催花雨の蛇の目

夜染 空

催花雨の蛇の目【修正版】

『催花雨の蛇の目』

【さいかうのじゃのめ】



露子 (つゆこ)とある理由で喋る事を辞めた女性。元は話すことが出来た。雨宿りをきっかけに弥次郎と出会う。年齢20歳


弥次郎 (やじろう)蛇の目傘の職人。 雨宿をきっかけに露子と出会う。年齢30代ぐらいで職人気質な所があって粗暴な喋り方をするが途中で敬語が抜けない


志水 (しみず)露子の家に仕える使用人。60代ぐらいの女性で物事をはっきり言う所がある。


----


露子:「M/その人は、まるで傘のような人だった。何も言わず、ただそこにいて、静かに晴れを待つ人…」


弥次郎:「お嬢さんも、雨宿りですかい?」


露子:「M/彼はそう言って私に話しかけてきた。けれど、私は何も言葉を発することなく、ただ軽く頷いた」


弥次郎:「災難だったなぁ、さっきまでお日様が顔を出してたってのにな。」


露子:「M/そして、それ以上何も言わず、私とその人は、ただ晴れを待っていた。」


露子:「M/まだ肌寒いというのに、その人は*作務衣さむえを着て、足は草履…。なんと言うか、季節感のない格好だった。」


露子:「M/何かの職人さんなのだろうか…気になった私は、その人をじっと見つめていた。」


弥次郎:「…そんなに見つめられると、緊張するなぁ」


露子:「M/私の視線に気づき、困ったような顔をして、その人は頭を掻いた」


弥次郎:「あぁ……顔じゃなくて、この格好かな?」


露子:「M/私は、小さく頷く。」


弥次郎:「雨宿りのお供だとしても、自己紹介は必要だったな。俺は弥次郎。蛇の目傘の職人だ」


露子:「M/蛇の目傘…祖母が大切に使っていたあの傘も、確か蛇の目傘という名前だった。藍色と濃紺の2色の傘。祖父からの贈り物だと言って、死ぬまで手放すことのなかった傘…この人は、それの職人だったのか…」


弥次郎:「お嬢さんは、なんて名前だい?」


露子:「M/聞かれてハッとする。私は咄嗟に服のポケットから紙とペンを取りだし、自分の名前を書く」


弥次郎:「…*堂島露子どうじまつゆこ……あぁ、口の聞けないお嬢様ってのはお嬢さんの事かい」


露子:「M/弥次郎さんはなにかに納得したと言った感じで、目を細めて言葉を続けた。」


弥次郎:「職人の間でな、ちっとばっかし話題になってな。良いとこのお嬢さんで、美人だが口が聞けない子がいる…とね。…おっと、口が聞けないなら喋っても意味ないか…」


露子:「M/私は紙に言葉を書く」


弥次郎:「ん?耳は、聞こえている……?」


弥次郎:「そりゃ困ったな…失礼なことを言ってしまった」


露子:「(ここからM/と付いていないセリフは筆談)気にしないで、いつもの事」


弥次郎:「いつもの事…」


露子:「どんな言葉も、届かなければ…気にしなければ、ただの独り言。だから、気にしてない。」


弥次郎:「…それで、良いのかい?その言葉が、お嬢さんに向けて放たれた、酷い言葉だったとしても」


露子:「そうだったとしても、私が気にしなければ、頭には入らない。」


弥次郎:「…そうかぃ」


露子:「M/そう言って、弥次郎さんは悲しげな顔をして視線を逸らした。」


露子:「M/私にとって、私に向けられる酷い言葉は、全てその人の独り言。だから気にしていない。それは事実。どんな言葉も、相手に届かなければ意味が無い…。だから、気にしていない…。」


