loss or lack 1
優と呼んでいる。
同じ中学校の、一つ上の先輩だ。
「怜ちゃんかわいいけどさあっ、ちょっと生意気だよね!」
校舎裏を埋めつくすように植えられた桜の木々は、まだ当分色づかない。二月の終わり。
告白を断った。それでもしつこく言い寄られ、しまいには抱きしめられそうになったから、蹴飛ばした。これは、れっきとした正当防衛だ。
その場に尻餅をついた相手の男は、唖然としてあたしを見上げると、すぐに引き攣った顔になって声を荒らげたのだった。
あたしは腕を組みつつ、これでもかってくらい見下ろしながら言ってやる。
「だからなんなの?」
「……っ、だ、だから、そういうのほんと直したほうがいいよ!」
知るかボケ!
唾でも吐いてやりたい気分だけど、我慢だ。この男は、どうやら優のクラスメイトらしいし。
そう思ったところでタイミングがいいのか悪いのか、背後から聞き慣れた足音が近づいてきた。
「怜」
「……優」
「あ?
昆虫採集か? などと優がつまらないことを言っているうちに、男は無言で立ち上がり、そのままふらふらと校内へと戻っていった。
「なんだあいつ?」
「……べつになんでもないよ。それより優、何しに来たの?」
「ああ、窓から怜が見えたから呼びに来たんだよ」
「なんか用?」
「なんかって、ベンキョー。放課後、英語見てくれっつったろ」
「高校受かってんだから、もう勉強しなくたっていいじゃん」
「受かったの奇跡だわ。ついてける自信ねえんだって」
「先生に見てもらいなよ。あたしだって英語得意なほうじゃないんだけど」
「あー……だってよ、英語のセンセー、俺のこと完全に怖がってんだよな。なんか見てっとこっちが罪悪感わくんだよ」
「ウケる。優のどこが怖いんだろ」
「怜とばあちゃんだけだな、んなこと言ってくれんのは」
教員を含めた校内で誰よりも背が高い。おまけに強面。優がただ黙って廊下を歩くだけで、生徒だろうが教師だろうが、みんな道を開けた。
あたしにはそれが可笑しくてたまらなかった。だってあたしにとって優は、おばあちゃん子で、それから子どもに弱い、ただの一つ年上の男子だったから。
「嶋田のやつ、怜のことすきだよな」
放課後の多目的教室。勉強の合間、あたしに背を向けて窓から顔だけ出している優が呟いた。
いつものセブンスターの煙が空へ昇っていくのが見える。 優は中学生のくせに喫煙している。ちっともカッコイイだなんて思わないけど、この煙草の匂いだけは嫌いじゃない。
優の言葉が独り言なのか、それともあたしに言ったのかわからなかった。ややあって優が振り向いてきたので、どうやら後者だったらしい。
「……シマダって誰?」
「誰って、さっき怜といっしょにいたやつ。何回か遊んだことあるし、つるんでるやつらの名前ぐらい覚えろよ」
嗜めるような口調に微かに苛立つ。つるんでる、だなんて言われても、あたしにはそんな感覚はこれっぽっちもないのに。
「べつにどうでもいいよ」
「おまえなあ……そんなんだから三年の連中にまで生意気だとか言われんだぞ」
それこそどうでもいいことだ。どうでもいい人間にすきだとか生意気だとか言われても、ピンとこない。
苛立ちが増す。優はちっともわかっていない。睨むようにそちらを見ても、セブンスターの濃い煙がお互いの表情を隠すばかりで、じれったい。
「帰る」
立ち上がって、スクールバッグを掴んだ。視界の端で優が煙草を仕舞うのが見えた。
「送る」
「いいよべつに」
「なに怒ってんだよ」
「怒ってない!」
言い合いながら、教室を出て、夕陽に染まった校舎を抜ける。
帰り道、結局二人いっしょに歩いていた。
あたしはふてくされたような気分で、優の少し後ろを歩いた。川沿いの道の途中で優が新しいセブンスターをくわえたので、肺ガンになるよ、と脅したら、にやりと笑った顔で振り返る。
