第25話 因縁


「わああああああああ!」


 どこかで男の絶叫が聞こえる。少し遠い……いや、そんなに遠くではない? あ、だんだん近づいてくる。移動してるのか。苦しげなその声は、気がつけばほぼ自分のすぐ隣で聞こえているようだった。なんで叫んでいるんだ? どうしてこんなにも苦しいんだ? 苦しい……


「あ」


 この叫び声は、俺だ。ずっとずっと昔の俺だ。俺は苦しくて叫んでいる。何か良くないものを飲んだんだ。でも喉は焼けてない。毒ではないんだろうか。でも、息が苦しい。もっと息がしたい。空気が欲しい。


「あんた、お父様が身請けしたって本当なの? 気持ち悪い! 体売ってるってだけで気持ち悪いのに、男なんですって!? 信じられない! それを隠しもしないなんて!」


 なんだろう、この言葉は聞いたことがある。そうだ、お嬢様から言われた言葉だ。とても美しくて、とても醜い心の持ち主だったお嬢様。家が裕福で頭も良かったお嬢様。気が強すぎて縁談に恵まれず、ずっとご実家にお住まいだった。そんな中で旦那様が俺を身請けしてくださったものだから……。


「遺言書を確認させたのよ。相続全てがあんたにいくようになってるのよ! どういうことなの! 説明しなさいよ! ……いいえ、死んでしまいなさい! 最初からあんたなんていなかったことにすればいいのよ!」


——ああ、このあと俺はどうなったんだったっけ。確か、隣にいる男がお嬢様に命令されて……。


「さっさとやってしまいなさい!」


 お嬢様の怒声が聞こえた。そう、そこまでは覚えてる。そのあとは……。


「ご、ごめんなさい。お嬢様のためなんです」


 命じられた男は、ぐしゃぐしゃに泣き濡れた顔で俺を見るとそう叫んだ。そして、ぎゅっと目を瞑ったまま油を撒き……俺に火をつけた。


「……ひっ!」


 その火は、記憶の中の俺の長い髪に飛びついたかと思うと、一気に俺を包んみ込んでいき、体の全てを食い散らかしていった。



「……と、あやと、綾人! 終わったぞ」


 名前を呼ばれ、肩を優しくトントンと叩かれていた。ハッと目を覚ますと、綾人は貴人様の膝に寝ていた。とても穏やかな顔をして、綾人の頬を撫でいる。その表情の中に、とても辛く悲しい思いを隠しているのが、ゆらゆらゆれる瞳の奥に見てとれた。


「お前は同席させるべきじゃなかったかもしれない。すまなかったな。辛かっただろう」


 浄化に立ち会うと同席した者も浄化されるので、ありがたいと言えばありがたい。ただ、その方法が過激であればあるほど、反動で苦痛も大きくなる。


 今回は瀬川の生き霊を片付けるために、あの三人の薬物を抜かなければならず、一度に強大な力で長く浄化するしかなかった。普段綾人に行う浄化の際には、体内に炎を直接入れることで、短時間で済むようにしている。


 直接的に作用することで、体への影響が最小限ですませてある。でも、今日は浄化対象が複数いた。三人に口付けによる浄化を行うのは、貴人様自身への負担が大きく、他にやりようがなかった。


 綾人がその場にいれば、他の誰よりも大きな苦痛を味わう事になることは、貴人様にはもちろんわかっていた。ただ、瀬川の生き霊を祓うことを綾人に命じてしまっていたため、同席させざるを得なかった。貴人様としては、苦渋の決断だった。


 タカトと水町は、事前にその説明を受けていた。だから貴人様とタカトを切り離した状態で行う事にし、タカトは綾人の近くにいて炎の影響から守るように言われていた。


 タカトは教わった通りにやろうとしたけれど、やはり生身の人間であるため、綾人を守りきれ無かった。ガードがうまく働かなかったため、綾人は浄化の炎の影響をまともに受けてしまった。魂が壊れなくて済んだのは、不幸中の幸いだ。


「だんだん先読みの力が落ちてきているな……」


 貴人様は寂しそうにポツリと呟いた。


——力が落ちる……そんなことがあるんだな。


 訊いてははいけない気がして一度も確認をしたことはないけれど、貴人様はおそらく、綾人と一緒になるためにかなりの犠牲を払っている。

 

 もし、節分までに罪が消せなければ、綾人は地獄に落ちることになっている。じゃあ、貴人様は? そんな大罪を背負った強欲な人間と一緒になろうとして失敗した神……罰が降らないだろうか……。ふとそんなことを考えて、ゾッとした。


——あ、だめだ。それ考えると抱えきれない。


 貴人様がどんなランクの神様なのかわからないし、知らない方がいい。そして、今の自分がすべきことは、罪を減らすために人を助けることだ。それが結果的に貴人様のためにもなる。


