第44話 ブケファロス
翌日も、訓練場に砂埃が舞った。
楓は優雅に馬を操り、アレックスは軍人のように堂々と馬上に構える。透子やレイジもぎこちながらも着実に上達していた。
ただ一人、蔵人だけは相変わらず馬に振り回されていた。鐙に足をかければ体勢を崩し、馬の首にしがみついては無様に転げ落ちる。兵士たちの失笑がまたもや響いた。
兵士「おいおい、昨日と同じじゃないか」兵士「馬に満足も乗れないのか!!」
蔵人は砂まみれの顔を上げ、苦笑を浮かべた。笑って誤魔化すことしか、蔵人は自尊心を保てなかった。
その時だった。訓練場の端から、黒鹿毛の巨馬がゆっくりと歩み出てきた。
堂々たる馬体、吸い込まれるような漆黒の毛並み。昨日、蔵人が馬小屋で出会ったブケファロスだった。
兵士たちがざわめく。
兵士「なぜあの馬が……! 誰にも懐かない暴れ馬のはずだぞ」兵士「誰も近づけなかったのに……」
ブケファロスは、まっすぐに蔵人の方へ歩み寄った。
蔵人は思わず立ち上がり、砂を払う。
蔵人「なんだよ、お前も笑いに来たのか! まったく、どいつもこいつも!」
巨馬は答えるように鼻を鳴らし、蔵人の前で立ち止まった。
その瞳は、昨日と同じく月の光を宿したように澄んでいた。
蔵人はゆっくりと手を伸ばす。兵士たちが息を呑む中、ブケファロスは拒むことなく首を差し出した。
蔵人の掌が黒い毛並みに触れた瞬間、巨馬は静かに頭を下げた。
蔵人「よーしよし! いい子だねえ!!!」
楓「そのお馬は?」
蔵人「昨日の夜に会ったんだ。夜なのに勝手に馬小屋からでてたんだよね。すっっげー高そうな馬だよな」
楓がそばに寄った瞬間、ブケファロスは暴れ出した。
楓「きゃっ!!」
蔵人「ほーら落ち着けって、おい楓! ちょっと離れろって! そいつ影が苦手なんだよ!!」
楓は離れる、そうするとブケファロスは落ち着きを取り戻した。
蔵人「昼間は影が濃いからなあ。ほれキツネさん!!」
兵士「鞍すらつけられなかったあの馬を……」兵士「嘘だろ……」
兵士たちがざわめき出したので、オルフェリアも気になって近寄ってきた。
オルフェリア「誰も手懐けられなかったその馬を、良く手懐けたな」
蔵人「手懐けてねーよ。むしろ逆? 俺が手懐けられたっていうか、励まされたっていうか」
オルフェリアは首をかしげる。
蔵人「こいつ、影に怯えているんだよ。まさに伝説の馬ブーケパロスと一緒って感じ? すげーよなあ」
楓「ブーケパロス?」
蔵人「アレキサンダー大王の愛馬だよ」
楓「よく知ってますわね。アレクサンドロス大王の馬の名前なんて」
蔵人「まあ……うん……多少はね?」
もちろんアニメ作品の影響だった。
オルフェリア「乗ってみてはどうかね」
蔵人「無理だろ……だって普通の馬でも乗れないんだぞ」
オルフェリア「ものは試しというじゃないか」
蔵人「……え、だれが鞍つけんの?」
もちろん蔵人だった。
蔵人は渋い顔をしながら、鞍を抱えてブケファロスの前に立った。
蔵人「……絶対蹴られるやつだろ、これ」
兵士たちは固唾を呑んで見守る。誰も近づけなかった暴れ馬に、異邦人が鞍をつけようとしているのだ。
蔵人「ブケちゃん蹴らないでくれよな~頼むよ~」
蔵人は慎重に、馬の背に鞍を乗せた。ブケファロスは一瞬耳を立てたが、暴れることなくじっとしている。
革紐を締めるときも、巨馬は微動だにしなかった。むしろ、蔵人の手の動きに合わせて体を少し傾けるようにすら見えた。
オルフェリアは目を細め、感嘆の声を上げる。
オルフェリア「……信じられない。誰も近づけなかったあの馬が、まるで従者のように振る舞っている」
楓は不安げに蔵人を見つめた。
楓「蔵人さん……本当に乗るつもりですの?」
蔵人は肩をすくめ、苦笑した。
蔵人「乗れって言われたからな。まあ、死んだら恨むけど」
そう言って鐙に足をかける。昨日までなら、ここで体勢を崩して砂に転げ落ちるのが常だった。