弥次郎:「…おや、雨が止んできたかな?」


露子:「M/…嘘。まだ雨は降っている。匂いがする。」


露子:「気まずくなってしまったのだろう…弥次郎さんはそう言って、私から逃げるようにその場を去ろうとした」


弥次郎:「…また、どこかで。」


露子:「M/手を振ることも、会釈をすることも無く、私はその背中を、ただただ見送った」


0:間


志水:「おかえりなさい。遅かったですね」


露子:「M/帰宅すると、使用人の*志水しみずさんが私をキッと睨みつけて立っていた」


志水:「旦那様から迎えに行くよう言われましたが、要らぬ心配でしたね。帰ってきたのですから。」


露子:「M/この人は、私の事が嫌いだ。話のテンポが合わない。筆談もまともに出来たことがない。何かを伝えようと紙に文字を書く動作すら、遅いと言って会話にならない。」


志水:「*露子つゆこさん、帰りが遅くなるのは仕方がありません。ですが、あなたは口が聞けないのですから、奥様や旦那様に心配をかけるような事は控えて頂きたいです。」


露子:「M/そんなこと、分かっている。今日はたまたま…雨に降られて、傘を持っていなかっただけ。ただそれだけ。」


志水:「ただでさえおふたりはお忙しい身なのです。余計なことを考えさせてお仕事に支障が出ては困ります。気をつけてください。」


露子:「M/あぁ、この人は……心底私が嫌いなんだな…」


露子:「M/そんな気持ちを胸にしまい、私は深く頭を下げて自室に向かう。」


0:後日


弥次郎:「ごめんください」


志水:「はいはい……。あら、井口屋様。」


弥次郎:「どうも。旦那様はご在宅で?」


志水:「*生憎あいにく留守にしていまして…ご要件をお伺いしても?」


弥次郎:「頼まれた傘が出来上がったので、それを伝えに……店に来てもらえるとの事だったので、言えば分かるかと。」


志水:「承知しました、戻りましたらお伝えします。」


弥次郎:「えぇ、よろしくお願いします。……ところで、お嬢さんは?」


志水:「お嬢……?露子さんですか?」


弥次郎:「はい、先日偶然雨宿りのお供をしまして…風邪など引いていないかと…」


志水:「問題ありませんよ。まぁ、風邪をひいた所で*わたくしには関係の無いことですけどね」


弥次郎:「……どう言う意味で?」


志水:「*わたくしはこの家に使える身ではありますが、露子さんの使用人ではありません。ご自分のことはご自分でやって頂いてますので。」


弥次郎:「…お嬢さんは、何も言わないんですか」


志水:「何をおっしゃいますの?あの子は、口が聞けないじゃありませんか。話もゆっくり。紙に書くまでの時間が無駄でしかありません。」


弥次郎:「そんな言い方!」


志水:「井口屋様、*わたくしは、私のやり方で彼女と関わっています。口出しされる筋合いはありませんよ」


弥次郎:「…失礼」


志水:「では、旦那様に傘の件お伝えしますので。」


弥次郎:「…よろしく」


露子:「M/耳喋らない。それだけで、私は人から嫌われる。それは構わない。私も自分が嫌いだ。だからこそ、弥次郎さんのような人は珍しい。」


露子:「M/だからこそ、近づきすぎてはいけない。きっと、傷つけてしまうから…」


----


露子:「M/数日後、弥次郎さんが傘を持って家にやってきた。志水さんは外出していて、私が対応することになった」


弥次郎:「…どうも。」


露子:「M/ぎこちない挨拶。緊張…ではない。あの日、逃げ出すように去っていったことを気にしているのだろうか…」


弥次郎:「旦那様に頼まれた傘…色が気に入らないと作り直しを命じられまして…直して持ってきました…」


