第24話 右目の鳥
「……瀬川にこの男を合わせる? どういうこと?」
綾人は呆気に取られていた。生き霊を生むほどの恨みを持った人間を、対象に会わせる? どうしてそんな危険なことをするのだろうか。訳がわからない。でも、この判断に反対することなど出来ない。相手は貴人様なのだ。とにかく、瀬川のうちまで陽太を連れて行くことにした。
そう思って、陽太をおぶるために一旦背負った。そして、その異様な変化に驚いてしまった。
「えっ? 何これ、かるっ!」
陽太は、まるで羽のように軽かった。『軽くしておくから』……確かに貴人様は、そう言っていた。どういう意味なのかと思ったけれど、気絶した男性を一人抱えるつもりで構えていた綾人は、あまりの軽さに驚いてひっくり返りそうになってしまった。
——神様すげーな……。こんなことが出来るんだ。
信じられないことが次々と起きていて、言われるままに動いてはいるが、頭はついていけていなかった。とにかく言われた通りにするために、軽くなった陽太を背負って立ち上がると、図書館の出口へ向かって歩き始めた。
そして、すぐにピタリと足を止めると、真っ青な顔で呆然と立ち尽くしている桃花に声をかけた。
「雨野さんはどうする? 一緒に行く?」
桃花は、綾人の顔を見てぶんぶんと被りを振った。
「まあ、そうだよね。普通はそうなるよ」
最近の綾人たちは、神だの生き霊だのに慣れすぎているから麻痺している部分がある。でも、側から見ると随分危ない人たちに映っているだろう。生き霊だの、憑依だのと、クスリでもやってるのかと言われそうな話ばかりしている……そう考えて、ふとあることに思い当たった。
「あ」
陽太から感じた、甘くて青臭い匂い。あれは、クスリの匂いだった。
入学したばかりの時に、噂を聞いたことがあった。以前この大学で、クスリで逮捕された人がいるという話だった。その人がいつも使っていたという教室は、今はほぼ使われていない。ほぼ使われていないからか、そこに染みついた匂いが、未だにほんの少し残っている。あの、甘くてうっすら青臭い匂い。それが、さっきした香りの正体に違いない。
「雨野さん。もしかして、川村くんは何かやってはいけないことをやってる? 君はそれを知っていたんじゃないの? 瀬川に会いたいのは、本当に君が瀬川を好きだからかな?」
桃花は綾人の言葉を聞いて、明らかに狼狽えた。グッと何かを飲み込んだように見える。視線を上から下に動かしたり、忙しなく瞬きをしたりと、明らかに何かがある不審な動きを繰り返した。
——もしかして、この子もか?
綾人はフッと息を吐き切ると、鼻からスーッと息を吸い込んだ。そして、キッと桃花を睨むと、誤魔化しはさせないという強い意志を視線に込めた。
「雨野さん。君、クスリやってない?」
綾人の声が、あまりにも強く冷たく力強かったためか、桃花は弾かれたようにビクッとした。そのうちガタガタと震え始め、周囲に人がいないかどうかを確認し始めた。キョロキョロと周りを見渡し、唇を噛み締めている。ふとみると、かなり汗をかいていた。どうしてさっきまで気がつかなかったんだろう。桃花からも、うっすらとあの匂いがしていた。これはおそらく、重症だ。
「ちょっと、ごめんね」
綾人はそういうと、「シッ」と息を吐きながら、桃花の鳩尾を思い切り打った。
「ウッ!」
小さく声を漏らして、桃花は気を失った。綾人は桃花の体が頽れる前に片手で支えると、ゆっくりと床にその体を横たえた。
「はー全く。何考えてるんだかね」
陽太を背負い、桃花の肩を支えた。どうやって連れて行こうかと考えていると、いつの間にか一人の女子学生が目の間に立っていた。その子もまた、顔色が悪く、目が死にかけている。まだ死んでないところが、陽太や桃花との違いのようだった。その分正気なのだろうと言うのはわかった。ただし、全身が痣だらけだ。服を着ていてもわかってしまうほどに、ものすごく多い。
「君は誰? どうしたの、それ……」
綾人が気遣いの視線を送ると、それに気づいた女子学生はすっと涙を流した。