 綾人はそう思い、拳を握りしめた。人一人のできることなど、たかが知れている。良くしたいという思いからの行動であっても、それで自分が壊れてしまっては意味がない。


 向き合うべき事実に、淡々としっかり向き合う。綾人は心を落ち着けるために深く息を吸い込み、ゆっくりと吐きながら、貴人様へと視線を戻した。


「貴人様、さっきのことなんですけれど……」


 そう言って、上を見上げて貴人様の顔を覗くと、その高貴な顔のすぐ隣に、ヘラヘラとアホヅラで笑う男の姿があった。その顔を取り戻そうとして必死に動いていた日々が頭をよぎった。もう一度見たいと願って、必死になっていたものだった。

 

 次に見られるようになった時には、もっと感慨深い思いをするものだと思っていたのに……。予想に反して、いつも通りにめんどくさいと思ってしまった。そして、そのことに綾人は胸がほわりと温かくなるのを感じた。


「せっ、せせせせせ、瀬川じゃねーか! お前、どうして……」


「あーやと! 久しぶりっ!」


 呆気に取られて魚のように口をパクパクしている綾人を尻目に、瀬川は綾人にキスをしようと顔を近づけてきた。しかし、貴人様が黙っているわけはなく、黙ってヒョイっと膝をずらされた。

 

 覆い被さろうとしていた綾人の顔を遠ざけられてしまったので、瀬川は顔から床にダイブした。



 早朝の静けさの中、美しい切れ長の目がゆっくりと開かれた。隣で寝息を立てている男を起こさぬように、そっと立ち上がった。


 夏が近づいてきたため、すでに空は明るくて高い。この世にはまるで辛いことなどないかのように、スカッと抜け切った爽やかさが、そこにはこびりついていた。


「ムカつくな。そんなに綺麗なものじゃないくせに」


 ケイトは遠くの空を眺めながら、悪態をついた。爽やかなものや清いものを見るたびに、そこに馴染めないことに腹立たしさを感じる。そしてその度に、言いようのない寂しさが胸を詰まらせた。

 清廉なものと自分の間に距離を感じるたびに、自分がいかに汚いものなのかを思い知って、また神経が乱される。自分の生は、ずっとそれの繰り返しだった。


 窓辺に立ち、タバコに火をつける。紙巻たばこに、うっすら甘くて青臭い香りが染み付いている。起きて一瞬でも、ありのままでいる事が出来ない。自分を偽って、世間を騙して、ようやく居場所ができるような人生しか送れない。この魂の卑しさに、そろそろ疲れ果ててきた頃だった。


——俺って、なんなのかなぁ。


 そんな恐ろしい問いが浮かんでは消え、ただひたすらに誰かを責めることでそこから逃れ、今をなんとか生きている。そんな風に、日々を自堕落に過ごしていた。


「……つっ!」


 突然、左の手のひらに痛みが走った。その手のひらには、六つの目が描いてある。そのうちの四つが、前触れもなく消滅した。消えた後は茶色く焦げ付いたようになっている。その痕を直に触ってしまった。ビリっと感電したような刺激が走る。


「あー、完全にバレちゃったな。」


 孝人様が放った使いに触れてしまった。これで黒幕が俺だと完全にわかっただろう。ヒリヒリと痛む手の平を、タバコをもったままの手で擦りながら、思わず笑みが漏れてしまった。


「ウルも目覚めたみたいだし。お迎えもすぐ来るな」


 肺に溜め込んだ煙を、ふうと吐き出した。ガラスに体を預けて、ようやく諦めのつきそうな自分に、次々と笑いが漏れた。


「こんな簡単に諦めがつくなら、最初の人生で終わってればよかったのになあ」


「ケイトー? どうかした?」


 寝ていた男が、ふわあとあくびをしながら起き上がった。細身ではあるけれど、ガッシリと筋肉質で、愛らしい目をした童顔の男だ。


「なんでもないよ、シュウさん。おはよ」


 ケイトは、タバコを燻らせながらシュウに近づいていった。ベッドの端に腰掛けると、ヘッドボードの灰皿にタバコを押し付けた。火が消え、煙がふわっと舞うと、シュウはスンスンと鼻を鳴らして匂いを確認した。

 

 そして軽く顔を顰めると、


「ちょっと、また吸ってたの? 今日昼からバイトでしょ? ダメだよ!」


 そう言いながら、両手でケイトの両頬を摘んで横に思い切り引き伸ばした。

 腕力も握力も馬鹿力のくせに、肉がちぎれそうなくらい力を込めて引っ張られている。ケイトは顔を顰めると、シュウに抱きついた。


「いふぁいっふぇ。ひょめん。やめふぇ」


「やだね。ほんっとに言うこと聞かないんだから」


 嫌がるケイトを力づくで抑え込み、まだ引っ張り続けようとする。たまらずケイトはその変な顔のまま、シュウの唇にガブっと噛みついた。


「んっ。イタッ」


 下唇を喰みながら、少しだけ引っ張り、軽く吸う。シュウは大体これだけでおとなしくなる。それでも頬を引っ張られてたのが痛かったので、ケイトは反撃の意味を込めて、少しだけ歯に力を入れ、薄く血を滲ませた。


