loss or lack 2

「怜ちゃん」


 久しぶり、と笑って見えたその男の口の中。前歯がなかった。

 帰り道、たまたま市民公園の公衆トイレで用を足したところだった。トイレを出たら、隣の男子トイレから出てきた男と鉢合わせになった。

 硬直した。そいつがあたしを「怜ちゃん」と呼び、笑った。

 なんで、と思ったけれど、同じ中学出身で同じ地元だし、ありえないことでもない。それでも、なんで、どうして、と思うことを止められない。もう二度と会いたくなかった。


「やっぱ怜ちゃんだ! あははっ。すっげー、偶然だね! 元気? 変わってないね!」


 吐き気を覚えるほど、シマダはにこにこしながら気さくに話しかけてくる。

 あたしはろくに相槌も打てないまま、足早でこの場を去ろうとした。だけど、シマダに手首を掴まれたことで、それはあっさり阻まれてしまった。


「待ってよ。逃げなくたっていいじゃん。俺、すげー嬉しいんだよ。もうちょいいっしょに話そうよ」

「……話すこと、ない」

「やだなー、そんな青い顔しちゃって。ねえ、あいつ元気?」


 松下、と目の前の男が囁いた。

 眩暈がする。まるで、あの日の再現を見ているようで。


「知ってるよ、きみら同じ高校なんでしょ? いいねー、ほんとに愛し合ってんだねー」

「……離して」

「うらやましいなー。つーか、怜ちゃん知ってる? 俺、あのあと一ヶ月も入院したんだ。ま、おかげで高校行かなくて済んだわけだけど。それに比べて松下はほんと真面目だよね。人ボコって志望校の入学取り消しになったくせに。ああ、もしかして、あれって仕組んでたとか? 二人揃って同校行くため? ははっ、そっかー、俺はめられたってことか……」

「離して!」


 堪らずに張り上げた声は、きっと誰が聞いても震えていた。現にシマダは離すどころか、あたしを見ると、さらに口元を歪めた。


「怜ちゃん、ほんとに変わってないね。せっかく会えたのに離すわけないじゃん」


 掴まれた手首にぐっと力を込められて、そのまま引きずられる。男子トイレの奥まで進み、タイルの壁に背中がぶつかった。

 声を出そうと口を大きく開けたら、すぐにシマダの手があたしの顔ごと掴んだ。


「ははっ、カワイソー」

「…………」

「また松下が来てくれたらいいねー、あんときみたいに」


 来るわけない。シマダが言外にそう言っていることはわかっていた。そんなことはあたしにだってわかっている。

 あのとき、優は来てくれた。英語科教室へ向かう途中だったらしい。その際、遠くから、シマダとあたしが連れ立って資料室へ入っていくところを偶然見かけたのだという。

 優本人ではなく、当時優と交流のあった人たちの話を聞いただけで、それが事実かどうかは知らない。でもきっと事実だろう。あたしは「助けて」と叫ぶこともできなかったのだから。今またこんなところで犯されそうになっていても、もう──。


 優は来るわけない。

 だけど、聞こえる。

 

(……何の音……?)


 カラカラと何かを地面に引きずるような、乾いた音が近づいてくる。

 シマダは興奮しているせいか気がついていない。音がすぐそこまで近づいてきていても、音が途切れ、自分の背後で、誰かが棒のようなものを振りかぶっていても。


(──あ、)


 振り上げた瞬間、逆光に照らされた棒の先が光って見えた。

 バットだ、野球の。

 なんでそんなもの、野球部でもないあんたが持ってるの。


 バットがシマダの後頭部に振り下ろされた。

 鈍い音とともにシマダはうっと呻いて、あたしの足元に崩れ落ちた。

 意識はあるようだった。頭を押さえ、呻きながら身じろぐ。だけどシマダが体勢を戻すのも待たずに、殴ったそいつが足を折って、シマダの髪を掴んで頭をぐいっと引き起こした。

 何が起こったのかまったく理解できていないようなうつろな目をしたシマダの耳元に、そいつは唇を寄せて二言三言何かを囁いた。瞬間、目を見開き、さっと顔面を蒼白にしたシマダが、髪を掴まれたまま何度も首を縦に振った。

 髪から手が離れた。また地面に伏したシマダの頭を、立ち上がったそいつは、黒い革靴で蹴り飛ばした。人間の頭をまるでサッカーボールのように、躊躇なく。

 それでもう、シマダは動かなくなった。

 ……死んだ?