「助けてください。陽太も、桃花も、私のせいであんな風になった。あなたが刺されたのも、きっと私のせいです。でも、私にはどうにも出来ないから……」
そう言って、その子は泣き始めた。綾人は、彼女から何を言われているのかはまるで理解できなかったけれど、ただ、今目の前で起きていることを全て解決するためには、取り敢えず全員瀬川の家についれて行った方がいいということだけは理解できた。
——とりあえず、貴人様に話してから考えよう。
だんだん考えることに無理が出てきて、綾人はうんざりしてしまっていた。気を失った二人と、泣いている一人。それを引き連れて、眠り続ける男の家へ向かう。
「なんだかおかしな話だな」と自嘲気味に笑った。取り合えず、行くしかない。行って、おそらくそこにいるだろう愛する男の顔を見て、とりあえず癒されよう。今はそれしか考えたくない。重い足を引きずり、歩き出した。
その時、外の喫煙所から、甘くて青臭い香りのタバコの煙がゆらゆらと立ち上った。その煙を燻らせている男は、綾人の後ろ姿をじっと見ながら、笑っていた。
「あーあ。バレるな、きっと」
その男は、ゆっくりと煙を肺の奥まで流し込み、鼻腔で香りを確認して吐き出した。赤い髪をゆっくりとかきあげると、唇に鮮やかな赤色を塗り込んだ。
「じゃあ、ついにヤトと対決かな? ウルが呼びに来るのを、待ってるからね」
目が覚めるほどの美形のその男は、頸にある蛇のタトゥーを指でなぞると「楽しみだね」と呟いて去って行った。
◇
瀬川の家では、貴人様と水町が待っていた。おそらく、今はさくら様が表に出ているのだろう、普段見せないような真剣な眼差しで、瀬川の横顔を見つめている。
「綾人、その男をこちらへ」
そう言って陽太を指さした貴人様の指示に従って、足元の床に陽太をごろんと寝かした。そして綾人がその場を離れた時に、誰かが陽太の体勢を変えてあげようとしているのが見えた。
「ちゃんとまっすぐ寝かせておいてあげないと、後で体が痛くなっちゃうよ」
その優しい声は、タカトのものだった。そして、綾人ははたと気がついた。
「あれ? 貴人様とタカトが完全に分離してる! 誰かの体を借りてなくても俺たちには見えるんですか? 幽霊とかは見たことはあったけど、神様って初めて見た!」
綾人は生まれつき霊感が強い方だった。人が来たので避けようとしたら実はそこには誰もいなかったり、話しかけようとしてもやはりそこには誰もいなかったりということは日常茶飯事。生きている人間と同じように霊も見えてしまうため、見えてない普通の人から変な人だと思われないようにするために、毎度かなり苦労していた。
一般的には、幽霊には足が無いとか白い着物を着ていると言われるけれど、綾人が見る幽霊達は足もあるし、服装は普通の人間と同じだ。だから、パッと一目見たくらいでは区別がつかない。
今、神としての貴人様の姿を見ていると判断できたのは、服装が普段のタカトと明らかに違うからだった。和装で、平安時代の貴族のような……よく見る安倍晴明のイメージの格好をしている。狩衣だ。
それに、右目が赤く、左目が青っぽい黒で、その宝石のようなオッドアイが、そこにいる人はタカトではなく貴人様であることを証明していた。
大声を出した綾人を、貴人様はギロっと睨みつけた。普段の貴人様は、綾人に厳しい視線を送ることなど決してない。今は大きな声を出すことも憚られる様な事態なんだろうなということを、それで理解した。実際その通りだったようで、唇に人差し指をあて「しーっ」と嗜められた。そのまま瀬川の方を向くと、ぼそっと呟いた。
「こちらが見せようとすれば、見せることはできる。ただし、人間に触れることはできない。お前が見た夢の俺は、この姿だっただろう? お前に触れることを許されていなかったからな。その時は、実体を持つことを許されていなかった。今はお前に触れる必要があるから、今世の人間の体を借りている」
そう言うと、ニヤリと悪戯っぽく笑って、綾人をじっと見つめた。反射的に綾人は真っ赤になって下を向く。その姿を見て、さくら様はクスッと笑った。
「こんなややこしくなりそうな時にまで、いちゃつかないでくれますか? 余裕ですね、貴人様」