「イタタ……お前ー! やりやがったなあ。朝からいじめられたいのかねえ? 俺は別にいいんだけどー」

 

 むう、と口を尖らせて拗ねるシュウはとても可愛らしいが、やることはあまり可愛らしくない。今からシュウに抱かれると、明らかに午後のバイトには出られなくなる。ドラマーの体力には敵わないし、気絶するまで抱かないと気がすまないシュウのしつこさには付き合いきれない。この辺でやめておこうと思い、ケイトは唇を開いて離れた。


「痛ぇー。なあ、ケイトさー。それ、友達にも勧めてるでしょ? 足がつくよ、そろそろ。なんなのかは良くわからないけどさ、なんかヤバいクスリなんでしょ? 仕入れ先とかわかったら、どうなるか……検事になるつもりなんでしょ?」


 シュウは顔を顰めて手をパタパタと振り、煙を散らして匂いを消そうとしていた。ベッドサイドに置いてあった空気清浄機をフルパワーにする。


「あ、シュウさん、もしかしてコレ、ヤバい世界の人から仕入れてる危険なクスリだと思ってます? 違いますよ。これ、俺が自分で作ってるんです」


 シュウはギョッとして、ケイトから一歩離れた。自分で自分を抱きしめるようにして二の腕をさすり、怯えるふりをして戯けて見せる。


「ええ? なに、なに、なに? どういうことよ? クスリを作ってる? 自分で? それ、余計にやばくない?」


 そのシュウの反応を見たケイトは、妖しく微笑むともう一本巻きタバコに火をつけた。そしてそれをシュウの口に突っ込んみ、目で誘った。シュウは一瞬気色ばんだが、甘い香りとケイトの色気に釣られて、すうっと一息吸い込んだ。


 ケイトはそれを見て、うっとりと満足そうな顔をした。そして、蛇のようにシュウの腕に絡みつくと、手のひらをシュウの胸に当てた。そのままそれを下へと滑らせていく。


「これね……、ただいい香りのする香草を混ぜてあるだけなんです。大丈夫だから、ゆーっくり吸ってみて」


 シュウは躊躇いつつも、その香りに惹かれていた。興味がないと言ったら嘘になる。それに、吸い込むたびにケイトの手が触れている部分がぞわぞわと神経を震わせるのがわかった。それがだんだん、欲しくて欲しくて仕方がなくなる。


「確かにいい香り……」


 その香りには、甘くてふわふわとした安心感があり、ほんの少しだけ青臭い香りが隠れている。公園を散歩中に花の香りを嗅いでいるような感覚とでも言えばいいだろう。嗅いでいくと、確かにケイトの言う通り、何も問題はないのかもしれないと思い始めてきた。


「あ……あ、ケイト……」


 どんどん安心感と高揚感が増していく。シュウは自分の手でタバコを持つと、自らその香りを楽しみ始めた。はあっと煙を吐き出すたびに、表情が扇情的になっていく。


 おそらく、自分では全く自覚がないのだろう。あれほど拒んでいたのに、今は何も考えずに自分から吸い込み続けている。だからクスリは怖い。こうやって、自然に馴染み、気がつくとそれなしではいられなくなる。


——シュウ、今日で陥落するだろうな。


 ケイトはニヤリと笑うと、シュウから離れた。また窓辺に立ち、遠くを見る。ケイトは、自分の中に蠢く汚い感情を見ていた。


——もう、いいんだ。


 いつまで経っても消えず、どんどん膨らみ続ける怪物。飼い慣らすことができず、飲み込まれるしかなかったこれまでの人生。自分としても、そろそろ決着をつけたいと思っていたところだ。


——どうしてかはわからない。でも、もういい。やっとそう思えた。


「でもね、お前を殺すことだけは達成したいんだ。刺し殺すだけじゃ、物足りないからな。のたうち回るくらいに苦しんでもらうよ」


 左手の焦げた痕を睨みつけながら、呟く。


「いいよね、ヤト」


 その背後で、シュウがタバコを吸い切って倒れ込んだ。真っ赤で蕩けた顔をしている。うまく言葉も出ず、涙目でケイトを見つめていた。ケイトはシュウの頬を撫でると、愛おしそうに微笑んだ。


「さよなら、シュウ。俺、本当にシュウのこと、愛してたよ。きっと辛いだろうけれど、俺のこと忘れないでね」


 そう言って、首筋に歯を立て、ズブリとそのまま押し込んでいった。

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