第49話 地獄に行くべき人間
蔵人はいつもよりも早くブランダウへ到着した。一度目と二度目の輸送の時に意図的に遅く到着していたのだ。
荷馬車の数は7台にも登った。今回の輸送では石材や、駐屯するための兵士のための生活物資、更には武器なども輸送することになっていた。
蔵人(馬鹿にしやがって……)
これは蔵人に対する一定の信頼ととも呼べるものだったのだが、それを屈辱に捉えていた。
護衛は当初の予定通り五人ほど、これが武装した人間全てだった。あとは御者などが六人程おり、先頭の御者は蔵人の役目だった。
蔵人の指示で予定よりも足を早めての出立だった。さらに強行とも呼べる日程で、本来の半分の時間で森の入口まで来ていた。
兵士「こんなに急ぐ理由は何なんだ?」
兵士が訝しげに問うた。
蔵人「実はな、雨が降るんだ」
兵士「なんでわかるんだよ?」
蔵人「昔は冒険者だったんだが、その時に膝に矢を受けてな……」
兵士「は、はあ……」
兵士は曖昧に頷いた。もちろん真っ赤な嘘だった。だが末端の兵士に蔵人の事情などわかるはずもない。
蔵人「それ以来雨の前兆として膝が痛むようになったんだ、だからさっさと済ませたい。特に森の中じゃあ道も舗装されていない。ぬかるんで馬車が通れなくなるなんてことになるのは、なあ?」
兵士「確かにそうだな」
兵士は深くは考えなかった。
強行軍の末、荷馬車の一団は三日も早く森の入口に着いた。その間、空は澄み渡り、一滴の雨も落ちなかった。兵士たちは「膝が痛む」という蔵人の言葉を信じ切っていたが、澄み渡る青い空と乾いた深い森を前に不服そうな目を向ける。
蔵人(ほらな……降るわけがない。いや、本当に降られたらそれはそれで困ったんだが)
心の中で嘲るように呟き、手綱を握る指に力を込める。
兵士「どうやら降らなかったみたいだな。あんたの膝も当てにならん」
兵士が皮肉を言う。
蔵人「いやいや、これから降るから! 絶対! 絶対にな」
蔵人は笑みを浮かべてごまかした。
森の中に拠点を設けるよう、蔵人は指示していた。粗末な木材を組み合わせた柵と見張り台、焚火の煙が漂う簡易的な野営地は、まるで小さな砦の様相をしている。
ここに集まったのは黒瀬狼牙率いる不良グループ、川治政宗の風紀委員、そして蔵人に説得されて参加を決めた男子生徒たち。彼らは皆、緊張と恐怖を隠しきれない顔をしていた。
森の隠れ家には簡易的な鍛冶場が設けられていた。学校の備品から盗み出した鉄を溶かし、槍へと打ち直したものが並んでいる。生徒たちはそれを手に取り、震える指で柄を握りしめた。
狙うのは兵士五人。彼らが運ぶ物資は膨大であり、守るにはあまりに手薄だった。
ことを起こす場所は、細い崖道。片側は切り立った崖下へと続き、もう片側は高い台地が広がる。その台地に拠点を築き、要塞化していた。
作戦は単純だった。蔵人が御者の兵士を一人刺し、指笛で合図を送る。その瞬間、崖上から矢と石を雨のように降らせ、狼牙たちが槍で兵士を囲み、逃げ場を与えずに殺す。退路は両側から塞ぎ、一人も生かして返さない。
出立前、蔵人は仲間に言葉を残していた。
蔵人「これは訓練じゃない。生き残るための戦いだ。ためらえば死ぬ。ためらうな」
その言葉に、場の空気はさらに重く沈んだ。誰もが理解していた。
蔵人「俺達は、黙って奴隷になどならん。友のことを、意中の女のことを考えろ! 奴隷にさせるな! 娼婦にさせるな!! 俺達が守らなければ、その先にあるのは緩やかない絞殺だ」
蔵人の演説は、仲間たちの胸に焼き付いた。彼らはその言葉を何度も頭の中で反復し、恐怖を押し殺す呪文のように唱え続けた。
極限の緊張の中で、仲間たちが仲間に語りかける。蔵人の言葉を、まるで祈りのように、語りかけた。
――馬車が来た。車輪の軋む音が崖道に響き渡る。馬の鼻息、荷の揺れる音。兵士たちの笑い声が近づいてくる。
その瞬間、全員の心臓が一斉に跳ね上がった。
蔵人「あんた、子供はいるのか?」
横に座る兵士に蔵人は話しかける。
兵士「ああ、一人な。帰りが待ち遠しいよ――」