そう言うと、ガタッと椅子から立ち上がり、綾人の方へと歩いてきた。その所作が彼女はさくら様なのだと告げている。さくら様は、綾人が連れてきた桃花と友人の前に立った。
「凛華、色々と辛かったでしょう? ちょっと時間がかかるかもしれないけど、私たちが片付ける手伝いをするから。心配しないで大丈夫よ。そして、申し訳ないんだけど……」
水町は、痣だらけの女子学生の頭に手を置いた。その手から、ぽわんと柔らかい灯りが灯る。その光は、さくら様の名前の通りの美しい桜色をしていた。
うっすらと部屋がピンク色に染まっていく。凛華と呼ばれた子は、だんだん目を閉じていった。そして、完全に目が閉じてしまった頃、スーッと後ろに倒れ込んだ。
ゆっくり倒れたので、タカトがそれを見て反応した。立ち上がって彼女を支えると、ゆっくりと抱きかかえる。
「さくら様、もしかして瀬川くんの隣の布団って、この子たちのために準備したものですか?」
凛華を寝かせているタカトに向かって、さくら様はニコッと微笑んだ。そんなさくら様に、タカトは「知らなかったでしょ、この二人が来ること」と驚いてはいたが、神様が先読みをできたとしても何ら不思議ではないのかもしれないと思い直した。
タカトが凛華をそっと布団に寝かせると、綾人がその隣に桃花を寝かせた。
貴人様は、二人を寝かせた布団の方へとゆっくりと歩み寄った。そして二人の顔を繁々と眺め、その表情から何かを確認していた。
「綾人、この二人は、薬物依存の状態なんだろう?」
貴人様の問いに、綾人は声を絞り出すように「そうだと思います」と答えた。証拠はないけれど、匂いと行動からして間違いないだろうと思っている。警察に通報することも考えたのだが、この薬物使用の裏に、何か前世と関わりのあることがまだ隠れている気がしていた。だから、まずは貴人様に任せようと思ってここへ連れてきた。
「俺に任せた方がいいと思ったのだろう? 懸命な判断だ。その薬、俺が全て抜いてやろう。そして、同時に、この悪事を画策しているやつを、俺がここへ連れ出そう」
そういうと、貴人様はギッと目を見開いた。その途端に、ズンっと空気が圧縮されるような違和感が生まれた。
「ぐっ……ぅ」
綾人はその圧力を胸に感じると、自分の胸の中にじわじわと恐怖が塗り広げられていくような感じがした。
——な、なんだこれ? 怖い、辛い、逃げたい……でも、出来ない。
胸が潰されそうなほどの圧迫感を感じながら、短く弱い呼吸を繰り返す。そして、貴人様の方へと視線を移した。貴人様は、寝ている二人の前に跪いて座り、手をかざしているところだった。
貴人様の目は、どんどん獣のように見開かれ、瞳孔が狭まって厳しい表情へと変わる。それに相反して、手から広がる光はどんどん暖かく穏やかになっていく。
白く強い光から、柔らかなオレンジを経て、淡い黄色へ。そして再び、温もりある優しいオレンジへ。
光は優しいが、周囲の空気圧はどんどん高まり、周りにいるタカトと綾人は、押し潰されるような苦しみに苛まれた。周囲にある家具や食器等は全く動かないし、建物にも影響はなさそうだった。ただ、人間だけが苦しんでいる状態だった。
「綾人、お前がそこで耐えられるのなら、随分罪は減ったのだろう。よかったな。ただ、今から一瞬だけ力が爆発する。お前が消滅しては困るから、体勢を低くしていろ。ベッドの向こうに伏せておけ」
実のところ、綾人はかなり息苦しくなっていた。深呼吸をしようとしても、それすらままならないほどの圧迫感が襲う。でも、タカトはそこまで苦しそうにしていない。これは多分、魂の罪の重さに比例しているんだろう。なんとなくそれがわかっていたので、貴人様の指示にすぐに従った。瀬川が寝ているベッドの手前に移動し、身を伏せた。
「い、移動しました」
どうにか声を絞り出した綾人を見て、貴人様はコクリと頷いた。そして、凛華と桃花の手を握った。そのまま俯いて、握った手にぐっと力を込めると、カッと目を見開いた。すると驚いたことに、その右の目から、突如として赤い大きな光の塊が、ずるりと這い出して来るのが見えた。
「うわあああああ!」