露子:「(ここから筆談)…父は数日帰りません」


弥次郎:「…そりゃ困ったな…いつ帰るか聞いてますか」


露子:「予定を言わずに出たので、分かりかねます…」


弥次郎:「……そうか。」


露子:「お預かりしましょうか?」


弥次郎:「いや、ダメだ。1度直せと言われたものを人様に預けるなんて出来ない!」


露子:「…すみません、軽率でした」


弥次郎:「あっ…いや、違うんだ…お嬢さんのせいじゃなくて……」


露子:「いえ、私が軽率な言葉を使ってしまったばかりに、弥次郎さんに大きな声を出させました。すみません。」


弥次郎:「…私の方こそ…申し訳ない。」


露子:「父が帰ったら伝えます。」


弥次郎:「頼みます……」


0:外出していた志水が戻る


志水:「…あら、井口屋様、どうしたんです?」


弥次郎:「あ、どうも…。傘の直しをしたので、それを伝えに…」


志水:「旦那様が戻るのは来週ですよ。傘はその辺に置いて行ってくれれば良いと仰ってました。」


弥次郎:「…そんなっ!」


志水:「2代目の腕がどんなものかと思えば…先代様のようにはまだ上手く作れないと、ため息をついてました」


弥次郎:「…まだまだ修行中の身でして…申し訳ない」


志水:「先代様の作る傘は実に見事でした…その技術を一番近くで見ておきながら、何も学べていないのではないのですか?」


弥次郎:「……。」


志水:「店を畳むことをオススメしますよ。」


弥次郎:「それは出来ない!先代の…父の残した大切な店だ!」


志水:「でしたら、早くそこに追いつくことですね…あら露子さん、居たんですか?」


露子:「M/視界に入っていたはずなのによく言う…」


志水:「来客に失礼がなかったでしょうね?口が聞けないのだから、わざわざ出てこなくてよろしいのに」


弥次郎:「そんな言い方はないでしょう…!」


志水:「事実ですよ。」


露子:「M/まぁ、間違ってはいない。会話が成立するのに時間がかかる家人が対応しても、気持ちの良いものでは無い。誰もが気を使い、足早に去っていくのが目に見えている」


志水:「さっさと部屋にお戻りくださいな。」


露子:「M/…言われなくてもそうしますよ。」


露子:「M/苛立ちを覚えつつも、小さく会釈をして部屋に戻る。」


弥次郎:「……あなたは、気遣いが出来ないのですか」


志水:「これでも気を使っているつもりですよ。」


弥次郎:「ならもう少し、伝え方があるでしょう」


志水:「喋らない。それだけで他の人と円滑な会話が成立しない。ならば、人目に晒さない。余計なことをさせない。…私なりの優しさですよ。」


弥次郎:「それは優しさではない…ただ存在を否定しているのと変わらない…!」


志水:「ならば、あなたが優しくしてあげれば良いでしょう。嫁にでも貰ってくれれば、旦那様も奥様もお喜びになりますよ。きっと」


弥次郎:「……それはっ」


志水:「できないのなら、余計な口を挟まないで頂きたい」


弥次郎:「…傘は、持ち帰ります。また伺います。」


志水:「えぇ、その時旦那様が家にいれば良いですね。」


弥次郎:「…失礼します」


露子:「M/自室の窓から、*項垂うなだれながら帰っていく弥次郎さんを見ながら、私は、やはり誰かを傷付けてしまうのだと再確認した。私に関わる人は、何かしら傷を負う…私は、人と関わるべきでは無いのだ……」


---


露子:「M/結局、弥次郎さんが直した傘は父に気に入られることはなかった。先代の腕が良過ぎた。君はまだその域ではない。そう言って父は一度も礼をすること無く静かに弥次郎さんを追い払った。」