「死なないよ。俺なんかが殴ったぐらいで」


 いつのまにかその場にしゃがみこんでいたあたしの目の前に、細い腕が伸びてくる。

 冬の空気より冷たい手が、あたしの手をとった。


「逃げよう、怜ちゃん」


 猫のような口元で笑う。

 薄いブラウンの瞳が夕焼けの色を映したように赤く見えた。そんな錯覚が、ひどく印象的だった。

 誰だっけ、とこの男のことが一瞬わからなくなった。でもすぐに思い出した。

 夏のような九月に、隣の席になった。

 クラスメイトになった優とも修正の仕方がわからず、誰とも交わらないでいたあたしに、友だちになってほしい、と笑って言ってくれた男だった。



 偶然だよ、と来栖は答えた。

 たまたま通りがかった公園で、公衆トイレのところで揉み合うあたしとシマダの姿が見えたのだそうだ。

 バットは、公園の敷地内で拾ったものらしい。金属製のそれはよく見たら、かすれてしまって何だかわからないロゴマークが入っていた。きっと子どもの忘れものだろうと来栖は笑い、公園を出るときに砂場へ放り投げていた。

 あれからあたしたちは駅前の広場にいた。

 空はもう暗い。帰宅ラッシュの時間帯らしく、人の往来が激しい。誰もあたしたちに興味がなく、存在が紛れるようで、静かな場所に連れて来られるよりずっと気持ちが楽だった。


「……さっき、あいつになんて言ったの?」


 広場内のベンチに座って、 しばらくお互い何も言わずにただ雑踏を眺めていた。

 来栖が何かを囁いた瞬間、顔から色を失ったシマダをふと思い出して、あたしは訊いた。


「ん? 二度と顔見せんなって。それだけだよ」


 来栖は可笑しさを噛み殺すように答える。それが嘘か真実かはわからないし、どちらでもよかった。


「……優には、言わないで」


 うつむき、膝の上で固く握った自分の拳を見つめながら、うわごとのように口にしていた。

 ややあって隣から、わかった、と聞こえた。

 少し顔を上げて、視界に映った来栖はやけに穏やかに見える。街灯の橙色がそう見せるのか、来栖は、どこまでもやわらかい微笑を浮かべていた。

 あたしはそれが少し怖かった。いつもへらへらしているのがふつうな男なのに、なぜ今そんなふうに笑っていられるのかわからなくて、怖い。

 今だけじゃない。来栖は、ずっと笑っている。さっきシマダの頭にバットを振りかざした瞬間でさえ、口元には笑みの形があったのだ。

 来栖がその表情の奥でほんとうは何を感じているのかわからなくて、怖い。

 目の前の男は今何を思ってあたしを見ているのだろう。同情や憐れみといった類の言葉が、浮かんでは、消える。


「……ごめんね」


 来栖は困ったように眉を下げて、癖なんだ、と言った。

 あ、と思う。そういえばはじめて話したときも、そう言っていた。

 でもあのときはこんな表情はしていなかったことを思い出せば、途端に自分が嫌になった。あたしは結局いつも自分のことばかりだ。


「……前にも、同じことがあったんだ」


 独白のように口にする。

 いや、独白なんかじゃない。あたしは、隣にいる男に向かって話している。


「あたし……こんなんだからさ、よく周りに生意気だとか言われて避けられたりしてきたんだけど、でも優だけは違くて、優と知り合ってから、はじめて自分のこと受け入れてもらえたみたいで、うれしかった。……でも、あたしは自分のことばっかだから、さっきのやつにあっさりはめられて、犯されそうになった」


 優は脇目もふらず、向かっていってくれたのに。

 あたしを助けてくれた優は、元々行くはずだった高校の入学が取り消され、周りの友人たちもいなくなった。

 教員たちにはあたしが原因であることを話したせいか、退学だけは免れたとは聞いていた。けれど優はあの日以来、卒業式にさえ、学校に姿を見せることはなかった。


「あのあと、あたしもそれなりにいろいろ言われたけど、優はもっとひどかった。優の周りにいたやつらも、あいつはそのうち人殺すだとか、ほんとは自分の親も殺したんじゃないかだとか、好き勝手なこと散々言って、皆いなくなった。でもあたしは何も言えなかった。そいつらにも、優にも……」


