第3話 湖での誓い
職員室から飛び出した俺は、我を忘れて廊下を走っていた。下駄箱に辿り着き、乱暴にスニーカーに履き替えて校門から飛び出す。心臓は警鐘のように激しく鳴り続けていた。
「最低、クズ野郎!」
あの台詞は、エリシアとしての感情だったのか、それとも今の俺、佐伯陽翔としての、純粋な怒りだったのか。
ルシアン・グレイヴ。永遠の愛を囁き、命の限り俺を守ろうとした王子。その魂の欠片が、今、天城陵という軽薄な教師として目の前に現れた。
『俺の愛は、平等だ』
あの言葉は、エリシアと交わした永遠の誓いを、この上なく汚すものだった。千年の時を超えた再会が、こんな形で訪れるなんて、あまりにも残酷だ。
家に着くと、玄関から美味しそうな匂いがした。パートが休みの母親がいる証拠だ。
「ただいま」
「おかえり、陽翔」
リビングに入ると、ソファでうたた寝をしていた母さんが、ゆっくりと目を開けた。母さんはシングルマザーで、昼と夜、二つのパートを掛け持ちしている。今日は午前のシフトだけだったのだろう。
母さんの顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
「ごめん、起こしたな」
「ううん。ちょうど目が覚めたところよ」
母さんはふわりと笑ったが、その目元にはくっきりと疲れが刻まれている。
「陽翔、バイト休みって聞いてたのに珍しく帰りが遅かったから、お友達と遊んでるのかなって思ったんだけど違った?」
「ああ、ちょっと進路のことで山崎先生に捕まってただけ」
天城のことについては何も言わなかった。今はこいつの名前ですらも口にする気になれない。
進路と聞いて、母さんは少し心配そうな顔になった。
「本当にいいの?大学は行かなくて。確かに余裕はないけど、母さん少しは蓄えだってあるのよ?陽翔だって今もアルバイト頑張ってくれてるし、確かに仕送りは厳しいからこのあたりの大学にはなっちゃうけど、行きたい気持ちが少しでもあるなら……」
「大丈夫だって。母さんが苦労するの、見たくないんだ」
そう言って母さんの隣に腰掛ける。
「いつも感謝してる。今度は俺が、母さんを支える番だよ」
母さんは何も言わなかったけれど、少し涙ぐんで静かに頷いていた。
(そうだ、俺の現実は、あの夢の世界とは違う。俺には守るべき人がいる。最低軟派教師に構っている暇なんてない)
夕飯の支度を手伝い、自室に戻ったのは午後8時過ぎだった。そのままベッドに倒れ込む。学校での一連の出来事で、精神的な疲労が限界を超えていたらしい。
「少しだけ……」
そう呟き、目を閉じた瞬間、意識は深い闇に引き込まれた。途端、目の前に真っ青な景色が広がる。
水だ。冷たく澄んだ水面が、木漏れ日を反射している。あたりを見渡せば、深緑の森が広がっていた。静謐で、穏やかな光景だった。
俺は再び、エリシアとしてそこに立っていた。純白のドレスではなく、動きやすいワンピースを着て、足元は裸足だ。水辺の石の上には、誰かの脱ぎ捨てたブーツ。
「エリシア、こっちだ。まだ水は冷たいぞ」
湖の方から声がした。
ルシアンだ。
白いシャツ姿で膝まで水に浸かり、こちらを見て微笑んでいる。その顔には、一切の曇りはなく、ただ純粋な愛しさが浮かんでいる。
「ルシアン様!そんな深いところまで。風邪をひきますよ」
「お前の心配顔は、この世で最も尊い癒しの魔法だな」
ルシアンはそう言って、何かを片手に俺の元へ戻ってきた。
「エリシア、『忘憂翠』だ。この湖に自生している花で、この花を煎じて飲めば、嫌なことや苦しいこと、そういった負の記憶を忘れさせてくれる」
「私が忘れたいことなんてありません。貴方様との日々、一つたりとも失いたくありません」
「そうか。ならば、今ここで俺だけが口にしてしまおうか」
ルシアンは寂しげに笑った。
「貴方様の運命は、私の運命です」
俺はルシアンの胸に顔を寄せ、両腕を背に回す。
「貴方様が、私のそばにいてくれるなら、どんな運命でも受け入れます」
ルシアンは静かに、けれど力を込めて俺を抱きしめた。その胸の鼓動は、力強く、誠実だった。
「エリシア……愛している。この湖の近くに、別荘を建てるのもいいな。誰も知らない場所で、ただお前だけを見て生きていきたい」
彼の瞳は、水を湛えた深い青。澄んでいて、誠実で、暗い影など微塵もなかった。
俺は彼の誓いを信じた。その優しい眼差し、その温かい抱擁。それが、俺の全てだった。
「……はい。約束ですよ」
俺はルシアンの美しい唇に、そっと自分の唇を重ねた。水音だけが響く、世界で最も穏やかな時間だった。
「約束ですよ」
自分の唇が、夢の中の言葉を微かに反芻したのを感じて、俺は飛び起きた。
目覚めても、水辺の澄んだ空気と、ルシアンのシャツの匂いが残っているような錯覚に襲われる。身体中が温かい。まるで、本当に愛する人に抱きしめられていたかのように。
(ああ、なんて平和で、幸せな夢だ……)
夢の中のルシアンは、ただ一途で、ただ優しかった。
しかし、その幸福な余韻は、すぐに激しい現実の怒りに塗りつぶされた。
目を覚ました俺の脳裏に浮かんだのは、昨日の職員室での出来事。
愛を誓ったはずの純粋な王子は、最低教師となって現世に蘇った。
ルシアンが裏切ったのは、俺の愛だけじゃない。彼自身が誓った、あの湖での平和な未来さえも裏切ったのだ。
「殿下……」俺は枕に顔を埋めた。
そして決意した。
「必ず、現世のその最低な振舞いを改めさせてやる」
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