露子:「M/見た目には美しい、緋色と橙と白の傘。父は何が気に入らなかったのだろう……線の入り具合か、配色か…とにかく、父はそれを受け取ることはなかった」


露子:「M/祖母の持っていた傘をじっと見つめて、父は小さく涙を流していた…」


志水:「露子さん。本当はこんなこと頼みたくないんですけどね、誰も手が空いていないので仕方なくあなたにお使いを頼みます」


露子:「M/目が笑っていない。声も笑っていない。怒っている。本当に私に頼み事をするのが嫌なんだな…」


志水:「先日の井口屋さんの傘、やはり受け取ると旦那様が仰ったので、店に行ってきてくださいな」


露子:「M/何故……?一度は返したのに…」


志水:「そして、お祖母様の傘を持って、それと対になる色の傘を仕立てて頂きたいと伝えてください。」


露子:「M/父が何を求めているのか……理由がわならない…とにかく私は、そのお使いを遂行すべく、井口屋に向かうことにした。」


志水:「くれぐれも、お祖母様の傘は傷つけないでくださいね。」


露子:「M/なんとも言えない顔をして、志水さんは見送ること無く、追い出すかのように手を払った」


露子:「M/それすらも、私の中では日常で、あの人の行動としてはいつもの事すぎて、もう慣れてしまった。」


露子:「M/あれだけの悪態を日常的につかれていれば、知らない人からの悪口なんてなんてことは無い。私は思考を手放し、井口屋へと急ぐ。」


0:間


弥次郎:「いらっしゃい…おや、堂島のお嬢さん、どうしました?」


露子:「M/事前に用意していた紙を取り出し、祖母の傘と一緒に手渡す。受け取る弥次郎さんのその手は、何故か震えていた。」


弥次郎:「…また、俺に仕事を下さるんですね…もうご縁はないもんだと思ってましたよ」


露子:「M/弥次郎さんは、嬉しいような、複雑なような表情をしながら、傘を受け取る。」


弥次郎:「この色と対になる色…また難しい注文だ…もしまたしくじったら、今度こそ仕事は貰えねぇな」


露子:「M/なぜ父は、一度は冷たく当たった人に、また仕事を依頼したのだろう…私には理解が出来なかった」


弥次郎:「露子さん、傘が出来たらまたお伝えします。今度こそ、認めてもらう為に精一杯尽力します。」


露子:「はい、弥次郎さんの傘を楽しみにしております」


露子:「M/弥次郎さんは宝物を触るようにして傘を握りしめ、その場を去っていった。何故父が再度弥次郎さんに傘を作るよう依頼したのか…その意図が掴めないまま、私も家路へと向かう。」


0:間


志水:「お使いはつつがなく済ませられましたか?」


露子:「M/私は筆談の準備をする間もなく頭を下げる。」


志水:「それは良かったです。全く…なぜ旦那様はあんな未熟者にまたお仕事を…一度蹴ったのだから別の職人に依頼すれば良いものを…情けでもかけたつもりでしょうか…?」


露子:「M/わからない。父は多くを語らない。だからこそ、私にもその意図が全く掴めない。」


志水:「まぁ、いずれにせよ…あのような未熟者、旦那様からの依頼が無くなればすぐに職に困るようになるでしょう。」


露子:「M/…どこまでも嫌味な女性だ…この人が私のことを嫌うように、私もこの人が嫌いだ…物事を隠すことなくハッキリと言う…言葉は刃にもなり、薬にもなるというのに…」


志水:「あぁ、露子さん。私は明日少し出かけます。一日家を空けるので家事や戸締りを頼みましたよ。口が聞けなくても、それくらいは出来るでしょ?」


露子:「M/私は表情一つ変える事なく頭を下げる。」


志水:「では、頼みましたよ。」


露子:「志水さんはそのまま家の奥へと行ってしまった。私はそのまま自室へと向かう。」


露子:「M/それからしばらく経った頃…弥次郎さんが傘を持って家にやって来た」


弥次郎:「ごめんください」


志水:「あらあら、井口屋さん。今日はどのような」


弥次郎:「旦那様から仰せつかった傘の件です。色付けの前に一度見て頂こうかと…」


志水:「はぁ…少々お待ちください」


弥次郎:「突然すみません…お願いします」


露子:「M/どうやら弥次郎さんは、失敗の可能性を潰すために我が家を訪れた様だ。だが、父は多くを語らない…どんな言葉で追い返してしまうのだろう…」


露子:「M/などと思っていると、志水さんが険しい顔をしながら弥次郎さんの元へ戻ってくる。」


志水:「申し訳ございません、旦那様は全て井口屋さんに任せるとの事です」


弥次郎:「…そんな」


志水:「旦那様の言葉をそのままお伝えします。『私が一度傘を返したのは、失敗する事の重大さを知って欲しかったからだ。その腕を信じている。だから、井口屋さんに任せる』との事です」


弥次郎:「…では」


志水:「やりたいようにやればよろしいかと」


弥次郎:「…ありがとうございます!」


露子:「M/意地の悪い父だ…自信を持って仕上げたものを返して何も言わず、かと思えばまた仕事を依頼し、『失敗の重大さを知って欲しかった』などと…そう言えば…以前父が傘を返した際、『二度と頼まない』とは言っていなかった気がする」


