5-5

あのトウモロコシ畑の密談から数日後――。 私とシルヴィアは、ゼニス・スパイアから四つ離れた州の中規模の街――サウスナックスにある、寂れた安ホテルに呼び出された。

窓の外にそびえる夜景の中、ひときわ高くそびえる建物。

カリム財団本部ビル。カリム自身が居住しているという研究所――都市の象徴でもあるらしい。

その高さと象徴に挑む私たちの選択肢。それは――ダクトを這い、ツナギを着て清掃員を装い、物理的に侵入するという、古典的で危険な方法。

「本当に、そのやり方しかないのかしら……ダリア」

安っぽい黄色の蛍光灯の下、シルヴィアが吐き捨てる。彼女の手には、薄緑色の作業員ツナギ。

ポリエステルの安っぽい光沢、古い汗の染み、タバコの臭い――。 普段、オーダーメイドのスーツに身を包むシルヴィアにとって、それは屈辱以外の何物でもないだろう。

「……申し訳ありません、大佐にはそれしか役が残っておりませんので」

ダリアが視線をそらし、申し訳なさそうに答えた。 尊敬する上官に、実習生でも着ないような衣装を渡したから。

「文句言うなよ。私はまたダクトだぞ」

私は赤いツナギの上からおそろいのジャケットに腕を通す。こっちは幸い新品だ。胸元や背中に、安飲料メーカーのふざけたマスコットキャラが、無邪気に笑っている。

ダリアは淡々と説明を続ける。

「大佐は清掃作業のフリだけで結構です。あくまで、目的地までの移動が目的ですので」

小汚いIDをシルヴィアに渡し、それを渋々受け取った。

「……せめてクリーニング済みが良かったわ。中古の汗染みなんて、病気になりそうだわ」

言いながら、彼女はふうと息をついて袖を通す。顔は酷くゆがんでいる。普段のスーツ姿が嘘のように、やたらと野暮ったい作業員の姿に変わる。

「似合ってる」

そう言うと、殺気混じりの視線に口を閉じた。

「……じゃあ、次の確認をします。最上階へは会長のカードキーが必要です。ですが、その手前までは私のIDで行けます」

ダリアが私たちの姿を一瞥し、タブレットを開いた。

「まず、ミアが通用口から自販機補充員として侵入、東通路からダクトを通ってキャビン上で待機。 その後、大佐が従業員口から清掃員として侵入し、 清掃中の札をかけてキャビンを抑えてください」

