第16話 沈黙
天城の顔が近づき、耳元で熱を帯びて囁かれる。
「エリシア。この数日、構ってもらえなくて寂しかったか?」
そう言って、天城は俺の太ももに爪を立てる。
こいつ、わざと俺を避けていたんだ…。そうやって、俺の反応を見て楽しんでいる。
俺は目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、桐生さんが教えてくれた『クピドとプシュケ』の絵画だ。毒によって眠りに落ちた魂を、愛の神のキスが救う物語。
そして、水辺で永遠の愛を誓った、ルシアンの澄んだ瞳。
俺はゆっくりと目を開け、天城先生の冷酷な青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「天城先生」
俺の声は、自分で驚くほど冷静で静かだったが、はっきりと響いた。
天城の表情が、一瞬だけ硬直した。テーブルの下で、俺の太ももを握っていた彼の指が、わずかに緩むのを感じる。
「…なにかな」
「俺には、あんたの考えていることが、まったくわからない」
俺は低い声で続けた。
「あんたは、これまでたくさんの女性や、俺を誑かそうとしてきたクズ教師だ。でも、あんたの中には、俺に命までも捧げようとしたルシアン・グレイヴの魂がある。そのルシアンは、最も信じていた者たちの裏切りによって国と俺を失い、絶望の中で命を落としたのだろう。その痛みが、今のあんたを変えた」
天城は、まっすぐ俺だけを見ていた。彼の瞳は、もはや「教師・天城陵」ではなく、「王子・ルシアン」としての激しい動揺に満ちていた。
「俺は、自分の気持ちが佐伯陽翔としてのものなのか、エリシアとしてのものなのか、時々わからなくなることがある」
俺は、一歩も引かず、ルシアンの魂の核心に踏み込んだ。
「でも、確かなことが一つだけある」
俺は、テーブルの下で震えている天城の手に、そっと自分の手を重ねた。
「あんたが現世に生まれ変わり、これまでどんなに最低なことをしてきたのかはこの際、問わない。」
俺は深呼吸をし、エリシアとしての、千年分の愛と悲しみを込めて告げた。
「エリシアは、お前を今でも愛している、と言っている」
天城の表情から、全ての血の気が引いた。彼はその場に凍り付き、呼吸さえ止まっているように見える。
「だから聞かせてほしい、天城陵。お前の中のルシアンは、どうだ?現世に生まれ変わり、愛への復讐という名の女遊びに明け暮れてきたんだろう。それでも……お前の中に、エリシアを想う気持ちが少し手も残っているなら」
俺の問いかけは、ルシアンが長年閉じ込めてきた、最も深い傷を抉った。
彼の完璧な仮面は崩れ、その青い瞳に、悲しみと、抗いようのない愛、そして、自己嫌悪が混ざり合った、複雑な感情が溢れ出す。
「……っ」
天城は、何も答えなかった。唇は何かを言おうとわずかに震えたが、音になることはなかった。
彼は、激しい苦痛に耐えるように、目を閉じ、そして一言も発さずに立ち上がった。
天城は、俺に背を向け、一歩踏み出す。その姿は、まるで何かから逃げ出すようだった。
(…ルシアン)
俺は残されたカフェの席で、静かに呼吸した。天城がつけていた香水の残り香と、女性ものの甘い匂いが混ざり合った、強烈な背徳の匂いだけが、そこに残されていた。
天城陵は、俺の問いに、何も答えられなかった。しかし、その逃亡こそが、ルシアンがまだエリシアのことを想っているという、何よりの証明だった。
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