志水:「傘が出来たら届けるようにとも仰っていましたよ。」


弥次郎:「わかりました…!ありがとうございます!」


露子:「弥次郎さんはそのまま足早に去っていった。私はその姿を自室の窓から見送った。祖母の傘と対になる新しい傘…一体どのような傘が出来上がるのだろう…私は仕上がった傘を想像しながら窓を閉めた」


0:間


弥次郎:「ごめんください!井口屋です!」


露子:「M/慌ただしく弥次郎さんが我が家へやってきた。その手には淡いからし色と橙色の美しい傘が…」


志水:「こんにちは井口屋さん……まぁ、見事な傘…すぐに旦那様をお呼びします」


弥次郎:「よろしくお願いします!」


露子:「M/バタバタと父を呼びに行く志水さん。私はその合間に弥次郎さんの前に顔を出す」


弥次郎:「あ、お嬢様。忙しなくて申し訳ない…」


露子:「堅苦しい呼び方はせず…名前で呼んでください」


弥次郎:「いえ…そういう訳には…」


露子:「私がそうして欲しいのです。」


弥次郎:「…では、露子さん、こんにちは」


露子:「こんにちは、弥次郎さん。……綺麗な傘ですね…思わず*見蕩みとれてしまいました」


弥次郎:「この色を出すのに少し苦労しました…でも、納得のいく色が出せました…!」


露子:「見事です…これならきっと父も納得してお仕事を任せてくれると思います」


弥次郎:「どうでしょう…お見せして評価を頂かない事には何とも…」


露子:「こんなに見事な色の傘を私は見たことがありません…本当に素晴らしいです」


弥次郎:「ありがとうございます、露子さん」


志水:「井口屋さん、お待たせ…あぁ、居たんですか。お客様がいらしているのだから、軽率に部屋から出ないでくださいな。失礼でしょう」


弥次郎:「志水さん…!」


露子:「良いのです。私は下がります。井口屋様…失礼致しました。どうぞごゆっくり」


志水:「…全く、何がどうぞごゆっくりですか…すみませんね、井口屋さん。旦那様が奥のお部屋でお待ちです」


弥次郎:「お、おじゃまします」


露子:「M/弥次郎さんは志水さんに連れられて部屋の奥へと進んで行った。大層良い返事を頂いたのだろう、部屋の奥から弥次郎さんの喜ぶ声が響いてきた。」


弥次郎:「これからも誠心誠意、心を込めて傘を作らせて頂きます…!この度は誠にありがとうございました!」


露子:「M/弥次郎さんの声が高らかに響く。あぁ、今後も弥次郎さんは、我が家の仕事を受けるのか。」


0:間


志水:「露子さん。あなたにお客様です。くれぐれも失礼のないように」


露子:「M/…私に客…誰だろう……。私は言われるがまま玄関に向かう」


弥次郎:「…あ、こんにちは露子さん」


露子:「M/客とは弥次郎さんのことだった。まぁ、考えてみれば、私に用がある人なんてこの地にはそうそう居ないだろう…一体なんの用だろう…」


弥次郎:「突然すみません…あの、今日お時間はありますか?」


露子:「今日?一体どのような御用で…」


弥次郎:「工房の近くで祭りがあって…良かったら一緒にと思ったのですが…」


露子:「お祭り…でも、私が隣にいてはご迷惑になります」


弥次郎:「そんな事ない…私が一緒に回りたいのです!」


露子:「…変な人。私なんかと一緒にだなんて」


弥次郎:「雨宿りを共にした仲ではありませんか」


露子:「…そんなこともありましたね。父に聞いて参ります」


弥次郎:「はい!」


露子:「M/奇特な方…私なぞ、共に歩いても楽しいはずが無いのに…」


0:祭り会場にて


弥次郎:「旦那様、許してくださって良かったです」


露子:「きっと傘のお礼のつもりでしょう…」


弥次郎:「そうだとしても、嬉しいです」


露子:「…そうですか」