「そんときはいっしょに死ぬか」
「……なんであたしまで死ななきゃいけないの」
「副流煙っつって、喫煙してなくても隣で煙吸ってるだけで同じくらい肺が汚れんだって。こないだばあちゃんが言ってた。だから俺、家では吸わねえし」
「ふざけんな! 禁煙しろよ! てか中学生のくせに煙草とか、カッコつけすぎだろ!」
「いって! おまっえ……本気で脛蹴んな!」
あたしのことをすきだとか生意気だとか言う他人なんか、全員どうだっていい。
(だってあたしは、優のことしかすきじゃない)
いっしょに死ぬかと言われて、それがたとえ冗談でも悪い気はしないくらいに。
優にはぜんぶわかっていてほしかった。わざわざが言葉にしなくても、こんなにいっしょにいるのだから。
そう、自惚れていた。
それに気づくのが遅すぎたのだ、あたしは。
「怜ちゃん」
後ろから呼びかけてきたのは、シマダだった。
この日は学期末試験の最終日だった。そのため、昼を待たずに下校となっていた。
まだ多くの生徒たちが行き交う廊下の真ん中で、シマダは情けない笑顔を貼りつけて、こないだはゴメン、と頭を下げてきた。
少なくともあのときもそういう態度だったらよかったのに。苦々しく思いながら、こちらも蹴飛ばした手前、そんなふうに頭を下げられてしまうとなんだかバツが悪い。
「……もういいよ」
「マジ、ゴメンね。……松下には言わないからさ」
まるで含みを持たせるような最後の言葉を聞いて、目を上げる。わずかな罪悪感が一瞬で吹き飛んだ。
もしかして脅しているつもりなのか、こいつ。優に言わないから、だからどうだっていうのだ。
睨むように目の前の男を見据える。取り繕うような笑顔に、心底吐き気がした。
踵を返し、さっさと昇降口へ向かおうとすると、しかしそれを阻むように突然手首を掴まれた。思いのほか強い力に驚く。
「……なに? もう話は終わったでしょ。また蹴るよ」
「い、いや、終わってないっつうかね。まあ俺ではないんだけど」
眉を顰めるあたしに、シマダが顔を近づけてくる。潜めた声音で、松下が怜ちゃんに話あるんだって、と囁いた。
「……優が? なんの話?」
「さあね。俺も詳しいことは知らんけど、三階の資料室にいるから、怜ちゃんつれてこいって言われてんだ」
三階の資料室といえば、不良の溜まり場で有名な場所だ。
あたしがまだ入学してまもない頃、誰かが資料室の鍵を盗んだという話を集会で聞いたのを覚えている。だけど、もともとが倉庫のような扱いで普段から使われていない教室だったらしく、話題に取り上げられたのも結局は体裁上、今では教師たちも見ないふりをしている。
(なんでそんなところで……?)
もしかして、資料室の鍵を盗んだ犯人って、優なのだろうか。
「行こうか、怜ちゃん」
掴まれた手首が引かれる。
迷ったのもほんの一瞬だった。赤いラインの入った上履きが、リノリウムの床を一歩踏み出した。
シマダが件の資料室の引き戸を開け、その後に続いた。
室内はカーテンが閉められていて薄暗く、晴天の昼間だというのに視界が悪い。ついでに、長期間ろくに換気されていないような埃臭さ。
だけど、それだけではないような──言いようのない嫌な空気を感じた。
途端に不安に襲われて、前にいるシマダに声をかけようとしたそのときだった。
「──痛っ!」
ふいに強い力で腕を引かれた。拍子に足がもつれて、床に倒れた。
「ははっ、怜ちゃんゴメンねー」
痛かった? シマダの声が言い、そんな慰めるようなやさしい口調とは裏腹な力で、誰かがあたしの両腕を後ろから引っ張る。無理矢理上半身を起こされ、羽交い締めにされる。瞬く間に動けなくなった。
(なに、これ……?)
