第14話 穂村の想い


「綾人ー。それシャツ裏返しじゃない?」


 綾人がいつもの学食のテラスでメロンパンを食べながらコーヒーを飲んでいると、穂村がニヤニヤしながら近づいてきた。


「えっ? 本当に?」


 そんなことあるか……と思いながら見てみると、確かにTシャツのプリントが薄い。


「うわ、本当だ……信じらんねー」


 今日は風が強い。少し歩くだけでもゴミが飛んで来ては目を瞑り、髪がボサボサになっては直しと忙しくしていた。だからと言って、裏返しで着た服に気づかないものかと問われると、そんなことは無い。綾人がぼんやりしているからに違いない。

 それでも、ここで服を脱ぐわけにもいかず、綾人がどうしようかと慌てていると、穂村がそれを見て楽しそうに笑い始めた。


 そして、はたと気がつく。今気がついたにしては、やけに楽しそうにしている。もしかして、もっと前から気がついていたのに、それを放置して楽しんでいたんじゃ無いだろうか。最近の彼は、そうして綾人で楽しむことが多いのだ。


「穂村ー。お前、これいつから気付いてた?」


 じっとりと彼を睨みながらそう訊くと、楽しそうに長い髪を揺らしながら、彼は


「い、一限の時」


 と答える。綾人は、思わずそう答えた穂村の肩を叩いてしまった。朝会った時から気がついていたのに、そのままにされていたのだ。面白がるにしても、酷いと思ったようだ。顔を真っ赤にしながら、穂村に掴み掛かって行く。


「お前ー! 気がついたらすぐ教えろよなー!」


 穂村は、それでもまだ楽しそうに笑っていた。


 最近、彼はよく笑う。歩く不幸と呼ばれていた人物とは思えないほどに、いつも幸せそうにしていた。その笑顔がとても眩しくて、綾人は何度もその笑顔に心を奪われている。


 今もまた、いつもにようにその横顔を見ている。こうしていると、とても幸せな気持ちが溢れてくるからだ。ただ、見られている方は、恥ずかしくて堪らないらしい。綾人があまりにも凝視するので、穂村もそれを気にせずにはいられない。


「何、そんなじっと見て。怒った? ごめんね」


 笑い過ぎて溢れた涙を拭いながら、穂村は綾人に甘えるように許しを請う。美しい顔立ちをしているため、上目遣いに見られると、それだけで綾人はそわそわと落ち着かなくなってしまう。

 最近はそんな風に穂村に弄ばれるようなことが増えた。しかも、綾人も綾人で、それを居心地良く感じるようになっていた。


 綾人が穂村にぶつかってしまったり、貴人たかひとが穂村に憑いていることもあり、二人が関わることが増えたことで自然とそうなった。そうでなければ、ここまで親しくはなれなかっただろう。


 貴人たかひとは、いつも表に出てくるわけではない。普段の生活は、綾人はほぼ穂村と一緒にいる。夜眠る前に貴人たかひとと入れ替わり、綾人のその日の善行をカウントして、その数に見合った罪の浄化をしてもらう。それは今も毎日続いている。それでも、いつまで経っても綾人はそれに慣れることができず、毎回顔を真っ赤にしては、ドキドキして死にそうな思いをしていた。


 ただ、ここ最近は綾人がドキドキしている最中に、貴人たかひとがため息をつくことが増えていた。その理由を訊けばいいのかもしれない。でも、なぜかあまり良くない話が出てくるような気がしていて、彼にはそれが出来ずにいた。


 そんなことを考えていたら、今度は穂村がじっと綾人を覗き込んでいた。いつの間にか、鼻先が触れそうな距離に深淵の目が迫っていた。その儚げな美しさは、綾人を一瞬で捉える。

 

「穂村……?」


 綾人は穂村のそのあまりに熱の籠った視線に戸惑い、離れようとした。すると、穂村は綾人の腰に腕を回し、逃すまいと引き寄せる。反対の手は、しっかりと握られている。がっちりホールドされた状態で、さらに顔を近づけてきた。


「ちょ、ちょっと待って……」


 あまりの急な接近に、綾人はなおも顔を逸らして逃げようとする。背中を反るにも限界があり、だんだん耐えられなくなった綾人は、そのままドスンと潰れてしまった。下は芝生が生い茂っているので、ケガはしていない。ただ、クッションがあるわけでも無いので、打ち付けた腰がかなり痛んだ。