そう言ってダリアがボストンバッグから薄汚れた札を出す。

「ええ、分かったわ」

「その後、私もキャビンに移動して合流です。最上階の手前で止めますので、キャビンの上に上がり、三人で扉をこじ開けて侵入します」

彼女の指先が、ビルの断面図をなぞる。シンプルな作戦だった。リスクは高いが、直線的で、迷いがない。

「脱出はこれを使用して、エレベーター内のワイヤーで一階まで滑降します。その後は同じ道で脱出してください。集合場所はこの部屋です」

ダリアが金属フック付きのワイヤーを見せ、カチカチと鳴らす。七五階からの降下。それを言葉に出すでもなく、彼女はどこか楽しげに見えた。

「会長室階のセキュリティは?」

ダリアとは対照的に不服そうに腕を組んだまま、シルヴィアが尋ねる。声の奥に、かすかに警戒心が混じっていた。

「ビルの警備とセキュリティはNOVAが担当しています。なので、そこを突けます」

彼女が掲げたIDカードには、セキュリティの見知らぬ男の顔。

私はベッドに腰を下ろし、わざと安物のバネを軋ませてみた。空気の張り詰めた部屋の中で、ほんの一瞬、音が響いた。

決行まで、あと数十分。カーテン越しに見えるカリム財団のビル。オフィス階にはまばらに灯が点っている。

「……なぁ、本当に、あそこにエルはいるのか?」

言葉に出すと急に不安になる。窓ガラスにダリアの横顔がぼんやり映っていた。その表情には、明確な答えがなかった。

「……分からない。けど、カリムは最上階にいる。彼のスケジュールから裏は取れてる。だから…」

最上階の窓だけが、真っ暗だった。

「捕まえて聞き出せばいいのね。身内に手を出したヤツは……どんな目にあってもらおうかしら」

シルヴィアは笑った。けれど、その目は笑っていない。 怒りを通り越した、乾いた声だった。

エルは、あそこにいるのだろうか。でも何かが変わっているかもしれない。会えば、もう、戻れなくなる気がする。

「ミア」

灰色の瞳が、まっすぐ私を貫いた。

「落ち着いて。あそこに行く、それだけを考えなさい」

シルヴィアの声は静かで、冷たい。けれど、その中にほんのわずかな温度があった。

時計を見る。そろそろ出番だ。ベッドから立ち上がり、赤いキャップを被る。

シルヴィアと目が合う。その視線に、珍しく感情が混じっていた。あのシルヴィアにしては、ずいぶん分かりやすい。

「……じゃ、行ってくる」

ドアへ向かう。その背に、あの声が追ってきた。

「後で会いましょう。…ジュース持ってきてね」

冷たい空気が肺に沁みる。

表で服と同じ真っ赤なトラックに乗り込み、ビルの通用口へと向かう。

通用口に停めて、トラックの荷台から飲料の段ボールを積んだカートを押す。

IDをパネルにタッチすると入門は簡単に突破できた。制服姿の自販機補充員――そういうフリをしているだけで、誰も疑いの目を向けない。

「おい」

詰所を通り過ぎた時、警備員の一人に止められた。背後からゆっくりと近づいてくる足音。

腰に差し込んであるモノを見られたら一巻の終わりだ。額から垂れた汗が目に入る。

「二本くれよ」

警備員はそう言って私の前に拳を突き出す。

小銭だ。私は急ごしらえの笑顔で段ボールを開けて二本の缶ジュースを渡した。

そしてニヤついた男から連絡先の書いた紙を渡される。笑顔で進んで先のゴミ箱にそれを捨てた。

本番はここからだ。

通路の脇にある自販機が見えた。人影もない通路。その壁に工具を差し込み、ダクトのパネルを外す。

冷たい金属の匂いと、こもった湿気が一気に顔に押し寄せてくる。 喉の奥にざらついた不安が張り付き、息が詰まる。

「……またか」

音を立てないようにダクトに滑り込む。 まるで、誰かの口内を這っているみたいだ――そんな妄想が脳裏を掠めて、吐き気が込み上げた。

狭いダクトを、虫のように腹ばいで進む。膝が軋む。汗で首元がべたつく。息を吸うたびに、肺に細かいチリが刺さる。

どこまで続くかもわからない穴。いや、もしかしたら終わりなんてないのかもしれない。このまま永遠に、真っ暗な管の中を這い続ける羽目になるのか――

……違う。そんなのはどうでもいい。

目の前、わずかに光が滲んできた。明滅する蛍光灯の反射が、金属の内壁にちらつく。

「……あと少し」

格子を殴り開けると、目の前に巨大な昇降路が見えた。幾本もの鋼鉄ワイヤーが天井から垂れ下がり、そこに数台のキャビンが吊るされている。見下ろせば、底知れない暗黒。見上げれば、終わりのない天井。