その言葉が途切れるより早く、短剣が鎖骨から胸の中心へと深々と突き刺さった。兵士の瞳が驚愕に見開かれる。蔵人はその口を荒々しく塞ぎ、断末魔の声を遮断した。血の匂いが馬車の周囲に広がる。
馬が急に足を止め、鼻を鳴らす。異変を感じ取ったが、周囲の兵士たちはまだ危機感を抱いていなかった。彼らの視線は先頭の馬車の動きに集中していたが、何が起きたのか理解するには一瞬遅かった。
ピュ――。
甲高い指笛の音が森の中に響き渡る。
次の瞬間、崖上から矢と石が雨のように降り注いだ。
蔵人「なんだ? なんだ?」
蔵人はわざとらしく狼狽を装い、御者席で身を縮める。演技は巧妙で、敵の注意を逸らすためのものだった。
御者「早く前へいけ!!」
後ろの荷馬車の御者が怒鳴った。しかし蔵人は進まない。手綱を握ったまま、じっと動きを止めていた。
兵士「何をやっているんだ!!」
一人の兵士が焦り、崖側から回り込んで荷馬車を盾にしながら蔵人の馬車へと迫る。矢が彼の肩をかすめたが、まだ致命傷には至らない。
兵士「へっ?――」
次の瞬間、蔵人が構えていたクロスボウの弦が鳴った。矢は一直線に兵士の顔面へ突き刺さり、驚愕の声は途切れた。
蔵人は冷ややかに弦を引き直し、次の矢を番える。
投石が止むと、前方からは槍隊が槍衾をしきながら突撃してきた。蔵人はその槍隊の後ろに周りクロスボウを構えながら、残った兵士と御者たちを崖際に追い詰めていく。
軽装の兵士たちは、投石によってかなりのダメージを受けていた。残りの兵士三人、生き残った御者三人が、生徒たちに取り囲まれる。
兵士「これは一体どういうことだ!!」
蔵人「問答無用だ」
御者「た、助けてくれ、家族が居るんだ」
御者の一人が膝をつき、必死に叫んだ。その言葉を遮るように、蔵人はクロスボウを放った。矢は御者の胸を貫き、声は途切れた。血が崖道の石を濡らす。
蔵人「なにをビビっているんだ、崖下に突き落とせばそれで終いだ、早く追い立てろ」
しかし、生徒たちは思うように動かなかった。槍を構えながらも足はすくみ、視線は血に染まった地面に釘付けになっていた。
彼らの胸に渦巻いていたのは恐怖だけではない。
――これは本当に正しいことなのか。――自分たちの行いは正義なのか。
その問いが、矢よりも鋭く心を突き刺していた。
蔵人「ユーリとレンを思い出せ!! こいつらは、俺達を物乞いに!! 娼婦にするために働いているんだ!!」
蔵人の声は怒号となって崖道に響き渡った。
蔵人「俺達が今、手を止めたら――取り返しがつかないんだ!! 奴らに従えば、待っているのは緩やかな死だ!! 地獄のような、緩やかな死だ!!」
生徒たちは槍を握りしめながらも、足がすくんでいた。血の匂い、兵士の断末魔、御者の「家族がいる」という叫び――それらが胸を締め付ける。
だが蔵人の言葉は、彼らの耳に呪のように響いた。「物乞い」「娼婦」――その未来を思い浮かべた瞬間、恐怖は怒りへと変わり始める。
狼牙が唇を噛み、政宗が拳を握りしめた。
彼らの瞳に宿る迷いは、少しずつ消えていった。
狼牙「うおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」
その雄叫びは崖道に響き渡り、仲間たちの心を震わせた。恐怖に縛られていた足が動き出し、槍が突き出される。政宗が「前へ!」と叫び、風紀委員たちが続いた。
生徒たちは初めて人を殺すために突撃した。
――もう戻ることなどできない。生徒たちの手を血に染めさせたのだから。そう蔵人は心のなかでは呟く。
どこか暗く、どこか遠いような不思議なまなざしをしながら、蔵人は狼牙の手を握った。
蔵人「お前たち、よくやった。俺と、お前たちは、一緒だ……」
そして一人ひとりの手を握り、また労いの言葉をかける。その手が触れるたびに、生徒たちはごちゃ混ぜになった感情が和らいでゆく。ただ、触れただけなのに、人とはおかしなもので、それだけで不安が少し和らぐものだった。蔵人はそれを知っていた。知っていて、利用したのだ。
蔵人は自分が死んだあとは地獄に行くと思った。地獄に行くべきだと思った。
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