第4話 愛の定義

天城が赴任してきた翌日。

午前中の授業をいくつか終え、午後の最初の時間は英語だった。英語は天城の担当科目だ。教室に入ってきた天城は、昨日の放課後とは打って変わって、教師らしい――いや、完璧な教師の仮面を被っていた。


女子達が小さく悲鳴を上げるのが聞こえ、それを遮るように天城が授業を始める。


「さあ、おしゃべりはそこまでにして、教科書を開いて。」


彼は教卓に寄りかかり、教科書を開く。その顔は、彫刻のように美しく、まるで造り物のようだ。


天城の英語は、驚くほど流暢で完璧だった。発音は正確で、その声のトーンは低く、聴いている者の心臓を直接撫でるような響きを持っている。


「…The greatest tragedy in life is not that men perish, but that they cease to love.」


(人生における最大の悲劇は、人が死ぬことではない。人が愛することをやめてしまうことだ)


流暢な発音を披露しながら、彼は淡々と解説を続けた。彼の美しい口元から紡ぎ出される言葉は、まるで前世のルシアン・グレイヴが、外国の貴賓をもてなす際に使っていた、優雅で知的な話し方そのものだった。


――不覚にも、見惚れてしまう。


(……かっこいい、と思ってしまった)


国を失う前の、純粋で高潔だった頃のルシアン。その面影が、今の教師としての有能さ、知性に強烈に重なり合う。心臓がドクンと嫌な音を立てた。


「陽翔?」


隣の祐樹が、俺のペンが暫く止まっているのを見て、心配そうに囁く。


「……なんでもねえ」


俺は慌ててペンを握り直し、脳裏に焼き付いたルシアンの残像を振り払う。


(ダメだ。惑わされるな。こんな奴、あのルシアンとは似ても似つかない)


その後は気持ちを立て直し、授業を最後までやり切った。進学しないとはいえ、勉強には手を抜かないと決めている。


昼食は祐樹と自席で済まし、午後は移動教室だ。

昼休みが終わるチャイムが鳴り、俺は生物室へ向かうため、急いで廊下を曲がろうとした。その時、前から歩いてきた人影と、派手にぶつかってしまった。


「うおっ、悪……」


謝罪の言葉を言いかける前に、その顔を見て、俺は凍り付いた。


「やあ、佐伯」


そこにいたのは、天城 陵だった。

彼は微動だにせず、俺の肩を掴んだまま、口元だけで笑った。


「また、逃げようとしていたのか?廊下を走るな、と教わっただろう?」


「すみません」


俺はすぐに距離を取ろうとしたが、彼の指の力が強くて離れられない。


天城は俺の顔を覗き込み、囁くように言った。


「まるで、獲物から逃げ出すウサギだな。昨日、職員室で、俺に向かって吠えた勇敢な君にしては、随分と腰が引けている」


彼の瞳は、獲物を追い詰める捕食者のそれだ。まさに狩人。


「あのときの言葉は、なんだったんだ?初対面の大人に使う言葉じゃないだろう」


「……本心です」


俺は反射的にそう言い返した。ここで逃げたら、こいつの思う壺だ。


「先生の言動は、教師として以前に、人として最低だと思います」


天城は、面白そうに目を細めた。


「人として最低、か。君の言う『人として』とは、一体何を基準にしている?大人には色々あるんだよ。これでも一応それなりに苦労はしていてね」


「……俺は、誠実さだと思います。愛を、誰にでも安売りするような人間は、誠実じゃない」


「ハッ」


天城は鼻で笑った。


「それは随分と都合のいい定義だな。平等に愛を与えることの何が悪い?一人を愛で縛るのは、ただの独占欲に支配された愚かな奴の行いだ」


天城は俺の肩から手を離し、一歩踏み込んできた。その瞬間、彼の身に纏う香水の香りが濃く、俺を包み込む。


「俺の言う『平等な愛』は、君の言う『安売り』とは違う。俺は、誰にも本気にならない。だからこそ、誰に対しても嘘をつかない。これが、俺の誠実さだ」


その瞬間、俺の脳裏で、あの湖で「ただお前だけを見て生きていきたい」と誓ったルシアンの顔が歪む。


「……先生のその『誠実さ』は、誰も幸せにしません」俺はそう絞り出した。


「あなたの、そのくだらない女性関係に、俺はもう一切の興味もありません。すみません、時間の無駄でした。」


俺はそれだけ言い捨て、ほとんど突き飛ばすように彼の横をすり抜け、全速力で生物室に向かった。


放課後。


俺はまっすぐ、バイト先のカフェ『フォレスト』に向かっていた。学校から自転車で15分ほどの場所にある、落ち着いた雰囲気の店だ。


バイトのエプロンを身につけ、カウンターに立つ。コーヒー豆の香りが、俺の張り詰めた神経をゆっくりと解きほぐしてくれるようだった。


「いらっしゃいませ!」


陽気な声で客を迎え、注文を受け、カウンターの中でドリンクを作る。この、目の前の仕事に集中している時間が、俺の現実であり、唯一の安息の時だ。


(天城なんて、どうでもいい。あのクズ野郎の顔なんか、もう二度と思い出すもんか)


しかし、そう心で命じていても、ふとした瞬間にあの男の顔が頭をよぎってしまう。

俺の心にはエリシアがいて、エリシアが泣いているのだ。


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