるなんて。その横暴さに怒りが込み上げるが、桐生さんの前で騒ぎを起こすわけにはいかない。
桐生さんは、すぐに状況を察したように、穏やかな表情のまま立ち上がった。
「佐伯君の学校の先生ですか?初めまして。僕は佐伯君の友人で、桐生といいます。佐伯君の友達にしては歳が離れていますが、怪しいものではありません」
「ご丁寧にありがとうございます。私は佐伯君の担任の天城といいます。佐伯君がお世話になってるようで。すみません、ちょうど佐伯君にお話ししたいことがありまして、少々彼をお借りしてもよろしいですか?」
「こちらこそご丁寧にどうも。…わかりました。じゃあ佐伯君、僕は先に出て待ってるね」
桐生さんは俺の頭をぽん、と軽く叩くと、天城先生に向かって会釈し、何も言わずに去っていった。その背中には、一切の動揺が見えない。
(桐生さん……)
天城先生は、去っていく桐生さんの背中を、まるで獲物を品定めするかのような瞳で見つめていた。その瞳の奥には、激しい嫉妬の炎が揺らめいていた。
「なんだ、あの男は」
天城先生は、俺の正面に座るなり、不機嫌そうに尋ねた。
「バイト先の常連のお客様で、友だちです」
「友だち?それにしても随分と親密なようだね?君は客に誘われたらどこでもほいほいついていくのか?それとも君から誘ったのかな?」
「なっ…!!」
「あの男、下心が見え見えだな。君も、付き合う友人は選んだほうがいい」
天城先生はそう言って、隣にいた女性を顎で示した。
「この女性は、以前の職場で知り合ってね。まだ若いが、語学のエキスパートだよ」
女性は俺に向かって優雅に微笑んだ。
「あら、陵の生徒さん?よろしくね」
女性はそう言いながら、天城の腕に自分の腕を絡ませる。
(この女のほうが下心見え見えじゃないか…!)
「三上くん、君もちょっと席を外してもらっていいかな」
「…わかったわ」
三上と呼ばれた女性は、しぶしぶといった様子で立ち上がり、去っていった。
それと同時に天城も立ち上がり、俺の隣の席に座る。
「目を離したすきに、もう新しい男ができたのかな?」
天城は俺の耳元に顔を寄せた。いつもの天城とは違う、女性ものの甘い香水の香りがする。
怒りと悲しみで、視界がぐにゃりと歪んだ。
俺が何も言えずにいると、俺の太ももに天城の指が触れた。
「…!!」
撫でられた太ももが、熱を持っている感覚。
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