声より響く言葉に逢いたくて

鮎のユメ

第1話 わたしも同じ

『それ、小説ですか?』


 という、機械的に響く女性の音声に顔をあげた。一瞬どこから声がしたのかわからなかったけれど、視線を少し下げてやっと気付く。四階建ての旧校舎の、三階へ続く外階段、その場所にわたしは腰を下ろしている。

 そのわたしの足下の、階段の踊り場に立って、白髪にも似た色素の薄い髪色の少女が、スマホを手に持ち、おずおずとわたしの前にいた。

 誰にも見られまいと、昼休憩にわざわざ旧校舎の一番遠い外階段へ来たってのに、まさか出くわす人影があるなんて。わたしは今、丸くしすぎた目が点になっているに違いなかった。


「え、……あ」


 辛うじて漏れた声は風に消えるほど小さい。それでも、目の前に立つ北川きたがわさんの発する声よりは大きいはずだと自信を持って言える。もっともわたしは、北川さんが声を出す瞬間など聞いたことはないのだけれど。

 いや、そんなことよりもだ。わたしは手に持った書きかけのノートを閉じて、すぐさま立ち上がる。見られた……! その一心が体を突き上げて仕方ない。

 逃げたって、事実は変わらないけれど、どうしようもなく恥ずかしくてそれ以外考えられなかった。階段を上がってすぐ側の錆びた重い扉をバンと開け、床を蹴る。

 なんで、どうして彼女がここに……思いながら一心不乱に駆け出す。

 小説を書いているだなんて、そんな趣味、誰にも知られたくなんてなかった。心がキュッと締まり、痛む。

 きっと彼女はわたしの趣味をバラす趣向は持ち合わせていないだろうが、そんなことは関係ない。北川さんであろうと誰だろうと、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。

 特に、AIが世を席巻する昨今、このご時世に手書きの小説など、バカバカしいと笑われること請け合いで。ただでさえ肩身の狭い思いなのに、どんどんと体が小さくなっていく気分だった。

 AIは優秀だ。作品を書かせるとAIによる自動生成技術で簡単に文字が綴られていく。ここ数十年で目覚ましい進歩を遂げたらしいけれど──わたしにはあまり良さがよくわからない。それは本当に心の籠った作品なのかと。

 しかしどのような物語であっても、AIにかかればすぐに書き上げてしまう。しかもそれが確実に面白いとなれば、小説家を志すものにとってはこんなにも無駄なことはない。現代──西暦にして2050年現在は、もっともそれが顕著だと主張するコメンテーターもいた。

 なのに、自分の手で、しかも手書きで書いているわたしの話など、誰にも読まれるはずがない。

 だから、そんなものを書いているところを見られるのは──入水でもした方がマシとすら思うのだ。

 少し息が荒くなってふと、追いかけてきているだろうかと、目を細めて後ろを見た。


 結構な距離が離れていた。廊下は別段、長くなどないのに。


 全然、追い付いてない。いや、追われているのは変わりないのだけれど、これだったら走らなくとも振り切れたのでは? と言いたくなる。

 だからこそ立ち止まってしまった。き、北川さん、足おっそ……!

 やっとわたしの足に縋るように追い付いた彼女はとても、疲れ切っている様子だ。あの、そんなに走ってもないよね……? 逃げたくせにわたしの方が心配になって、思わず彼女に声をかけた。


「あ、あの……北川さん、大丈夫……?」


 声をかけると、息が浅いのにスマホをぺしぺし叩いて何かを言いたげだ。すると、さっきのような機械音声がわたしの耳に届く。


『大丈夫です。心配しなくても、私は平気です』


 言葉と表情が釣り合ってなくない……⁉


 今にも倒れそうな彼女を抱きとめ、わたしはひとまず廊下に座らせた。埃が舞って制服が汚れてしまうおそれもあったけれど、そんなことはどうでもいい。


「えっと、ごめん北川さん。逃げるつもりはなかったんだよ……?」


 なぜかわたしは謝った。彼女の気弱そうな、薄弱な気配に庇護ひご欲でも出ているのかもしれない。

 北川さんはやっと息を落ち着かせて、わたしの腕を掴む。そしてスマホをタップした。


『捕まえました、西山にしやまさん』


 力無くにっこり笑う北川さんの表情は淡く、優しい笑みだ。気取られそうになり、慌てて視線を逸らした。

 北川さん──北川萌音もねという人物は、いわゆる失声症なのだと、担任の先生からは聞いていた。なんでも、声を出すのがとても難しく、ささやく程度の声しか出せないのだという。実質、言葉を発することが出来ないのと同義だと、わたしは捉えている。