「いってぇー。もう、何すんだよ。何か言いたいことがあるんなら……」


 そう言いながら穂村の方を見た。覆い被さった状態の穂村の前髪が、綾人の顔に触れてくすぐったい。その中に、右目の周りのアザがはっきりと見えている。綾人は、このアザを初めて見た日を思い出した。


 助けてあげたいと思ったのに、何もしてこなかった三年間を思い返す。その後の三年間、歩く不幸と呼ばれた目の前の男は、今幸せそうな笑顔を湛えて、愛おしそうに自分を見ている。そのアザが自分たちを引き合わせてくれたと感じた綾人は、そっとそれに触れた。するすると指先でなぞっていく。


「気になる?」


 アザを触っている綾人の手を握りながら、穂村は訊いた。そして、その手にチュッと口付けた。その口に手を触れたまま、綾人の目をじっと見ていた。よく見ると、その目には熱が灯り始めている。


「綾人」


 穂村が小さく綾人の名前を呼んだ。綾人は、この顔の人に名前を呼ばれるのには、慣れている。毎日、毎晩、触れ合っている。でも、今目の前で綾人を呼んでいる人は、同じ顔なのに別の人だ。

 声が違う、触れ方が違う、綾人を呼ぶ時の声に含まれるニュアンスが、ほんのすこしだけではあるけれど、やっぱり違う。自信ありげに慈しむ貴人様とは違い、穂村が彼を呼ぶ時は、許しを請うような、おずおずとした遠慮がちな呼び方だった。


——うわ、なんか……ぎゅってなる。


 切羽詰まった表情の穂村の優しい声が、綾人の胸の奥に響く。綾人は自分の体が震えていることに気がついた。それはこれまで一度も経験したことのない、深い喜びだった。名前を呼ばれるだけで、こんなに嬉しくなることがあるのかと戸惑ってしまう。鼓動が速まって、息が苦しい。


「綾人。俺、あれから返事聞いてないんだ。今、聞かせてくれない?」


 彼は綾人に触れていた手の甲で、その頬を擦る。穂村は肘を付いて前傾になった。どんどん顔が近づいてくる。でも、綾人はまだ、彼のその想いにどう答えればいいのかが分からない。


 綾人自身、穂村に好意を持っていることは間違いないと思っている。

 ただ、その想いが貴人たかひとへのものなのか、穂村へのものなのかが分からない。どちらと過ごしている時も、なんとなく浮気をしているような気がして咎められるのだ。


 恋愛経験の無い綾人にしてみれば、この状況は難しく、理解し得ない。心がはっきりと決まっていない状態でこんな風になることに、毎回罪悪感があった。それがどうしても苦しく、思わず目を逸らしてしまう。あまりに真っ直ぐな思いをぶつけられているため居た堪れなくなり、目を瞑ってしまった。


 すると、穂村が悲しそうに呟いた。


「……こっち見て、綾人」


 その声音は、穂村は今の綾人の行動に傷ついたのだと告げていた。そうしたかった訳ではない彼は、言い訳をしようとした。その一瞬を穂村は見逃さ無かった。彼はそのまま綾人に覆い被さるように抱きしめる。その腕の中に閉じ込め、長くて深いキスをした。

 

「んっ、……ちょ、っと」


 急激な距離の詰め方をすることで綾人が困惑してしまっていることには、穂村はもちろん気がついている。それでも、このチャンスを逃す手はないと思っていた。

 穂村としても、最初はゆっくり距離を詰めていこうと思っていた。それでも、そんなに呑気なことを言ってられないような事態が待っていることを知った以上、そうも言っていられなくなっていたのだった。


——会えなくなる前に、三年分の想いを綾人にぶつけたい。


 何度も繰り返し口付けながら、穂村は数日前に貴人たかひとから聞かされた話を思い出していた。



「えっ? それ、本当ですか?」


 穂村は自宅で鏡を前にして座り、そこに映る自分と同じ顔の人物に食ってかかっていた。今彼が貴人たかひとから聞いた話が、どうしても納得出来ないものだったからだ。


「百人を救えても救えなくても、節分の日には死ぬ……? 綾人が……?」


「そうだ。自分が生きるために罪を減らしているわけではないからな」


 貴人たかひとは、まるでそれが当然のことであるかのように答えた。でも、それは穂村にとっては裏切りの一言でしか無い。穂村は、綾人が節分までに罪を全て滅することが出来れば、全ては元通りになると思っていた。無事に節分を超えて、今と変わらずに生きていけるのだと思っていた。


