対決

第23話 南方の蛇

 構内に戻って図書館内で二手に分かれ、予定通りに資料を探してはコピーをして綴っていった。いくつかはデータで持ち出すことも出来たので、予定より資料の枚数は少なくて済んだ。

 後は、近所の神社の宮司さんにお話を伺いに行く予定を立てれば、大体の準備は終わる。前期の提出課題としては、十分な準備ができているはずだ。


 そうして少し落ち着いてきた頃、図書館内で二人がコピー機の前に立って話をしていると、ふと背後に視線を感じた。振り返ってみると、明るいイエローブラウンのストレートヘアの女子学生が、こちらをじっと見つめていた。


 そして、その目は間違いなく綾人を見ていた。敵意は無く、どちらかというと好意を感じるものだった。綾人とタカトは顔を見合わせると、うんと頷きあった。


「取り敢えず、話を聞いてみよっか」


 綾人はスッと歩み出ると、その女子学生の方へとスタスタと歩いて行った。タカトは、こういう場合は綾人に任せたほうがいいだろうと思い、少し後をついて行く。

 綾人はその女子学生に向かって、目も眩むようなキラキラと輝く笑顔を振りまいて話しかけた。


「こんにちは。えーっと、もしかして俺に何か用がある? ずっと見られてるかなーと思ったんだけど、合ってる?」


 綾人は笑顔を貼り付けたまま、一般的には誘い文句とも取られかねないセリフをサラッと吐いた。流石にモテる男はこういうセリフを口にしても、表情ひとつ変えない。

 タカトは、「自分には絶対に無理だろうな」と思い、苦笑いをした。


 穏やかな微笑みを浮かべて、相手を萎縮させないように気遣っている。これが綾人がモテる所以なのだ。ただ見た目の良さだけで人気があるのでは無いのだということが、こういう時によくわかる。

 

 相手を見て話しかけ方を選び、一番腹を割りやすい方法で話しかけていく。面識が無く、遠くから話しかけるのを躊躇うような子には、恥ずかしい思いをさせないように気を遣っている。

 そういう細やかな対応が、いろんな人から評価されているということを、タカトは水町から聞いて知っていた。


「あの、ええと、え……あ、こんにちは。えっと、その、聞きたいことがあって……あの、あ! わ、私は雨野桃花と言います。心理の一年です。桂くん……って呼んでもいいですか? に、なら教えてもらえるかなって思って」


 綾人はニコニコしながら相槌を打っていた。名前の呼び方すら名字に君付けで、それを確認してからしか呼ばない。綾人に話しかけてくる子にしては珍しく、かなり控えめな子のようだ。

 

「俺になら教えてもらえるって? なんだろう、取り敢えず話してくれる?」


 桃花は、俯いて軽く拳を握った。綾人と桃花は、これまで一度も話したことが無い。僅かながらも緊張の色が見える桃花に、綾人は出来るだけ穏やかな対応をしようと心がけた。

 ふわりと微笑んで「なんでもいいよ。話して?」と促す。すると、桃花は綾人のその穏やかな顔に安心したのか、キツく握っていた手をややゆるめ、ゆっくりと話し始めた。


「あの……私、瀬川くんのことが好きで、告白しようと思って会ってもらう約束をしてたんだ。それが、急に学校に来なくなってしまったから、理由が知りたくて。時間を取ってもらう約束はちゃんとしてたし、メッセージの記録もあるから、間違い無いの。瀬川くんて何も言わずに約束破る人じゃないと思うから、何かあったのかなと思って。桂くん、何か知らないかな? もしかして、告白しようとしたのがいけなかったのかなって、気になってしまって。でも、そんなことで講義休んだりしないとは思ってるんだけど……」


 握った拳が揺れていた。確かに瀬川は、約束を黙って破ったりするような男ではない。付き合いはしないけれど、それ以外の対応は全て誠実なんだと聞いたこともある。そのあたりが正確に掴めないのも、瀬川の魅力でもあった。


 綾人は、その問いに対してどう返答するかを考えていなかったので、少し考え込んでしまった。考えあぐねて出来た間で、桃花はとても大胆なことを訊いてきた。


「もしかして、何か病気にかかったとかですか?……あの、まさか……性病とか?」


 綾人は下を向いていたので、急に何を言うんだと驚いて前を見た。すると、桃花は顔を真っ赤にして「今の私じゃ無いです!」と言いながら両手を振り回して必死に否定していた。


 そして、桃花の隣にいつの間にか現れた青みがかった黒髪ショートの男子学生を、必死になって指さしていた。その男子学生は、じっと綾人の目を見ていた。その目には、なんの感情も隠っておらず、純粋な好奇心で質問されているようだと感じた。