普段あまり大声を上げないタカトが、目の前に現れた光景に驚愕して叫び出した。
「うわ、なんだあれ!」
貴人の赤い目から、火に包まれた鳥が出てきた。ふわっと舞い上がる炎のように飛び出した真っ赤な炎の塊が、ゆらゆらと揺れている。溶岩の塊のように見えるそれは、間違いなく、鳥が羽を羽ばたかせているように見えた。火が燃え盛る中、その凄まじい熱量により生まれてくる風で、寝ている凛華と桃花の髪が舞う。吹き上がった髪に、次々と真っ赤な炎が引火していった。
綾人がその身を焼かれている鳥とは規模が違う。その何十倍も恐ろしい。次第に言葉も発せられなくなるほどの、強大な力を持つ不死鳥が現れた。
その羽から、導火線二飛かつくように、二人の体を目がけて炎が走っていく。
「あっ! 貴人様! ひ、火がっ!」
タカトが焦って声を上げたが、貴人様はそれに構う様子が見えない。火は二人の体へと辿り着き、一瞬で全体を飲み込んだ。そして、そのままの勢いでドンっと大きな音を立てて、爆発的に火柱を立てて燃え上がった。
「わあああああ!」
爆風が、人だけを襲ってくる。タカトは恐怖に飲まれ、絶叫していた。その炎は、罪など何も無い者であっても、その人の心の弱い部分を増幅させるような力を持っていた。動物としての生存本能が揺さぶられる。とにかく怖い、早く逃げたい。綾人も、その頃にはそれしか考えられなくなった。
「綾人、絶対に動くなよ。少しでもそこから動くと、お前は火に狙われて灰になるぞ!」
「えっ!? わ、わかりました」
圧力からの解放があったため、少し楽に声は出せた。まだ灰になりたくないと思った綾人は、必死で体を伏せた。玄関先まで吹っ飛ばされそうな勢いで爆風が起きている。何も掴まるところが無い状態で伏せるのは、かなり厳しい。
ふとベッドの脚が見えたので、そこに掴まることにした。脚の方へ手を伸ばすと、そこに陽太の体が見えた。炎の影響を受けていないところを見ると、陽太自身はそう悪いことはしていないのだろう。そんなことを考えながら、必死にベッドの脚を掴んだ。その時、綾人の手が、わずかに陽太の体に触れた。
「……!?」
突然、綾人の頭の中に動画のようなものがバーっと流れ込んできた。自分を押し殺して耐える顔、抑えきれない思いを抱えて行動してしまう顔、それに漬け込んでくる男の顔。心が死んで真っ黒になっていく痛み……イメージがどんどん流れ込んできた。
炎の勢いとともに、さらに映像は流れ込む。負の感情が強すぎて、綾人は耐えきれなくなってきた。焼けつきそうな炎の熱さにもかかわらず、頭を抱えて絶叫する。
「うわあああああああああ!!!!!」
「耐えろ、綾人!」
貴人自身も、そう言葉をかけるのが精一杯だったようだ。そのままさらに炎の力を強め続けた。火力が強まるたびに、綾人はグラグラと揺れた。そして、耐えきれなくなったタイミングで、フッと意識を失うと、そのままその場に頽れた。
貴人が浄化を終えてため息を一つついた頃には、綾人は陽太の隣で倒れ、完全に意識を失っていた。綾人のその姿を見て、貴人様は悲しそうに眉根を寄せて視線を落とした。ぐっと口を結んで何かに耐えた後に、自分に言い聞かせるように呟いた。
「随分軽くなったとはいえ、大罪人だからな。仕方あるまい」
そう呟くと、凛華と桃花の手を持ち上げ、軽い口付けをして離した。すると、二人の体は柔らかいオレンジ色の光に包まれ始めた。
「よし、これで大丈夫だ」
それを確認すると、貴人様はスッと立ち上がった。そしてゆっくりと綾人の方へ近づいた。ふわりと高貴な香りを立ち上らせながら、綾人のそばに座る。座ったまま綾人を抱き抱える。
「終わったぞ。次はお前の番だ」
頭を左腕で支え、綾人の顔の煤を払った。頬を優しく包んでじっと眺めると、浄化の儀式を始めた。その時綾人の肌を焼いた炎は、先ほどの炎とは全く違う、優しい暖かさに満ちたものだった。
「よく耐えたな、綾人」
そう言って嬉しそうに微笑む傍らに、初めて浄化の儀式をはっきりと目撃してしまったタカトの困惑した顔があった。
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