風のような機械音が遠くで唸っている。

「清掃員の方がマシだっての……」

革手袋をはめて、換気口からキャビンを吊るすワイヤーへ跳ぶ。一瞬、下を見る。次の瞬間、手袋越しに鉄の冷たさと反動が走る。

ワイヤーが揺れた。バランスを取り、目的である隣のキャビンに向かって飛び移ろうと――引っ張られる。強制的に、上へ。

「っ……!」

目的のキャビンが、視界の下へ遠ざかる。咄嗟に隣のワイヤーへ飛び移る。手袋越しに熱が走り、ツナギの袖が焦げる臭いが立ち昇る。

重力と熱と振動が一気に襲いかかり、息が止まる。揺れが、少しずつ収まっていく。指先の感覚が熱で分からない。

「……絶対、清掃員の方がマシだ」

慎重に滑り降り、キャビンの天井へ足をつける。

『もうキャビンに入るけどいいかしら?』

シルヴィアの連絡が入る。いいタイミングだ。

「あぁ、いつでも入ってくれ」

息を整えて静かに答える。格子の向こうに不満げな顔がのぞいた。

シルヴィア――いつもの優美さは消え、眉間に皺が刻まれている。ハッチを開け、手を差し出して引き上げる。

その重みで肩の関節が鳴った。

「ん……少し太ったんじゃないか?事務仕事ばっかで」

挑発すると、シルヴィアは頬を赤らめて睨んだ。 力任せに引き上げると冷凍マグロのようにゴロリとシルヴィアがキャビンの屋根に転がる。

「あなた……失礼ね。見なさいよ、これ」

シルヴィアは口をへの字に曲げて、濡れそぼったツナギを広げて見せた。染み込んだ水で重く垂れた生地、頬に貼りつく髪。まるで濡れ犬だ。

「あいつら最低よ。人使いが荒いし、破裂した水道管の修理までさせられたのよ。ほんと最低……」

優雅な女帝は、今や配管修理工だ。

「……あぁ、そりゃお疲れさんだ。すまんが、ジュースは忘れた」

気休め程度に、赤いビニールジャケットを肩にかける。シルヴィアがジャケットに腕を通した瞬間、ふと笑みが戻った。

「あら、優しいのね。じゃあ――さっさとエルを捕まえて出ていくわよ」

頷くのと裏腹に、心がざわつく。足元の不安定さのせいじゃない。ずっと胸の奥に、刺のように残っている感覚。

しばらくしてダリアがキャビンに乗り込む姿が見えた。彼女はニッコリと笑ってボタンを押した。

すると勢いよくキャビンは上に向かう。埃っぽい風が屋根に吹き晒した。

「大佐、……かなり濡れてますね」

74回到着後、キャビンの屋根に顔を出したダリアが、第一声でそう言った。

シルヴィアは濡れた髪を払って、赤いジャケットのジッパーを上まで引き上げる。

「ちょっとね。気にしないで」

ダリアが申し訳なさそうに眉を下げた。私は無言で、最上階に続くハッチにバールを差し込む。

まるで壁の一部だ。びくともしない。

「一人じゃ無理よ」

後ろからダリアとシルヴィアも加勢し、三人がかりでこじ開ける。

ようやく金属が軋み、隙間が広がる。僅かな隙間から光が漏れる。

息を切らしながらリズムを付けて三人でバールを押し込むとそれは現れた。

真っ白な世界だった。白い床、白い壁、白い扉。長く、直線的な廊下。病的に無機質な景色――白の支配。

足音を殺して廊下に踏み出す。床も壁も、息が詰まるほど完璧な直線で、人間の匂いが一切ない。一歩踏み出すたびに、心音が跳ね上がる。呼吸が自分の耳にだけ大きく響き、体が勝手に硬直していく。

カードリーダーが埋め込まれた扉の横で、シルヴィアが囁く。

「鍵を」

ダリアが制服の内ポケットからカードを取り出してタッチ。 だが反応はない。

「……いや、開いてる」

わずかに――ほんの数ミリ、扉は開いていた。一瞬で心拍数が跳ね上がる。警戒感が一気に膨らむ。

手をかけようとした瞬間、シルヴィアが私の前に割り込む。

「私が行くわ」

シルヴィアの声が耳元でささやかれ、手をはねのけられる。抗議の視線は無視された。

三人とも銃を構える。私が左、ダリアが右、シルヴィアが中央。

無言の合図で、ノブがゆっくりと回された。

――一瞬、心臓が凍った気がした。

部屋の中は薄暗い。窓から差し込む街の灯りが、床に淡く影を落としている。

足音を殺して侵入する。

部屋は広い。正面は一面のガラス窓と、白い机、白い椅子、無機質なモニター。

人の気配がまったくない。無臭だ。冷凍庫のような、無菌室のような匂い。汗ばんだ手が銃のグリップから滑りそう。

部屋の奥に、もう一つのドアがあった。ここがカリムの私室だ。

「……今度は私が行く」

もう譲らない。今度こそ、エルを連れて帰る。

ドアをゆっくりと開ける。照明はついていないが、先ほどの部屋より明るい。

曇りガラスのシャワールーム、白いソファ、そして――中央には、膨らんだベッド。

この部屋には、誰かがいる。

だが一人。カリムか。エルか。銃口をその「膨らみ」へと向ける。無意識に、他のものは視界から消えていた。

背後に感じる、二人の視線。

そっと、ブランケットの端を掴む。そして――引き剥がす。

「ッ――」

視界が震えた。微動だにしない白いワンピース。胸の上で静かに組まれた手。

「……エル?」

いや――母さん?声にならない音が喉で潰れる。

それは、私の記憶の奥底に沈んでいた顔だった。金色の髪、豊満な身体、目鼻立ちの整った顔。

最後見た時と何も変わらない。銃口が揺れる。額を伝った汗が目に入るが、瞬きすらできない。乾いた目。乾いた口内。空間がねじれ、遠近感が崩れる。

怖い。

この世のものとは思えないほど、怖い。

足が震え、膝が砕けそうになる。シルヴィアが無言でそれに近づき、脈を取る。私は何もできなかった。ただ、それを見ていることしかできなかった。

「……人形よ」

その言葉で、ようやく肺に酸素が戻る。胸の奥がゆっくりと動き出す。これは実物大の人形。

「この部屋にカリムも、エルもいないみたいね。罠かしら?」

シルヴィアはそう吐き捨て、毛布で人形を覆い隠した。

「ちょ、待ってください。手がかりを探してきます」

ダリアが隣のオフィスへと戻った。

エルがいない。ほんのさっきまで抱いていた淡い期待が崩れ落ちた。エルが、どこにもいない。感情が言葉になる前に、銃が手から滑り落ちた。

鈍く響いたその音だけが、現実に引き戻してくる。

「……ミア。エルは“いなくなった”だけよ。手掛かりを探しましょう」

シルヴィアの声も、耳から耳へ素通りしていく。彼女が私の手に銃を握らせ、低く囁いた。

「お前が諦めたら、エルヴィラは死ぬ」

――死ぬ。

その言葉が現実として心に食い込み、喪失感が波のように押し寄せる。私は銃をホルスターに納め、シルヴィアの後を追ってオフィスに向かった。

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