第13話 付き纏うイト2


 川村陽太は、学食のテラスで昼食をとり、午後の授業に備えていた。室内が思いの外暑くなってしまい、仕方なく外へ出て来たのだけれども、かなり風が強く、砂埃や散乱したゴミに悩まされている。


 舞いあげられたものが目に入ったり、昼食の中へゴミが飛んで来ては、その度に食べるのを中断する羽目になっていた。そのため、少しずつ予定時間より遅れ始め、気がつくと食べ終わる予定だった時刻よりも、数十分過ぎている。陽太にとって時間に遅れることは、何よりも許せない行為だ。それなのに、まだ用意した食事の半分も食べ終わっていない。


「あー、やばい! 早く行かないと。酵素の反応時間次第じゃ帰りが遅くなるな。今日サークルあるはずだし、逆算……」


 陽太は、人と話すのが苦手だ。人間が会話せずに生きていける生き物なのであれば、ずっと黙っていたいといつも思っている。


 ただし、現実的にそれは無理だということはちゃんとわかっているので、会話嫌いが少しでも薄れるようにと、地道な努力を続けて来た。あまり気負わずに済む人たちとの交流はなるべく絶やさず、多少なりとも誰かと話す機会を持つようにしている。

 

 大学時代の思い出が、講義と研究以外は何も無いというのもあまりにも寂しいし、それは高校三年間での思い出だけで十分だと思っている。それならどうやって人と話す機会を得ようかと考えている時に、ちょうど幼馴染の桃花から誘われて、金曜日のボランティアサークルに入ることにした。


 人のために何かするということは、結局は自分のためになると陽太は思っている。最終的に何かしら得るものがあり、意義のある活動に時間を使うのはとても良いと思って参加することにした。


 最初は、ずっと好きだった桃香の隣にいたいという、邪な思いで動いた。しかし、まさかそのサークルで、自分の人生がひっくり返るほどの出会いがあろうとは、少しも予想もしていなかった。今、彼はその人に心を奪われ、常にふわふわとした状態で過ごしている。


「うー……。俺はこれから、どうしたらいいんだろう」


 今もその状態だ。ぼんやりとしていて、常にどこか緊張が緩んでいる。どうにか思考を実験の方へと切り替えようとしていると、突然強い風が吹き込んで来た。それは何も構えずにのんびりと過ごしていた学生たちの持ち物を巻き上げるようにして通り抜けていく。


「わっ……!」


 陽太は、その時もまた思考を想い人のことに占められていて、手に大切な資料を持っていたのだが、それを挟む力がだんだん緩んでいる事に気がつけていない。彼の目の前には、その好意を全て奪われてしまうような、眩い笑顔の残像が見えていた。


「あっ、しまった……!」


 緩んだ気持ちと同じように手から力が抜けてしまい、資料の全てが手元からスルッと抜け落ちて行く。放心していたためか咄嗟に反応出来ず、前回の実験で得た記録が、バラバラと解けるように散ってしまった。


「あー、嘘だろ。今日タブレット忘れたから紙の資料作ったのに! また見せてもらうには時間無いし……。もう、なんでクラウドに記録し無かったんだろう」


 陽太はそう言ってため息をついた。そして、頭を抱えて座り込むと「……めんどくさ」と呟く。二枚は近くで見つかった。ただ、残りの一枚がなかなか見つからない。そんなに遠くまで飛ばされたようには見えなかったのだが、どこに行ったのだろうか。


「どうするかな。事前資料がないと実験する意味がないし……」


 しばらくそのまま悩んでいたが、彼は結局欠席することにしたらしい。家に帰ればタブレットに記録はしてある。それを使えば問題なく補講が受けられるはずなので、風の強い日に紙を追いかけ回すよりはその方が建設的だと判断したのだろう。


「かと言って飛んで行ったものをそのままにするのも嫌だし、出来れば見つけたいんだけどなあ」


 陽太は、ノロノロと芝生の中や植え込みのあたりを探す。春先に暴風が吹き荒れやすい土地だということがわかっていたので十分気をつけていたのに、油断した一瞬で全てがダメになってしまった。


 しかもメモ用紙の色は何故か煉瓦色だった。ここは芝生とレンガが交互にある。色が近くて、見つけにくいいことこの上ない。


「ご飯を食べた場所も、メモ用紙の色も、……その前に出かける準備もだな。今日は色々ダメな日だ」


 力なくため息を零しながら、ベンチに座る。すると、ふと後ろの方で誰かが必死に何かを訴えている声が聞こえた。なんだろうと思い振り返る。すると、そこには抱き合う二人の学生がいた。

 

「こんなところで何やってるんだ……」


 と目を逸らそうとしたところ、そのうちの一人に見覚えがある事に気がつく。まさかと想いはしたのだが、確認するためにもう一度そちらを向く。そして、その顔を見て驚いた。


「やっぱり!」


 陽太は、すぐに立ち上がると、その二人の方へと向かう。この時間に二人がこんなところにいるはずが無いと思ったからだ。芝生の上を小走りに近づく。


「桃花?」


 陽太が声をかけると、困り果てた顔の桃花がこちらを振り向いた。その表情は今にも泣き出しそうなものになっている。


「あー陽太ぁ!」


 よく見ると、桃花は女性を支えていただけだった。その子は陽太も何度か顔を合わせたことのある子で、おそらく陽太に興味を持っている。名前は円凛華まどかりんか。桃花の口から何度も聞いた名前なので、人に興味を持たない陽太でも、流石に覚えてしまっていた。