弥次郎:「…あの……聞こうと思っていたのですが…」


露子:「…なんでしょうか?」


弥次郎:「その…声の事…以前は話す事が出来たと聞きました…何があったのですか?」


露子:「…それを聞いて、あなたに何か得がありますか…?」


露子:「M/あぁ、嫌だ。あの人の様な態度を取っている…」


弥次郎:「気を悪くさせたのならすみません…でも、気になったのです…露子さんが以前はどのような声で話していたのか…」


露子:「…つまらない理由です。なので、話す気はありません…」


弥次郎:「…そうですか…」


露子:「はい」


弥次郎:「いつか、聞かせてください…あなたが私を心から信頼してくれた時にでも」


露子:「…そうですね」


弥次郎:「はい…」


露子:「……」


露子:「M/とても簡単な理由。だからわざわざ話す必要は無い。祭りの会場で、私はりんご飴をかじりながら鈍く光る月を見上げた」


0:間


志水:「露子さん、旦那様から井口屋さんに行くように言われたのですが、私は家事で忙しいのであなたが行ってきてください。」


露子:「M/普段は頼み事なんかしないのに…どういう風の吹き回しだろう…余程弥次郎さんの顔を見たくないのだろうか…」


志水:「頼みましたよ。」


露子:「M/私は首を縦に降り、井口屋さんに向かった」


0:井口屋にて


弥次郎:「はい、いらっしゃいませ!…あぁ、露子さん!こんにちは!」


露子:「こんにちは。父から来るように言われたのですが…」


弥次郎:「あぁ、染め物のご依頼を受けたんです。以前の傘と同じ色の物を…どなたかに贈り物ですかね?」


露子:「…さぁ?」


弥次郎:「傘…というより色にこだわっているようだったので、寸分違わぬ色を着けました。……コチラです。お届け願えますか…?」


露子:「もちろんです。」


弥次郎:「ありがとうございます。よろしくお願いします。」


露子:「M/父が何故この色にこだわるのかはわからない…なにか意味があるのだろう。母は仕事が忙しいのかしばらく顔を見ていない…たまにふらりと現れては荷物を入れ替えてまた出ていく…悪い予感がしてしまう。」


弥次郎:「…さん…露子さん…?」


露子:「…あ、すみません、考え事を…」


弥次郎:「いえ、顔色が悪いようですが…大丈夫ですか?」


露子:「大丈夫です、ご心配なく…」


弥次郎:「…そうですか。……あの、またお誘いしても良いですか…?」


露子:「…父に聞いてみます…」


弥次郎:「…あなたのその決断力の無さは…喋らないから…ですか?」


露子:「…」


弥次郎:「口が聞けず、家の恥となっていることに負い目を感じて…だからご自身で物事を決めないのですか?」


露子:「…弥次郎さんには、関係の無いことです。」


弥次郎:「でも…」


露子:「ただの町民であれば口が聞けぬ事など何の問題もありません。ですが、私は堂島の娘です。」


弥次郎:「…家柄がそんなに大事ですか?」


露子:「…大事でしょう。少なくとも、堂島に仕えている志水さんにとっては、」


弥次郎:「あなたと志水さんは関係ない…!」


露子:「…っ」


弥次郎:「あなたは堂島露子…堂島家の娘…そして、私と同じ人間です」


露子:「…そう言って頂ける人がもっと多ければ、私は声を閉ざす事など無かったでしょう」


弥次郎:「…それは、どう言う…」


露子:「失礼します」


弥次郎:「…あ、露子さん!」


露子:「M/預かり物を懐に仕舞い、私は逃げるように弥次郎さんの元を去った」


露子:「M/それからしばらくは、弥次郎さんの顔を見ていない。…正しくは、見れない。お祭りの日に口が聞けないことを聞かれ、そしてまた理由を問われ…私は、そのたった二回の質問に酷く腹が立ったのだ。」


