第14話 休日のカフェで
準備室での出来事が、頭の中にこびりついたまま剥がれない。数日経っても、天城の唇のあの感触が、体中に冷たい粘着質のように残っていた。
「絶対流されるべきじゃなかった…」
あの女生徒との行為をわざと見せつけられた。俺を焚きつけるための罠だったのだ。あるいは、突き放すためか…。そして、それに抗うどころか、一瞬でも快楽を感じてしまった。
身体は鉛のように重く、疲労感だけでは説明できない倦怠感が骨の髄まで染み込んでいる。シャツの襟元からは、天城先生がつけていた香水の匂いが微かにするような気がして、思わず何度も嗅ぎ直した。
(思い出すだけで、体が熱い)
流されるままに及んでしまったけれど、天城が俺に夢中になって女遊びをやめてくれれば万々歳なわけで。
「まあ、経験皆無の俺には無理難題だよな」
ううーんと唸りながら独り言を呟き、豆を挽く。
休日のカフェのバイトは、普段なら安らぎの時間だ。だが今日は、カラン、とドアベルが鳴るたびに、心臓が跳ね上がった。
(来ないでくれ……でも、もしかしたら……)
来てほしいような来てほしくないような。
あれから学校で顔を合わせているが、あの出来事のような行為は一切ない。
結局、夕方を過ぎても、天城陵の姿はどこにもなかった。その事実に、俺は安堵と同時に、深い失望を覚えていることに気づき、さらに自己嫌悪に陥った。
完全にあいつのペースに持ち込まれている。
そもそも、恋愛沙汰には慣れていないんだ。おまけに前世はルシアンしか男を知らない、初心なお姫様。今の俺は、モデル顔負けの美しいクズ男に誑かされ、舞い上がってる女子の気持ちそのもの。
「陽翔君、今日は百面相だね」
目の前のカウンター席から、クスクスと笑う声が聞こえる。
「あ、桐生さん。…俺、そんなに変な顔してました?」
「変だなんて。今日は珍しく落ち込んだ顔をしていたからどうしたのかなって。ため息30回!」
「!数えてたんですか。すみません。俺、仕事中なのに…」
俺に声をかけてきたのは――桐生 慧(きりゅう けい)さん。
俺がここでバイトを始めた頃からの常連で、穏やかで知的な雰囲気があり、いつも分厚い洋書を読んでいる。年は二十代後半くらいだろうか。ゆるいパーマをあてた栗色の柔らかな髪の毛に、黒のタートルネックが似合う。カフェの静けさに溶け込んでいるような人だ。
「見てて面白かったよ」
「桐生さん、今日は遅くまで。いつもありがとうございます」
俺は努めて笑顔を作ったが、顔が引きつっているのが自分でもわかった。
桐生さんは、穏やかな瞳で俺の顔をじっと見つめ、静かにマグカップをカウンターに置いた。
「陽翔君、少し顔色が悪いよ。それに酷く疲れているように見える」
「いえ、大丈夫です。少し寝不足で……」
「無理しちゃだめだよ」
桐生さんは、珍しく読みかけの本を閉じ、俺にまっすぐ向き合った。
「もし何か悩みがあるなら、いつでも聞くよ。無理に話す必要はないけれど、君は一人で抱え込みすぎてしまう傾向があるように見えるから」
そう言って、柔和な笑みを見せる。
「そうだよ、陽翔君。君はいつも頑張りすぎちゃうからね」
俺たちの会話を聞いていた店長が、横から声をかけてきた。
「おうちのことも大変だと思うけど、たまには休日のバイトは休んで、でかけてきてもいいんだよ」
「店長」
俺のまわりはなんて良い人ばかりなんだ。
それに比べて、天城という男は…
「そうだよ、陽翔君。学生なんだから、もっと自由に遊んでいいんだよ」
「そうそう!美術館の招待チケットが2枚あるんだ。よかったら陽翔君にあげるよ。あ、でも高校生はあんまり興味ないか」
そう言って、店長はポケットから取り出した財布の中から、2枚のチケットを差し出す。
「あ、これ今期間限定の美術展のチケットですね。ちょうど僕も行きたいとおもってたんですよ。…店長、よかったら1枚僕がいただいてもいいですか?そしてのう1枚は、陽翔君に。」
「えっ」
桐生さんは店長からチケットを受け取ると、俺のほうに1枚のチケットを差し出す。
「決まりだね」
桐生さんが俺を見つめ、いたずらっぽく笑う。
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