「ああ、びっくりした。いきなり何をいうのかと思ったら……」


 ただし、タカトは警戒していた。


——この男、カフェで綾人をじっと見ていた男だ。


 それ以前には、買い物中のスーパーでも遠巻きに綾人たち三人を見ていた男だ。こう関わりが出てくると、どうしても何かがあるのだと思ってしまう。それに、その視線にも違和感を感じる。なぜこれほどに見つめているのに、なんの感情も感じられないのか。意図的に閉心していることも考慮しないといけないなと、タカトは思い始めていた。


「君さ、カフェで綾人のことじっと見てなかった? 雨野さんと同じ理由? 綾人に聞きたいことがあったってわけ?」


 タカトが青髪の男子学生に問いかけると、桃花は驚いて目を丸くした。


「え? 陽太、桂くんたちに何か用があるの? もしかして、また瀬川くんのこと?」


 陽太は一瞬驚いたように目を見開いていたが、すぐに表情を戻してタカトの方へ向き直ると、コクリと頷いた。その表情に嘘はなさそうに見えた。


「あ、あの、彼は川村陽太といいます。理学部理学科の一年生。私の幼馴染なんだ。理学部は基本的に金曜日が実習で遅くなるからあまり参加出来てはないと思うんだけど、金曜日のボランティアのメンバーでもあるんだよ」


 陽太は、綾人とタカトに向かってペコリと頭を下げた。なんの感情も籠っていない目は、観察するようにじっと綾人を見ていた。


——とりあえず、話を聞いてみるしかないかな。


 違和感はあるものの、追求するには具体的な危機が起きていないことを考えて、タカトは耐えることにした。綾人は綾人で、頭を掻きながら考えていた。陽太の質問に答えようとしているのだが、適当な答えが思い浮かばない。


——確かに性病と言うと話は簡単だけれど……さすがに瀬川も不名誉だろうし。


 やはりここは、無難に体調不良で休んでいると言うのが一番適当だろうと思い、お茶を濁すことにした。


「瀬川、体調不良って言って休んでるよ。でも、サボりなんじゃないかな? 俺、結構家に会いに行ってるからね。見た感じ、性病とかではないと思いうよ。いや、あの、何も確認とかしたことはないんだけど。あいつ一人暮らしだからさ、必要なものを聞いて届けにいって、ちょっと話して帰ってる感じだなんだけど、そんな大病してる風でも無いしね」


 当たらずとも遠からずといった線で答えておく。毎日瀬川の家に行くので、それはその通りに話しておかないといけない。あまり大きく嘘をつくのも、後が大変になるだろうと思ってのことだ。この二人の様子からして、ここだけで話が終わりそうなほど単純なことでは無い様な気がしていたからだ。


「そうなんですね。なんだ、性病とかだったら面白かったのに」


 陽太は、そういって顔をくしゃくしゃにして笑った。タカトには、その顔がやや安堵を含んでいたのと、多少強がっている感じに見えたことが、少しだけ引っかかった。


「まあ、流石に性病に罹ったら俺にも言わないと思うけどね。恥ずかしいでしょ、流石に」


「そうですね」と言って、陽太は苦笑いをした。桃花も同じようにしていて、自分が原因では無いことが分かっただけでもスッキリしたようだった。


「わざわざ時間取ってもらって、ありがとう」


 陽太は、そういって綾人に握手を求めて手を出してきた。綾人はなんの衒いもなく、微笑みながら手を出すと、陽太と握手を交わした。


「いや、こちらこそ……」


 そこまで口にして、急にうっと呻き声をあげて蹲った。あまりに突然のことに、タカトは驚いた。


「綾人? どうした? 気分悪い?」


 タカトが膝をつき、綾人の顔を覗き込むと、微かに体が震えていた。それに、目を見開いた状態で一点を見つめている。それはまるで、何かに怯えているようにも見えた。


「すみません、静電気ですか? 俺。良く静電気起きるんですよね……ごめんなさい」


 そういって、バツが悪そうにしている陽太を見て、タカトは睨みつけずにはいられなかった。


——本当に綾人に対して何も思っていないのか?