 確かに貴人たかひとにそのことを訊こうとしたことは無かったかもしれない。それは、綾人は自分が死なないために浄化を頑張っているのだと、完全に思い込んでいたからだ。


「じゃあ、あと一年も経たずにいなくなってしまうってことですか?」


 ようやく目を合わせて話が出来るようになったというタイミングでそんな話を聞かされ、穂村の胸の中を焦りと怒りが激しく渦巻く。


「いや、待ってください。じゃあなんのために綾人は人を救うんですか? ただ大変な思いをしているだけじゃあ……」


 鏡の中の貴人たかひとは、厳しい顔つきで被りを振った。「それにはちゃんと意味がある」と低く力強い声で言う。


「それは、あいつが地獄に堕ちないためだ。このまま何もせずに死ぬと、確実に堕ちる。それも、数千年という刑期が既に決まっているんだ。綾人の今の姿からは想像できないだろうが、あいつの魂に科せられている罪は、それくらい多い。浄化の行は謂わば猶予だ。あいつが前世で重ねた罪は、本人だけに責任があるわけではないという判断が上から下されて、猶予期間が設けられた。そういう意味では、大きなチャンスをもらったことになる」


 穂村はそれを聞いて頭を抱えた。綾人は毎日、勉強やボランティア、家の手伝いと忙しく、それ以外でも校外での人助けなどをしている。ずっと何かに追われ、毎日を必死に生きていた。

 その全てに意味が無いとなるとあまりに可哀想だと思っていたから、そうで無かった事自体には安心した。


「それはわかりました……。そうすることで、貴人たかひと様と綾人が一緒に天界へ行くって言う話でしたよね。でも、だったらなんで俺を巻き込んだんですか? すぐに別れが来るのをわかっているのなら、わざわざ俺を綾人に近づけなくても良かったじゃないですか。俺は綾人を好きだと言う気持ちを、忘れようとしていたんですよ。それをわざわざ焚き付けておいて……。酷いですよ。自分たちさえ良ければいいんですか? 俺が苦しむことは想定されてなかったんですか?」


 穂村は、高校の時から好きだった綾人のことを、ちょうど諦めようとしていた時に貴人たかひとに出会った。あの日の彼の願いを聞き入れなければ、綾人への思いを強めることは無かっただろう。


 今協力していることが、貴人たかひとと綾人の魂には役に立つのだとしても、自分の気持ちだけは蔑ろにされてしまうのだと思うと、どうしても受け入れられそうに無い。


 穂村の体を離れた貴人たかひとは、実体がないため目に見えない。姿を見せるために、いつも鏡の中から穂村へと話しかけてくる。その鏡の中の自分そっくりな人物に向かって、思い切り悪態をつきたい気分だった。


「他の人の体を借りてくれば、俺はこんな思いをせずに済んだはずですよね。俺が綾人を好きだって言うことを知った上で、俺に体を貸すように言われましたよね。それなのに、いなくなることを話しておかなかったなんて、ひどいじゃないですか!」


 貴人たかひとは、真剣な面持ちで穂村を見つめていた。眉根を寄せて、痛みに耐える顔をしている。穂村は彼が今その顔をすることが狡く思えた。今悲しんでいいのは自分ではないか、どうして騙した側がそんな顔をするんだと思うと、許せないという思いがさらに強くなった。


「言ってはいけないんでしょうけれど、文句の一つや二つくらい言わせてくださいよ! そんなに簡単に受け入れられる話じゃありません! あなたがそんな顔をしてたら、何も言えなくなる。卑怯です!」