 ずっと罪悪感の塊だった。あたしはどこまでも弱い人間だ。一人で平気なふりばかりが得意になっていく。

 高三の夏休み明け、始業式の翌日に遅刻して登校してきた優が「おはよう」と言ってくれたとき、あたしは心底泣きそうになった。

 損失か、それとも欠如していた部分がそれで元通りになっただなんて思わない。だけどあの瞬間は、そう思わずにはいられなかった。

 それでも、もし、と未だに考えてしまう。

 もし過去に戻ることができて、あの日あのとき、あたしはあの手をとれただろうか。優の血に染まった赤い手を──。


「そんなこと考えても意味ないよ」


 我に返るような来栖の言葉が、耳に届いた。


「もう終わったことなんだから」


 終わったこと──。

 呆然とするあたしに、来栖は笑いかけた。


「だって、やってられねえじゃん」


 泣きそうに笑う顔を見て、あたしは言葉を失った。


(なんで、あんたがそんな顔するの)


 人の心を簡単に見透かすくせに、何を思っているのかちっともわからない。

 あたしにはあんたのことがわからない。

 なんで、あんたはあたしなんかと友だちなのだろう。


「……助けてくれて、ありがとう」


 あのとき言えなかった言葉が、思い出したようにこぼれた。

 来栖は橙色に照らされながら、どういたしまして、と言った。


「怜ちゃん、俺のことちょっとは見直したでしょ?」

「……五ミリぐらい」

「え~、ちっさ」


 声をあげて笑う来栖につられて、ほんの少しだけ口元が笑みの形になった。

 もう終わったこと。

 来栖の言葉を反芻する。終わっても、いいのだろうか。

 終わったことは取り戻せないし、起きたことをなかったことにはできない。それでもあたしは、来栖と友だちでいても、優のことをすきでいても──いいのだろうか。

 怜ちゃん、とふいに名前を呼ばれ、そちらを見る。


「俺、帰るね」


 来栖は突然そう告げると、立ち上がり、ひらりと片手を振った。


「また明日、学校で」

 

 いつもの笑顔でそれだけ言って、あたしを置いて歩き出す。挨拶も返せず、ただ呆然と雑踏に紛れて消えていく背中を見ていた。

 また明日、学校で。

 言葉の響きの軽さに、笑う。

 ああそうか、あたしたちはまた日常に返るのだ。それにひどく脱力するのを感じた。

 はあ、と吐いた息が、冬の空気に白く染まる。消えてゆく。跡形もなく。在るのは、たしかに吐き出したという事実だけ。

 コートのポケットからケータイを取り出して、耳に当てた。


『怜?』


 耳に慣れた声が届いた。

 あ、と思うと、すぐに視界が歪んだ。目の奥が焼けそうに熱い。ぼたぼたと、スカートに滴が落ちていく。

 電話口で、何も言わないあたしにどうした、とか、おい、とか焦るような声がしている。


「……迎えに、来てほしい」


 嗚咽を飲み込んで、なんとか口にした。


『どこだ、いま』

「……駅前広場」

『わかった』


 すぐ行く、という言葉のあとに、通話は切れた。

 あたしは弱い人間だ。一人が平気なふりばかりが得意になっていく。ほんとうは、独りは怖い。ほんのわずかな人間にさえ嫌われることが怖い。

 来栖の言葉や、あの泣きそうに笑った顔を思う。

 あいつを思い出して泣くのが癪だった。なのに、涙は止まらない。

 あたしたちの損失か、それとも欠如していた部分が、完全に元に戻るなんて思ってない。

 だけど──いま少しだけ、馬鹿みたいに泣いてもいいだろうか。

 この場所の誰もあたしに興味がないのだから。



 助けてくれてありがとう。

 手をとれなくて、ごめん。何も言えなくてごめん。

 ごめん。ありがとう。

 優、ありがとう。


 優のいない卒業式の後──三月、あの校舎裏には桜が咲いた。あたしは一人でそれを見た。放課後の、多目的教室で。


 いつかの優を真似て、窓から身を乗り出して、言えなかった言葉を、あたしは。

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