 カフェで綾人を見ていたのは、間違いなく陽太だった。なぜあんなにじっと見る必要があったのだろう。ただの癖だろうか。そう言われると、理系なのだから観察癖があってもおかしくはないのかもしれない。でも、何か他に理由がありそうな気がして仕方が無かった。恨みでは無いだろう。憧れでもなさそうだ。


 タカトはあれこれと考えながらも、何も思いつかなかったため、とりあえず綾人をどこかに座らせようとした。綾人の肩を担ぎ、少しだけ体を起こすと、そのままおぶってベンチまで行くことにした。


「綾人? どうかした? 傷、痛むのか?」


 穂村が綾人に話しかけているのに、綾人は全く穂村の方を見ようとしなかった。陽太に目を向けたまま、逸らそうとしない。目を奪われていると言うよりは、防衛反応のように見えた。


 本能が、警戒を強いている。目を離すな、と言われているように見えた。


「タカト、あいつ」


「ん? なに? 川村くんがどうした?」


 タカトは、綾人の視線の先の陽太に目を向けた。

 その姿を見て、血の気が引いた。


 今、目にしていた陽太とは、まるで違う人相の男がそこにいた。


「なっ……!?」


 突然の変化にタカトは目を疑った。同時に、綾人が危険に晒されたのではないかと思い、気が気でなくなってしまった。


「綾人、大丈夫なのか!?」


 それでも綾人はタカトの方を向かず、陽太を指さして叫んだ。


「瀬川に取り憑いてんの、あいつだ!」


 川村陽太の顔はいつの間にか真っ青になっていて、透明感を失い白く澱んだ目をしていた。あのあどけない顔が、生気を失ってゾンビのように様変わりしていた。


 綾人はその目を見て確信した。あれは、あの日瀬川から引き剥がされて、消されていったあの気持ち悪いヌメヌメとした魚のような生き物の目と同じものだ。


 なんの意思も感じられない、虚無の顔をしているのに、なぜか欲に塗れているような印象がある、不思議な顔立ちをしている。

 

 陽太はゆらりと体を振りながら、こちらへと歩いて来た。綾人が突然のことに身動きが取れずにいると、あっというに間合いを詰められてしまった。


「あーもう!」


 綾人は陽太の後ろへと回り込み、顎の下を手のひらでぐいっと上に向かって押し上げた。そして、そのまま回転しながら地面へと叩き落とす。陽太は反撃せず、そのままの勢いで無言のままバタンと倒れた。


 以前瀬川にこれと同じ技をかけたことがある。瀬川に固執している生き霊であるのなら、そのことを知っているのではないかと思った。そして、その通りの反応が返ってきた。


「これ、瀬川くんがされたのと同じでしょ? あは、お揃いだ」


 生命力の感じられない顔から、薄気味悪い笑みを漏らした。その場に立ち上がると、一層君の悪い顔で笑いながら、ジリジリと綾人に近づいてくる。


「くそっ、どのくらいなら痛めつけても大丈夫なんだ。体にダメージが残ったりしたら大変だろう?」


 あの魚みたいなやつを痛めつけることには、気が引けたりはしない。けれど、もし陽太に影響が残ってしまうのなら、力をセーブしないといけない。


 そのことで躊躇していると、陽太の手が綾人の首元へと迫ってきた。綾人は咄嗟にステップバックして交わしたが、先の見えない防戦一方の状態が続き、心がじわじわと疲弊し始めるのを感じた。


「貴人様! 出てきてください! 相手を殺さずに倒す方法がわかりません!」


 綾人は、叫びながら陽太を交わし続けた。そんな綾人の様子を見て、タカトは「そうか、そうだった」と独言ると、鏡を取り出した。出した瞬間にパッとフラッシュのような閃光が走り、タカトと貴人様は入れ替わった。アザが消え、右目が赤く光る。


 「タカト、少し気がつくのが遅いぞ。しっかりしろ」と呟くと、綾人の方へと走った。そして、綾人の隣に立つと「大丈夫か、綾人」と声をかけ、微笑みかけた。


「貴人様! ……良かった。あの、これ、瀬川に憑いてるヤツですよね!? どっ、どうしたらいいですか?」


 貴人様は、綾人の指をたどっていき、その先に立つ陽太に目を向けると、やや目を細めた。それは陽太を憐んでいるように見えた。そしてその中に、僅かながら悲しみと後悔が見えた。綾人には、その表情が意味するところがなんなのかがわからなかった。


「やっぱりお前か。お前も、唆されたんだな」


 貴人様はそう呟きながら陽太をじっと見つめた。すると、陽太の動きが鈍った。よく見ると、小さく何かを呟いている。それは綾人には内容が聞き取れないほどの小さな声だった。


「うわ、なんだあれ」


 そうやってしばらく呟いていると、陽太の顔と魚のような顔が入れ替わって見えるようになった。そして、それをやめると、また魚の顔だけになる。貴人様はその様子を見て、「ふむ」と短く考え込むと、右の手のひらを天へ翳した状態で斜に構えた。