 目の前がグラグラと揺れるようだった。心の中も、全てが解けてぐちゃぐちゃになったようで、その熱を解放しないことには気が狂ってしまいそうになっていた。

 普段はほとんど出すことの無い大声を、体の奥底から絞り出したことで、頭が割れそうに痛む。グズグズと涙を流し喚いている自分の器の小ささが、本当に恥ずかしい。


 彼がどれほど冷静になろうとしても、溶岩の様に流れ出る想いは止まらず、その全てが口から幼稚な言葉となって零れ落ち、貴人たかひとへと投げつけられていった。


「嘘つき!」


「俺を傷つけたのに、自分は幸せになるんですね」


「神様ってそんなに勝手なんですか? なんでそんなもん信じてんだろう。バカみたいだ」


 どうしようもないのだろうとはわかっている。口にするだけ自分の価値も下がる。それでも、悲しみの回路が短絡を起こしてしまって、修復出来ない状態になっていた。


 もう鏡を覗く気にもなれない。俯いて視線を逸らしていると、遠くの方から衣擦れの音がした。貴人たかひとの姿がわずかに動くのが、視界の端に見える。


貴人たかと


 鏡の中から、貴人たかひとが穂村を呼んだ。初めて名前を呼ばれたことに驚いて、穂村は顔を上げる。ただ、すぐにこれまでにような従順な気持ちになることはできず、不貞腐れたような表情をしたまま鏡を覗き込んだ。


「なんですか?」


 穂村が無愛想を決め込んでいると、鏡の中の雅な人物は、その場に膝をついて座った。そして、両手をつき、額を地面に擦り付けると、「すまなかった」と謝罪の言葉を口にした。


「全ては俺の見立てが甘かったことが原因だ。申し訳ない」


 穂村は貴人たかひとのその姿を見て、記憶の中に引っかかるものがあることに気がついた。恐らく高貴な身分であっただろう彼が、土下座してお詫びをするなんてよほどの思いがあるのだろうと、過去にも一度思ったことがある。


——そうか、あの日だ。あの日も貴人様は必死だった。


 記憶の中の貴人様の土下座。それは、大学に入ってすぐの頃に見たものだった。



 父親からDVを繰り返されていた穂村は、入学と同時に一人暮らしを始めた。資金的には問題無かった。奨学金を得て通っているため、生活費だけ稼げばいい。もちろん早期に返し終わるようにと計画も立てていた。精神的に自由になったことで、金銭的な苦しさは大して感じず、ただ毎日を必死に過ごすことで、久しぶりに生きている実感を得ていた。


 そうやってようやく生活が落ち着いてきた頃に、一人でいるはずの部屋で誰かに話しかけられているような気がした。周囲を伺うと、鏡の中に自分そっくりの人がいる。その人物が、こちらに向けて何かを必死に話しかけていた。


「……あれ? 俺、殴られすぎておかしくなったのか?」


 穂村は一瞬そう思った。

 鏡の向こうの人物は、穂村とは全く違う服を着ていた。着物、それも、平安時代の貴族のような格好をしていた。顔は同じ、でも声が違う。自信に満ちた表情も違う。自分にはあんな顔は出来ないと思ったのを、はっきりと覚えている。


「あなたは誰ですか?」


 穂村がそう問うと、その人は「名前は貴人たかひとという」と答えた。自分と顔がそっくりで、名前が似ている。ただならぬ縁を感じた穂村は、「もしかして、前世の俺ですか?」と訊いてみた。すると、貴人たかひとと名乗る男はニヤッと笑ってそれを否定した。


「俺はいわゆる神というものだ。死ぬことが無いから、前世も来世もない。あるとしたら、面倒を見なくてはいけない愚かな人間を保護するために、その時代の人間の体に似た形になることがある。今はまさにそれだ。お前と話すために、お前に合わせている」


「神……じゃあ俺は、自分の家の中で神様と話してるんですか? やっぱり殴られすぎておかしくなったのかな」


 穂村が頭を抱えていると、貴人たかひとと名乗った人物が土下座をするのが目に入った。


「ど、どうしたんですか?」


 穂村が慌てていると、貴人たかひとは頭を地面に擦り付けたまま話し始めた。


「お前に、一つ頼みたいことがある」


 穂村は驚いて鏡をスタンドごと思い切り掴んだ。そして顔を近づけてまじまじと覗き込むと、半分嘲笑するような態度をとった。


「神様が人間に頼み事ですか?」


 あまり信心深くはない穂村でも、年寄りから言われ続けたことがあって知っていることが一つあった。それは、神様から交換条件を出された場合、安易に受けてはならないということだった。それを受けてしまうと、必ず実現しなくてはならなくなるのだそうだ。もし、それを実現しなかった場合、命がどうなるかも危ういと言われていた。