露子:「M/そして、隠れる様になった。家に来ても顔を出さず、声を聞いても心躍ることはなく…私は、ただ逃げたのだ…」


0:間


弥次郎:「おじゃまします。」


志水:「あら井口屋さん、今日はどのような?」


弥次郎:「あの…お嬢様は」


志水:「露子さんなら風邪で伏せっていますよ。」


弥次郎:「風邪…ですか…」


志水:「えぇ、数日寝込みましたが、今は安定しています。露子さんに御用ですか?」


弥次郎:「あ…はい…」


志水:「風邪を移しては大変ですので、また改めて頂けますか?」


弥次郎:「そうですね…また来ます…」


0:しょんぼりした顔で家から出ていく弥次郎


志水:「…これでよろしいのですか?」


露子:「M/私は声を出すことなく首を縦に振る。」


志水:「全く…私を使うだなんて良い度胸ですね。次はありません。」


露子:「M/ありがとうございます。と、用意していた紙を見せる。」


志水:「それにしても、あの方は変わってますね。あなたのような人に用事だなんて…気が知れません」


露子:「M/どうしてそこまでの言葉が出てくるのだろう…私にではなく、無関係の人に対して…」


志水:「文でも出して、二度と近付かないようにお願いしてはいかがです?」


露子:「M/そんなこと出来ない」


志水:「あの様な奇特な方が堂島の家を出入りしている事…仕事の依頼でなければありえない事です」


露子:「M/辞めて…」


志水:「ただでさえ口の聞けない厄介者がいると言うのに…これ以上の面倒事はごめんです」


露子:「やめて!」


志水:「…っ、つ、露子さん……?」


露子:「私の口が聞けなくなったのはあなたのせい…あなたが私に何を言ったのか、覚えていないのですか!?」


志水:「な…なんの事ですか!私があなたに何を言ったと言うのですか!?」


露子:「…覚えていないのですか…父が長期の出張中、家を任されたあなたが私に何をしたのかも覚えていないのですか!?」


志水:「覚えているわけないでしょう!?この家に何年仕えていると思っているのですか!」


露子:「…そうですか、では、もう良いです…もう、あなたに言うことはありません」


志水:「…露子さん!?」


露子:「これまでのことを全て父に報告します。事を大きくしたくないがために黙っていましたが、我慢の限界です。」


志水:「待ってください!旦那様に何を言うつもりですか!」


露子:「言ったでしょう…これまでの全て…と。」


志水:「ま、待って!露子さん!」


露子:「M/私ばかりが酷い物言いをされるだけなら我慢できた…けれど、弥次郎さんを酷く言うことは、どうしてか許すことが出来なかった。私は父にこれまでの全てを説明し、そして志水さんは長期で*いとまを出された」