「遠慮はいらない。あいつの動きを止めるぞ」


 大きくぐるりと手を振ると、何もなかったはずの背後から、とつぜん弓矢が現れた。何もなかった場所に突如として現れたそれを、綾人に投げて渡す。驚いた綾人は、慌ててそれを受け取った。


「え? 俺が?」


 驚いた綾人が貴人様を見ると、貴人様も綾人のその反応にやや驚いた顔をして肩を竦めていた。


「そうだ。お前が退治を命じられてるだろう? 大丈夫だ、持てば使える。そういうものだからな」


 そう言ってニヤリと笑った。


「えっ? いや、でも……」


 綾人は弓を手にして途方に暮れた。陽太はなぜかそれを怖がっているようで、ピタリと動きを止め、目を逸らすまいとしていた。反撃に出ることができないようで、グルルと喉を鳴らして威嚇してはいるのに、そこからは全く動こうとしない。


 綾人も綾人で、どうしたものかと考えあぐねていた。綾人には弓道の経験が無い。それでも、なぜだかその弓に見覚えがあり、うまくやれる気がしていた。


 ただ、一つだけ確かだったのは、瀬川を目覚めさせるためには今を逃してはならないということだった。自信の無さに震えながら、それでもやるしかないのであれば、あとは自分で鼓舞するしか無い。


「っしゃ! やるぞ!」


 そう叫ぶと、狙いを定められるように相手との距離を取ろうとして、その場から少し離れた。


 気がつけば、いつの間にか図書館内には人影がなくなっていた。貴人様が人払いをしてくれたのだろう。周囲に影響がないことがわかって安心した綾人は、くるっと振り返ると弓に矢をつがえて引き絞った。


——落ち着け、落ち着け。集中するのは、組み手と同じだ。


 ギリギリと音をたて、狙いを定める。それと同時に神経も鋭く尖らせるように、必要なものだけを生かし、使わないものを閉ざしていく。視界と指の感覚、体幹から放つエネルギー、引き絞った腕力、そして反射。それらに意識を集中した。

 

 弓を放つなど、今の人生ではこれが初めてだ。自信があったとしても、手順はわからない。それでも、やるしかなかった。


——取り敢えず、当たってくれ!


 そう思いながら陽太の心臓に焦点を合わせると、そこへ向かって飛ぶように狙いを定め、パッと手を離した。矢はバシュンと音をたて、一直線に相手に向かって飛んで行った。


 しかし、手を離れた矢は、一瞬視界から消えたと思うと、そのまま見えなくなった。


「あれ? どこに飛んで行った?」


 途中まで見えたもので判断する限りは、間違いなく命中していたはずだ。それなのに、その先に悲鳴も叫びもない。当たらなかったようだ。それどころか、標的であるはずの陽太がいなかった。


「消えた?」


 綾人が周囲を探しても、陽太は見当たらなかった。今の今までそこにいて、間違いなく射抜いたはずの相手が消えてしまった。どうしたらいいのかと探し回っていると、桃花の声が聞こえてきた。


「桂くん! あそこ! さっきの髪が長い人と一緒にいる!」


 弓を下ろして桃花の指が示す方へと視線を動かす。その先には、矢を手に握りしめ血を流している貴人様の姿があった。どうやら綾人が放った矢を、手で掴んだようだ。そして、陽太は貴人様の腕にだらんと体を預けて気を失っていた。顔は完全に元の川村陽太に戻っていた。


 綾人は貴人様の方へと走った。貴人様が何をしたのか、全く理解ができなかった。


「貴人様? 陽太を矢で射ってはいけませんでしたか? 俺、指示を取り間違えたんですか?」


「いや、合っていたぞ。ただ、俺が気がついたことがあって、この生き霊を消滅させるのをやめたんだ。匂いを嗅いでみろ。それがわかったらすぐ離れろ。長く嗅いではならないぞ」


 そう言われて綾人と桃花が近づくと、陽太はただ眠っているように見えた。そして、その体からは、うっすら甘くて僅かに青臭い匂いがした。


——これ、どこかで嗅いだことのある匂いだ。どこだ……?


 綾人がそれを思い出せず唸っていると、貴人様が徐に口を開いた。


「妙な香りがするだろう? 俺はこれが何かを知っている。口にするのも恐ろしい、呪いの残り香だ。綾人、こいつを瀬川に合わせるぞ。あの男はこれが何かを知っているはずだ。俺は先に行く。この男を軽くしておくから、後から連れてこい」


 そう言ったかと思うと、ざあっと風を巻き起こし、その場から突然消えてしまった。

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