 だから、この頼みも引き受けられるかどうかは、慎重に答えなくてはならない。もしそれを達成することが出来なかった場合、どうなるかはわからないのだ。命に執着はないけれど、出来れば納得出来るだけの人生を生きてから人生を終えたい。今ようやくそれを叶えられそうなのだ。ここで死ぬわけにはいかなかった。


「ちなみに、どんなことですか?」


 内容を聞いてから判断しようかと考え、念のために訊いてみる事にした。答えてはくれないのかもしれないけれど、あまりに無理なことを言われては困る。知っていれば、ある程度は心構えも出来る。


「お前、桂綾人かつらあやとという男を知っているか?」


 それは、知っているか? と聞かれたが、知っているよな? という訊き方だった。その言い回しに、何かしら他意があるように感じた。穂村は、それに対する不信感を言葉に含ませて、畏れ多くもそのまま神へと押し返した。


「知ってますよ。高校が同じでしたし、今も同じ大学の同じ学科ですし。神ならもちろんご存知でしょうけれど」


「……それに、お前の想い人だし、な」


 貴人たかひとはそう言うと、ニヤリと口の端を持ち上げた。その対応の心象の悪さと言ったら無かった。こんなに性格が悪くても神にはなれるものなのかと、穂村はこの時、多少貶めるような感覚を持ってしまった。


「わかってて訊いてますよね? 時間がもったいないので、話を進めてください」


「なんだ、冷たいな」


 とブツブツ呟かれたのを、穂村は聞き流した。

 この時の頼みというのが、穂村が眠った後にその体を貸して欲しいということだった。綾人を浄化するために、実体が必要なのだという。


「体を貸せって……。そもそも、浄化の儀式って何をするんですか? それに、さっきの話と繋げると、桂は面倒を見ないといけない愚かな人間だということですか?」


 穂村がそう訊ねると、貴人たかひとはさらに意地の悪い笑顔を浮かべてこう言った。


「そうだ。あの男はかなり長いこと浄化しないとどうにもならない、稀に見る愚かな人間だ。それに、俺はあいつを助けたい。だから頼む。体を貸してくれ」


 そう言って、再び土下座した。微動だにせず、頭を床にくっつけたまま動かなくなった。その姿から、彼の桂綾人かつらあやとに対する想いの強さが窺えて、放って置けなくなったのだ。その気持ちに心を打たれ、体を貸すことにした。


「ありがとう。これをすることで、お前の人生に負担がかかるような事にはならないようにする」


 そう言って、すうっと消えていった。それが穂村と貴人たかひととの出会いだった。


 浄化が始まって以来、穂村は毎日桂家に泊まっている。穂村にとっては、毎晩綾人と逢瀬を繰り返しているようなものだ。ただし、浄化の時の記憶は、穂村には残っていない。


 ただ、翌朝目を覚ますと、体には綾人との間で行われたことが、感覚として僅かながらも残っている。それでも、綾人が意思を通わせているのは、あくまでも貴人たかひとであって自分ではない。それが何よりも耐え難い。


 綾人からどれほど見つめてもらっていたとしても、穂村はそれを知る事は出来ない。抱きしめると感じるはずの温もりも知らない。浄化は口付けだと知っているけれど、穂村自身は綾人の唇の感触を知らなかった。その全てを知っているのは、貴人たかひとだけだ。


「好きな人と自分の体の間に何かがあったのに、残り香と少しだけある感覚しかもらえないって、ものすごく残酷なんです。それでもずっと耐えてきました。その上綾人本人も連れて行ってしまうなんて……。あなたは俺を壊したいんですか?」


 穂村は精神的に限界を迎えていた。綾人に近づくと、獣のような気持ちになる。悶々とする日々を過ごし始めていたこの一週間。瀬川のことがあり、少し冷静さを取り戻しつつあった。そんな中、久しぶりに貴人たかひととゆっくり話したのだ。


「お前に伝えておかなければならないことがある」


 その結果が、この話だった。


「違う人に体を使われて、勝手に自分の好きな人に触られる。自分はそれを覚えてもいない。その苦しみの先にあるのは、その人の死。誰がそれを素直に受け入れられるんですか? そんなの受け入れられるほど、俺は人が出来ていません」


 そう言うと、思い切り鏡を殴りつけた。

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