 しかし実際に彼女と対面で何か話す機会はなかったから、わたしは北川さんの話し方に戸惑いを覚えていた。


「あー、うん、捕まっちゃった、けど……」


 間髪入れずに北川さんは、読み上げアプリを巧みに使ってわたしに声をかける。


『小説、書いていたんですよね?』

「……」


 こくりとうなずく。もう言い逃れなど出来ない。恥ずかしさで頬が紅潮するのがわかった。


『前から、西山さんのこと気になっていたんです。昼休憩に決まって出かけているので、いけないと思いつつ、跡を付けてしまって……本当にごめんなさい』


 北川さんは読み上げアプリを使い、わたしに謝罪した。北川さんの指は止まらず、さらに続けてこう話す。


『小説を書いていると知って、居てもたってもいられなくて』


 その言葉に、胸が詰まりそうになる。


「でも、さ……今時、小説書いてるとか、ありえないよね。最近はなんでもAI、AIって言われてるし、だったらわたしが書かなくたっていいじゃんって感じだし……」


 言いながら、嘘を重ねている自分にため息が漏れそうになった。本当は、もっとちゃんと、自信を持って書いてるんだって、言いたい。

 わたしの持ってる、わたしだけの言葉を、誰かに届けたいって。そんな浅い願いを、思ってしまうのだ。

 世間では、AIの隆盛によって小説というエンタメは衰退の一途をたどっている、というのがわたしの見解だ。そしてそれは、あながち間違ってもいない。

 ある者は筆を折った挙句に、かの時代の文豪の如く入水を決めたり、またある者はかの災厄を再現するように、編集部へと火をつけた。そんなニュースがあちこちで流れた。それだけ騒がしく世界を揺るがすほどに、AIが人の仕事を奪う時代が来た、ということなのだろう。

 小説家を生業とすることに意味をなくして、それでも書かずにはいられないと嘆く者たちは少なくない。たとえAIが小説家の仕事を奪うとしても、変わらず、だ。いや、むしろ奪われまいとするためになんとか抵抗を続けてしまう。

 わたしも、そのうちの一人だ。孤独というのはいつだって、慰めが必要だから。趣味だとしたって、その思いには一途でいるつもりだ。

 ……誤解しないように説明だけ入れておくと、わたしは友達付き合いに関してはそれなりだ。クラスメイトとは誰であろうと気軽に話を出来るし、学校帰りに寄り道をして焼き立てコロッケを食べ歩いたり、休みの日にはカラオケにみんなで行ったりもしている。ぼっちという訳じゃない。

 ただ少し。ほんの少し、友達といても穴埋め出来ないひび割れのような思いがあるだけ。

 わたしの持っている世界を、見た世界を、誰かに読んでほしい、感じてほしい、と。

 だからこそ、北川さんの放った言葉に、わたしは耳を疑った。


『私も、書いています。西山さんと同じです』


 ……え?


「北川、さん。それ、ホント?」


 北川さんはそこで初めて、スマホを下ろし、恥ずかしそうに何度もうなずいた。

 驚いた。心臓がずんずんと脈動し、動揺を抑えきれない。まさか、こんなことがありえるの? と胸がいっぱいになる。


『私と、おんなじだと思いました。こっそり書いているんです、バレちゃうの、怖いですよね。あはは』


 北川さんは思いのほか、おしゃべりだ。機械音声越しにでも、彼女の笑う姿が容易に想像がついた。

 わたしは、もう、なにがなんだかわからなくて。

 とっさに、北川さんの手を取っていた。北川さんは、声もなく驚いていて、宙に雫のような汗が飛び散っているようだった。

 うるさい心臓に手を当てて、わたしは言った。


「……北川さん! わ、わたしとさ……、その、友達に、ならない?」


 まず最初に出たのがそれか、と自分でも苦笑いした。本当に言いたかったのはそんなことじゃないのに。

 いつだってわたしは、嘘と取り繕いの自己保身に走るばかりで。

 声の出せない彼女の方が、よっぽど誠実だと感じる。

 もう一歩だけ、踏み出したくて。目を瞑った。


「わたしと、ふたりで、書いてみない⁉」


 切り出せた言葉に、握った手が一瞬固くなった。目を開けると、北川さんは、赤くなった顔でわたしを見つめていた。

 北川さんは目を泳がせながら、おろおろとスマホを触ろうとするけれど、片手ではうまく操作出来ないと悟るとしばらく俯き、やがて……静かにうなずいた。

 出しゃばったことを言ってしまったと少し後悔をした。しかし、北川さんの表情が、徐々に明るくなっていくのを見て、わたしもにわかに頬が緩んでいくのを感じる。

 わたしは握りっぱなしだった北川さんの手を離して、胸を撫でた。解放された北川さんはすぐにスマホをスワイプさせて、またわたしに機械の女性で話しかけた。


『よろしくお願いします』


 これが、わたしと彼女が出会った、始まりの物語だった。

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