0:後日


露子:「M/数日後、私は井口屋さんの*暖簾のれんをくぐった」


弥次郎:「はい、いらっしゃいませ!……露子さん…」


0:ここからは露子は筆談無し


露子:「こんにちは」


弥次郎:「露子さん…声…!」


露子:「お話します。私が声を出さなかった理由を…」


弥次郎:「…どうぞ、中に。」


露子:「お邪魔します…」


0:店内


弥次郎:「どうぞ、お茶を…」


露子:「ありがとうございます…」


弥次郎:「…どうして急に?あなたは、私を避けていたでしょう?」


露子:「その節はすみませんでした…逃げていたんです…弥次郎さんに、全てに…」


弥次郎:「全て…?」


露子:「はい…私は、以前は確かにこうして声を出して普通に話していました…ですが、使用人の志水さん…あの方に言われたんです。『汚い声を出すな』と。」


弥次郎:「…そんな…」


露子:「長期で父が家を開けた時でした…あの頃の私はお転婆で、きっと目障りだったのでしょう。」


弥次郎:「だからって、そんな酷い言葉…」


露子:「えぇ、私はわけも分からず泣きわめき…そして声を出す事を辞めました」


弥次郎:「…それが、理由」


露子:「えぇ、とてもくだらない理由です。でも、あの時の私にはそれだけの理由でした。」


弥次郎:「……なぜ、今まで…」


露子:「何故でしょうね…家の名を汚す事になったとしても、そうする事が正しいのだと思っていたのかも知れません。ですが…」


弥次郎:「…?」


露子:「志水さんは、私だけに飽き足らず、弥次郎さんのことも悪く言うようになりました。それが我慢ならなかったのです。」


弥次郎:「…わ、私ですか…!?」


露子:「はい。不思議な気持ちでしたよ。久しぶりに声を出して…それが、あなたの為だなんて。」


弥次郎:「いや、でも…」


露子:「弥次郎さん、出会った頃の様に喋ってください。私を知らないまま話しかけてくれた、あの日のように。」


弥次郎:「…露子さん」


露子:「お願いします。」


弥次郎:「……参ったな…さすがは堂島の娘さんだ。」


露子:「そうですよ。私は堂島露子です。…あなたは、井口屋の弥次郎さん……私と同じ、人間です。」


弥次郎:「…ははっ、一本取られた!わかったよ。実を言うと、あの志水さんって使用人さん…苦手でなぁ、つい敬語になっちまって…堅苦しいわ息苦しいわで窮屈だったんだぁ」


露子:「ふふっ、やっぱり。志水さんと話している時の弥次郎さん、ずっと困った顔してました」


弥次郎:「バレちまってたかぁ…まぁ、ありゃ誰が相手でも*萎縮いしゅくしちまうってもんだ。やっと肩の荷が降りたよ!」


露子:「その方が弥次郎さんらしいです。そのままでいてください。どうか、これからも。」


弥次郎:「…わかったよ、露子さん」


露子:「それと…父が依頼していた物ですが。」


弥次郎:「おん?」


露子:「あれは、祖母の墓前に供える為のものだそうです。祖父が对の色の傘を持っていたと…それを供えて、あちらでも仲良く傘を差して歩いてくれるようにと。」


弥次郎:「…そっか、喜んでくれるといいなぁ…」


露子:「きっと喜んでいますよ。あんなに素敵な傘なのですから」


弥次郎:「…あぁ。」


露子:「M/あの日、雨宿りを共にした弥次郎さん…その時はまるで雨が止むのをじっと待つ傘のような人だと思った…けれど今、その弥二郎さんは傘をたたみ、晴れ晴れとした空を眺めているように見えた」


0:数年後


弥次郎:「本当に良いんですかぃ…露子さん…」


露子:「良いも何も…声を取り戻した時に私の心は決まっていたのです。あなたと共に生きると。」


弥次郎:「でも、堂島の家が…」


露子:「家はどうでも良いです。父も堂島にこだわらず、好いた男と一緒になって幸せになるのなら嫁に出ても構わないと言っていましたし」


弥次郎:「でも……」


露子:「養子を貰うなりして堂島の名前を繋ぐでしょうし…父も母もなんだかんだまだ若いので、まだ何とかなるでしょう。あまりにも母が家を空けるので不義でも働いているのかと疑った時期もありましたが、それも*杞憂きゆうで終わりましたし。」


弥次郎:「…露子さん、女性なんだからちょっとは慎もう?な?」


露子:「慎んだところで私は私なので、無理ですね。私、結構頑固なんですよ。」


弥次郎:「…全く…困ったお嬢さんだ…」


露子:「で、どうするんです?」


弥次郎:「…あぁ、完敗。」


露子:「ちゃんと言ってください?女の私から言わせるのですか?」


弥次郎:「わかったよ……露子さん、俺と結婚して下さい」


露子:「はい、もちろんです!」


弥次郎:「……それと…これを」


露子:「…傘」


弥次郎:「いつか渡そうと思っていて、ずっと渡せなかったんだ…アンタの傘。俺と、対で作った。金もない、出来ることは傘作り。交わすものはこれだけ…それでも、良いか…」


露子:「……当たり前です!大切にします…!」


弥次郎:「露子さんの祖父母の様に…死んだら墓に供えて貰えるかな?」


露子:「どうでしょう?でも、そうなれば嬉しいです…きっといつまで経っても、ふたりは一緒だと、思えるから…!」


弥次郎:「……そうだな。……露子さん、いや、露子……末永く、よろしくお願いします。」


露子:「M/私はこれからの人生を、弥次郎さんと共に歩いていく。対の傘を差しながら、ふたりで手を繋いで…これからも、ずっと…。」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

催花雨の蛇の目 夜染 空 @_Yazome_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