薄暗さに目が慣れてきた。
目の前には、やけに愉しげな笑顔を浮かべたシマダと、ケータイを片手に持った知らない男子生徒。あとはあたしを羽交い締めにしている、こちらもおそらく男子生徒。
窺える限りここにいるのは、三人。優の姿は、ない。
「ゴメンね。松下がいるっつうのはー、嘘」
困惑するあたしに、シマダが歌うような口ぶりでそう言った。それでようやく気がつく。はめられたことに。
「マジゴメンね、こんなことして。俺さあ、ほんとに怜ちゃんのことすきなんだよ? でも怜ちゃんが松下のことしか見てねえのはわかってんの。だからさ、卒業前に、俺にもいい思い出のいっこぐらい作らせてくれてもいいよね?」
背筋を氷が伝うような感覚があった。
シマダが早口で何を言っているのかまったく理解ができない。冷や汗の感覚だけがひどく鮮明で、それが逆にあたしを心の底からゾッとさせた。
あたしを引き攣った笑顔で見下ろしながら、シマダは尚も続ける。
「これ、いちおう怜ちゃんのためでもあるんだよ? そんな性格じゃそのうち松下にも愛想つかされるって。ね? 怜ちゃんは、おとなしいほうが人形みてえでかわいいよ」
室内に弾けるような笑い声が響く。
頭が痛い。それにひどい悪寒だった。意思とは無関係に体が震える。優、と思うけれど、声帯を失ってしまったように声が出てこない。
シマダの言葉がいつまでも泥のようにべったりと貼りついて、染みついて、消えてくれない。
生意気。性格直したほうがいい。
今まで何度となく言われてきて、その度に聞き流してきた言葉だった。なのに、たったひとつの言葉が、聞き流してきたそれらをたやすく恐怖に変えた。
──松下にも、愛想つかされるって。
優に出会う前のあたしには、人の顔色を伺いながら集団生活なんて、そんなものいらなかった。見た目で近寄って来るくせに性格が伴わないと勝手に離れていく他人なんか、全員どうだってよかった。一人でだって平気だったのだ。
そんなあたしを、優は窘めた。正直耳が痛かった。でも、優だけは嫌ではなかった。
出会ってまもない頃、たとえ先輩相手でも態度を変えないあたしを呆れたように笑い、優は言ってくれたのだ。
「生意気だけど、なんでか嫌じゃねえんだよな。怜のそういうとこ」
優にそう言われたとき、あたしははじめて自分の馬鹿みたいな単純さに気がついて、まるで身ぐるみを剥がされたように恥ずかしくて、声を上げて泣きそうになった。
(優がいなくなったら、きっとあたしはだめだ)
優、助けて。今すぐ叫びたかった。でも、できない。だって自業自得じゃないか。ただの馬鹿じゃないか。こんな男の言葉を信じて、あたしはついてきてしまった。
助けなんて呼べない。優に嫌われる。それだけは、嫌だ──。
そのときだった。ガンッ、と何かが激しくぶつかるような音が響いたのは。
あたしだけではなく、シマダも、他の二人も驚きから動きを止めた。ガンッ、ガンッ、と資料室の入口付近で音がしている。ドアの外側から何かがぶつかっているのだ。
やがて、ドアがそれごと外れて、倒れた。
「──なんだこれ、おい」
ドアをなくした室内は日中の光が入り込み、一気に明るくなった。
あたしは思わず目をすがめながら、室内へ足を踏み入れる誰よりも背の高い男の影を見た。
「なんだって聞いてんだよ、コラ!」
まるで猛獣のような怒声が響くのとほぼ同時に、鈍い音が鳴った。
あっ、と声をあげる間もない。あたしの目の前で、今まで馬乗りになっていたシマダは、簡単に玩具のように吹っ飛んでしまった。
と、カツンカツンと軽い音を立てながら、足元に何かが転がってきた。見れば、歯だった。赤い血のついた。
これは誰の歯だろう。拾い上げるでもなく、ただそれを見つめた。
あたしはゆっくりと上体を起こした。白昼の光が射す埃臭い室内で、人生で聞いたことのない鈍い音が鳴っている。
視界の先では、優がシマダに馬乗りになっている。優は拳を振り上げ、シマダの顔を殴っていた。何度も、何度も。
あたしはしばらくぼんやりとそれを見ていたけれど、口から血の泡を吹いたシマダを垣間見て、思った。
あ、死ぬ。
死んでしまう。
「──優!」
あたしの張り上げた声で、優は動きを止めた。
「優、だめ! 死ぬよ!」
殴ることを止めて、こちらに振り返った優は、紛れもなく優だった。
ただ──ついこの間、放課後、教室の窓際でセブンスターを吸っていた、優なのだろうか?
あたしの一つ上の先輩で、強面なくせに子ども好きで、おばあちゃん子で、妙に律儀で、馬鹿みたいにやさしい男で──。
「怜……」
まるではじめて聞くようなやさしい声で名前を呼ばれ、差し出された血のついたその手を──あたしは、とれなかった。
あの日、あたしたちは大事な何かを失った。
けれど、ほんとうはもともと失くしていて、それに気がついただけだったのかもしれない。
損失か、欠如。
あたしには、わからない。
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