ブケファロスが興奮しだした。しかし、全てを受け入れない今までのブケファロスとは違った。
蔵人「ああ、影が! ごめんごめん」
その言葉に反応してなのか、ブケファロスは落ち着きを取り戻した。蔵人は反対側から乗るとブケファロスは背に受け入れた。
巨馬は鼻を鳴らし、ゆっくりと歩き出す。蔵人の体は不思議なほど安定していた。
兵士たちがざわめき、楓は目を見開いた。
兵士「嘘だろ……あの馬に乗れるなんて」兵士「まじかよ……ヨーゼフなんて蹴り殺されたんだぞ」
蔵人は馬上から皆を見下ろし、苦笑を浮かべた。
蔵人「……いや、俺は何もしてないんだ。本当に。なんて言いうか、全部こいつに任せてるっていうか、なんというか」
その言葉に、オルフェリアは意味深な笑みを浮かべた。
ブケファロスは歩みを止めると、蔵人の合図もないまま軽く首を振った。まるで「次は走るぞ」と告げるように。
蔵人は慌てて手綱を握りしめる。
蔵人「おいおい、早いって!! ……俺まだ初心者なんだぞ!」
だが巨馬は、蔵人の声に応えるように速度を緩め、訓練場を一周するだけで止まった。
その姿は、まるで蔵人の未熟さを理解し、合わせているかのようだった。
兵士たちは口々に驚きを漏らす。
兵士「……信じられん。あの馬が人に合わせている」兵士「いや、まるで主従が逆だぞ。どっちが手綱を引いているのやら」
蔵人は馬上で肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
蔵人「俺は何もしてないって言ってるだろ!! 全部こいつがやってるんだよ!! もう降りたいんだが!! 止まるんだブケファロス! ブケちゃん!! お願い!! 助けて!!」
ブケファロスは鼻を鳴らし、蔵人の言葉を拒否するかのように、どこまでも走り去っていく。
訓練場を飛び出したブケファロスは、城下の石畳を駆け抜けた。蔵人は必死に手綱を握りしめ、体を預けるしかなかった。
蔵人「やめろって! 人引いたら俺の異世界人生おわる!! 終わっちゃうのおおおおお」
だが、巨馬の走りは驚くほど滑らかで、蔵人の体は不思議なほど安定していた。まるで馬が彼を守るように、石畳の段差を避け、群衆の間を巧みにすり抜けていく。
城下の人々は目を見張り、口々に叫んだ。
町人「見ろ! あの暴れ馬を乗りこなしている!」町人「すげええや」
蔵人は必死に否定する。
蔵人「違うのおおお!! 助けて!! 死ぬうううう!! あと道を開けろ!! 死ぬううううう!!!」
だが群衆の目には、彼が堂々と馬を操っているようにしか映らなかった。
やがてブケファロスは城門前で急停止し、鼻を鳴らして誇らしげに立ち上がった。 蔵人は振り落とされることなく、馬上に留まっていた。
蔵人は馬上から皆を見下ろし、肩をすくめた。
蔵人「降りるの手伝って……腰が抜けちゃった……」
ブケファロスは静かに鼻を鳴らた。
群衆の歓声が城門前に響き渡る。兵士たちも駆け寄り、口々に驚きを漏らした。
兵士「……すごかったぞにいちゃん!!」兵士「振り落とされなかっただけでも大したもんだぜ!」
その声に導かれるように、辺境伯が姿を現した。豪奢な外套を翻し、群衆を見下ろす。
辺境伯「ほう……これは面白いものを見せてもらった」
蔵人は馬上で青ざめた顔を浮かべ、必死に言い訳をする。
蔵人「全部ブケちゃんがやったこと、僕は知らない、済んだこと、死ぬかと思った……」
だが辺境伯は豪快に笑い声を響かせた。
辺境伯「ふははは! よいではないか。馬が人を選ぶなど、騎士道物語や古の伝説そのものよ! その馬はくれてやろう!!」
辺境伯の従者「い、いやあ、ソレはちょっと、この馬は高い……」
辺境伯「誰も乗れない馬など、あっても無用の長物よ」
辺境伯の従者「種馬としての価値が……」
辺境伯「あれは牝馬ぞ」
辺境伯の従者「そういう問題ではありませぬ!!」
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