第5話 大人の余裕

天城の振舞いを改めさせて、こちらに振り向かせる。

それがエリシアの望みであるということは十分に理解していた。


(天城なんて、どうでもいい。俺の現実は、母さんと、学校と、このバイトだ)


そう心の中で呪文のように唱えていた、その時だった。


カラン、という軽快なドアベルの音と共に、ある意味、この世で最も聞きたくない足音が店内に響いた。


カツカツ。革靴の、心地よく軽快な響き。

その男が、こちらに向かって歩いてくる。


(天城…?!どうしてここに)


黒いスーツではなく、ダークグレーの落ち着いたトレンチコートを羽織り、学校での印象とは異なりラフな印象だ。マスクをつけてはいたが、その長身から滲み出るオーラは隠しようがなく、店内の客が一瞬、彼の姿に目を奪われるのが分かった。


そして、その鋭い眼光が、カウンターの中で固まっている俺を正確に捉えた。


「やあ、佐伯くん」


彼はカウンター席の一つに優雅に腰掛け、口元だけで微笑んだ。その表情は、教師としての仮面でも、昨日見せた捕食者の冷酷さでもない。ただ純粋に、面白いおもちゃを見つけた子供のような、無邪気な悪意に満ちていた。


「……あ、天城、先生」


俺は驚愕と動揺で、声が裏返る。なぜ、この俺の安息の地にまで、この男は現れるのか。


「驚いた顔だね。君がここで働いているとは知らなかった。君のクラスの生徒が、美味しいカフェだと教えてくれたんだ」


天城は足を組み替え、俺をじっと見つめる。


「さて、店員さん。カフェラテをお願いできるかな?ホットで」


「……カ、カフェラテを、お一つでよろしいですか」


「ああ、是非、君が淹れてくれたもので頼むよ」


俺は震える手で、コーヒー豆を挽き、エスプレッソを抽出し始めた。指先から熱が奪われ、氷のように冷たい。この男の存在が、俺の日常に、得体の知れない熱と冷気を持ち込んでいる。


ミルクをスチーミングし、慎重に注ぎ込む。その間、天城は一度も目を離さず、俺の作業を最初から最後まで観察していた。


「面白いな。学校では鬼のような形相で俺を罵倒したくせに、ここでは従順な店員だ。プロの顔、というわけか?」


「天城先生はお客様ですから」


俺は努めて冷静を装い、カフェラテを彼の前に静かに置いた。ミルクの泡の上に、俺の心情とは裏腹の、純粋な白いハートが描かれている。ハートを描くのはやめてやろうかと思ったが、これがウリのひとつなのだからしょうがない。


天城はカップを手に取らず、その白い泡を眺めながら、問いかけてきた。


「佐伯には、俺が最低な軟派野郎に見えているんだろうね?」


「よくおわかりで。教師のくせに生徒を誑かそうとする、最低クズ教師に見えてますよ」


「ハハッ」


陵先生は喉の奥で楽しそうに笑った。


「素直で結構。 けれど会って間もないというのに、君に俺の何がわかるんだい?」


彼の瞳が、俺の魂の奥底、つまりエリシアとしての記憶を覗き込もうとしているように感じた。


「もしかして、君自身が俺の特別な愛を欲しがっているのかな?」


天城が茶化した様子でからかってくる。

しかしその言葉は、俺の核を抉った。それは、エリシアの望みそのものだったからだ。


「俺は……っ」


言葉に詰まった俺を見て、天城がばつの悪そうにラテを一口飲んだ。


「軽い冗談のつもりだったんだけど…」


彼はそう言い、人差し指で口元についた白いミルクの泡をそっと拭い取った。

形のいい唇に、つい目がいってしまう。


彼は立ち上がり、レジに向かう。


「ごちそうさま。ところで、佐伯くん」


天城は会計を済ませた後、俺の耳元に顔を寄せた。香水の香りが再び濃く、俺の心を乱す。


「カフェラテ、すごく美味しかったよ。ごちそうさま」


そう囁き、彼は軽やかに自動ドアから出て行った。


俺は残されたカフェラテのカップを、茫然と見つめた。

完全にあいつのペースにのせられている。というか、遊ばれている…。

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