 

 陽太は、自分を珍獣か何かのように扱う凛華のことを、あまり好きになれずにいた。三人で遊びたがる凛華から、なんだかんだと理由をつけて逃げ回っている事が、あのサークルでの唯一面倒くさいと思う問題だった。


「何してるの、心理ってこの時間はB棟で講義じゃなかった?」


「そうなんだけど、凛華が……」


 グッタリしている凛華を見て、陽太はギョッとした。気を失っているのか、完全に脱力した状態担っている。しかし、よく見ると顔色は悪いが、気持ち良さそうに眠っているだけのようにも見える。胸のあたりが上下しているので、呼吸はきちんと出来ているのだろうと思い、とりあえずは安心した。


 ただし、その眠りの深さは異常だと思った。凛華はピクリとも動かず、だらりと垂れた腕の様子から見て、ノンレム睡眠状態にあるように見える。こんな状況でここまで深く眠るということは、少しも問題が無いとは言い切れないのでは無いだろうか。陽太はそう推察した。


「これって、寝てるの?」


「うん、そうみたい。なんか気絶したみたいに眠ってる」


「桃花このままじゃ、講義に行けないね」


「うん。陽太、申し訳ないんだけど、医務室に連れて行くの付き合ってくれない?」


 桃花のその言葉に、陽太は一瞬顔を顰めた。ただし、その口が面倒くさいと言うより先に、「めんどくさいはナシで」と桃花に先を越されてしまう。さすがに幼馴染は陽太の性格をよく分かっているようだ。


「じゃあ、俺がおぶって行こうか?」


 と陽太が申し出ると、桃花は


「助かる!」


 と言って、桃花は凛華を陽太の背中に乗せた。眠っているので、ズッシリと重い。インドア派の陽太には、やや辛い重みだった。それでもどうにか立ち上がり、必死に足を運ぶ。


「ありがとー。陽太はやっぱり優しいね」


「いや、桃花がめんどくさいって言わせてくれなかったんじゃん。ちょうど良かったけどね。今実験に必要なメモ無くしちゃって、行っても意味が無いからサボろうとしてたところだったんだよ」


「そっか。でも、私は助かったから。ありがとう」


 桃花は可憐な笑みでお礼を言う。陽太はその顔を見ていると、自分の表情がゆるく崩れていくのがわかった。それを知られるのが恥ずかしくて、必死に表情を引き絞ろうとする。


「も、桃花、おでこどうした? なんか真ん中のところ、赤くなってる」


 陽太は両手が塞がっているので、顎で桃花の額の中心を示した。桃花はそこを手で触ると、「あれ? ちょっと熱持ってるかも」と言いながらスマホのカメラでその部分を確認した。


「なにこれ? 恥ずかしいー! 虫刺されかなあ……後でファンデ塗っとこう」


 そう言いながら、前髪を引っ張って少しでも隠れるようにと必死になっている。その姿が愛おしくて、陽太は思わず笑みを零した。


「ねえ、心理ってこの時間の講義、必修じゃなかった?」


「必修だったよ……一応代返お願いした。多分バレるけどね。ちょっと凛華の様子がおかしくて」


 桃花は、凛華に起きていることを陽太に相談してみる事にした。おそらくまともな返答は無いだろうとは予測しているけれど、このまま放っておいてはいけないような気がしていたのだ。一人で抱えるには重たい問題のような気がして、誰かに言わずにはいられなかった。


「凛華ね、多分彼氏にDVを受けてるのよ。信じられないくらいたくさんのアザがあったから。それに、そのことを誰にも相談していないみたいなんだ。私も聞いてないし。聞こうとしたら倒れちゃって」


 陽太は、ふーんと言ったきり黙ってしまった。返答に困っていると言うよりは、どうでもよさそうだ。予想通りといえば予想通りなのだが、困っている自分に手を差し伸べようとしてくれないことに、桃花は多少苛ついてしまう。


「もう、陽太って本当にいつも面倒くさそうだよね。面倒くさいと思わないことって何かあるの?」


 うーんと言いながら、陽太は考え込んでいた。しばらく無言で歩き続けたあと、一つだけ思いつき、立ち止まる。


「法学部の瀬川さんのことを考えるのは、めんどくさくないかな」


「え?」


 陽太は桃花をじっと見つめていた。その目は、驚くほどに真剣だった。そもそも、陽太はあまり冗談を言わない。だからおそらく、彼は本心を話しているのだろう。


 その彼が、他学部の男子学生の事を考える事だけは面倒くさくないと言う。桃花は困惑した。陽太の真意がわからないからだ。意味ありげに桃花の目を見つめる陽太のことが、少し怖くもあった。


 桃花は、じっと陽太の目を見返す。すると、ニコッと陽太は微笑んだ。その微笑みが意味するものもわからない。彼女は、しばらく学校で見かけていない瀬川のことを案じていた。

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