第43話 月夜の黒馬
蔵人たちは数日の間、辺境伯の城下で乗馬の訓練を受けていた。
生徒会の面々は飲み込みが早く、楓などはすぐに姿勢を整え、優雅に馬を操ってみせた。アレックスも軍人のように背筋を伸ばし、堂々と馬上に構える。透子やレイジもぎこちながらも順調に上達していった。
ただ一人、蔵人だけが馬に振り回されていた。
鐙に足をかけるたびに体勢を崩し、馬の首にしがみついては砂埃を巻き上げて転げ落ちる。
見物していた兵士たちが失笑を漏らす。
兵士「おいおい、あれが噂の“森の族長様”か?」兵士「馬にすら乗れんとはな」
その声に、楓は思わず眉をひそめた。
楓「笑うことはありませんわ! 彼は……」
言いかけて、楓は口をつぐんだ。蔵人がこちらを一瞥し、わざとらしく肩をすくめて見せたからだ。
蔵人「いいんだよ。事実だし」
軽口を叩きながらも、蔵人の目はどこか悔しさを滲ませていた。
夜、訓練を終えた蔵人は、馬小屋の隅で一人腰を下ろした。藁の匂いと獣の息遣いの中で、彼は小さく呟く。
蔵人「馬小屋って、臭いな、凄く」
月明かりが眩しいくらいの夜だった。
自室へ帰ろうとした時、一頭の馬が暴れているのを見た。
吸い込まれそうなほど真っ黒な、黒鹿毛の堂々としたその馬体は、そのへんの馬とは一線を画す威圧感を持っていた。素人の蔵人ですら、惚れ惚れする馬だった。
蔵人「たっかそう……」
不用心に近づいた蔵人に見向きもせずに、なにかに怯えるように暴れるその馬を、蔵人は不思議に見ていた。
蔵人「そういえば、アレキサンダー大王の馬ってこんなんだったよな。影に怯えているんだっけ」
蔵人は自然とその馬をブケファロスと呼んだ。
蔵人「大王はどうやって影を影だと教えたんだっけな」
蔵人は中指と薬指を親指につけて人差し指と小指をピン、と立てると、いわゆる影絵遊びをした。
蔵人「こんこんこーん!」
その姿に、ブケファロスは自然と蔵人に目線を移した。
蔵人「これはカニさん! これは鳩! これは白鳥だ!!」
次第に興奮が収まってきたブケファロスは、蔵人の影絵をじっと見る。
蔵人「そしてこれは犬!! ワウォーン!!」
少し驚いたブケファロスは、鼻息を荒くした。
蔵人「ゴメンナサイゴメンナサイ! 許して?」
蔵人は両手を振って必死に謝るような仕草をした。
すると、黒鹿毛の巨馬――ブケファロスは荒い鼻息を一度吐き出し、やがて落ち着いたように首を下げた。
月明かりが頭上から落ちてくると、その全容を怪しく照らし出した。その姿は、まるで影そのものを飲み込んだような威容だった。
蔵人は恐る恐る手を伸ばす。
蔵人「……触っていい?」
ブケファロスは一瞬耳を立てたが、拒むことなくじっとしていた。
指先が黒い毛並みに触れると、驚くほど滑らかで温かい感触が伝わってきた。
蔵人は思わず笑みを漏らした。
その瞬間、馬の瞳が月明かりを反射し、蔵人を見返した。
蔵人「美しいな。美しいやつは目が違う。楓も弦音も、オルフェリアも。俺とは違ってな」
蔵人は深く息を吐き、馬の首筋を撫でながら呟いた。
ブケファロスは静かに鼻を鳴らし、蔵人の言葉に応えるように首を振った。その姿に、蔵人は奇妙な親近感を覚えた。
蔵人「俺も、お前みたいに立派なやつになりたかった。だれと比較しても、なんの見劣りもしない、正しいことだけをすることのできる、そんな立派な人間に」
蔵人の沈んだ瞳の、陰鬱とする寂寥感を察してなのか、ブケファロスは自らの頬を蔵人に当てた。
蔵人「お前は優しいんだな。ますます嫉妬するよ」
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