5-6

ダリアの声が聞こえる。パソコンに向かっていた。

「これを……見てください」

パソコンのモニターに映ったのは、暗い海に浮かぶ巨大な構造物――海上プラントのようなものだった。荒れた海が波を叩きつけ、やがて霧を割るようにしてプラントの全貌が現れる。

しかし、異様だった。赤黒いものが建物全体を覆う。そして細かく蠢いている、まるで臓器のように。

更にその周りに無数の柱のようなシルエット――だが、それは揺れている。

凝視した瞬間、血の気が引いた。柱じゃない。巨大な触手だ。海中から伸び、うねり、時折、月光を吸うように黒く光っていた。

映像は突如暗転し、代わりに一人の男が映し出された。

白髪交じりの髪、やつれた頬、鋭い目。――カリム。

シルヴィアが腕を組む。ダリアが眉をしかめる。画面の中で、男がゆっくりと口を開いた。

『世界は病に満ちている。戦争、飢餓、環境破壊、情報操作、感染症……いくら挙げても足りない。若いころは、その一つでも治そうと必死だった。だが、何度薬を作っても病は復活し、新たな病が生まれた』

どうやら録画のようだ。その声は静かで、穏やかだった。まるで昔話を語る老人のように。だが、その瞳だけが異様に研ぎ澄まされている。

『文明の進歩が、問題を解決すると信じていた。だが違った。治っても治っても、病はまた形を変えて現れる。なぜか?』

カリムの目が、画面越しにこちらを貫く。その問いには、もう答えが決まっているという確信があった。

『経済格差か? 情報の進化か? ナショナリズムのせいか?――違う。それは、我々の遺伝子に刻まれているからだ。病とは、自然の調整装置だ。増えすぎた種を間引く、プログラムなのだ。人間である限り、この病は……不治なのだ』

内容じゃない。この異様さに息を呑み、唇を噛んだ。血の味がした。

『そして、科学が進んだ今や、“死”は調整装置にすぎない。人類は自ら、滅びの引き金を引こうとしている。では、我々は黙って見過ごすべきか?』

カリムが、わずかに身を乗り出した。

『……違う』

その目に宿った確信は、妄想を超えた狂気だった。

『我々は共同体を築くべきだ。他人事ではなく、全てを共有する真の共同体を。知識だけでは足りない。肉体も、精神も、進化しなければならない。人類がこの惑星の一部となり、全ての脳がリンクし、同じ思考を持つ。"個"が消え、"一"になる。それが病からの解放であり、永遠の繁栄の唯一の方法だ』

狂っている。だが、堂々としている……それが余計に恐ろしかった。

『進化には時間がかかる。だが人類には、もはや時間がない。だから私は考えた。進化を――人為的に起こす方法を』

カリムの目が異様に輝いた。

『進化には交配が必要だ。だが人間は他の種と交配できない。ただ一つの例外を除いて。それは――ウイルスだ。ウイルスは他者の細胞に自らの遺伝子を注ぎ込み、細胞を変異させる。それはまさに、交配そのものではないか?』

歯止めのない言い分が続く。ディスプレイを撃ち抜きたい衝動を必死に抑えた。

『ならば、人類の病を克服する遺伝子を持つウイルスが、人間と交われば?それは、進化だ。確実な進化だ。私は、救済者になると決意した』

言葉を止めない。それは演説ではない。宣告だ。 シルヴィアが眉を寄せる。ダリアが硬直したまま動かない。

『だが、理論だけでは足りなかった。ウイルスは強すぎれば細胞を壊し、弱すぎれば変化を起こせない。失敗を繰り返し、絶望の底に沈んだ――そんなとき、彼女が現れた』

カリムの声が一段と甘くなる。

『レベッカ・ウェルナー。誇り高く、優しく、苦しむ者に胸を痛める、聖母のような女性。私は彼女に、運命を感じた。彼女こそ、私の計画を理解し、共に進化を果たす存在だと』

母の写真が画面に流れた瞬間、背筋が凍った。怒りと恐怖が、胸を焼く。

『彼女はやがて創り上げた。完璧な器――“強化細胞”を。私はそれを使い、実験を加速させた。そして……ついに完成した。それが、私とレベッカの愛の結晶――“救世種”だ』

映像が切り替わり、実験の断片が流れる。培養器、血液、歪んだ胎芽。椅子の肘掛けをぎりと握りしめた。

『私は救世主をパレードの日に散布した。グリーンフィールドは新人類の第一号となった。それが我々の誓いだった。だが……彼女は裏切った』

声が低くなり、鋭さを増す。

『レベッカが隠していた強化細胞を救世種に打ち込んだ。それによってウイルスは交配能力を失い、変異を拒んだ。そして彼女は、私に銃を向けたのだ。撃たれた私は、それでも救世種を喰らった。私は生き延びたが、それは欠陥品だった』

画面の中でカリムが静かに笑う。陶酔したような表情で、もはや正気のかけらもない。

「完全にイカれてるわね……」

シルヴィアが低く呟いた。

『私はレベッカを憎んだ。だが、やがて理解した――これもまた試練なのだと。彼女は死をもって、私を高みに導こうとしたのだ。そして私は見つけた。レベッカの血を継ぐ娘――ジュリア。今はエルヴィラと名乗っている。慈悲を湛えた青い瞳、金色の髪……まさに聖母の生き写しだ』

エルの隠し撮りの写真。思考が止まる。息が詰まり、目が乾いていく。

『私はこれから救世主を用いて、レベッカの血を持つ娘と交わる。私自身が、そして彼女が、救世主となる。人類を救うのは、我々だ』

──そこで、映像は終わり、室内に沈黙が落ちる。

手が小刻みに震えていた。

「エルは……」

どうなる。私の声は、喉の奥で霧散した。

シルヴィアがゆっくりと息を吐く。

「……あいつ、完全に正気じゃないわね」

ダリアは言葉を失い、ただディスプレイを見つめていた。

再び画面が暗転。ノイズが混じる映像に今度はカリムの顔が現れる。通信映像だ。臓物のように蠢く部屋、さっきまで映っていた男がいた。

『私のオフィスへようこそ。深夜の訪問者が多い夜だな? 何か用かな、このカリムに』

ぞっとするような声。部屋の空気が凍りつき、神経に鋭く突き刺さる。

——気づかれた。

ダリアが無言で銃を構え、アタッシュケースからワイヤーを伸ばす。逃走の準備。

『まだ逃げなくてもいい。せっかく来たんだ、前の小さなお客さんには教えなかった情報を今日は特別にあげよう』

モニター越しの顔が、嘲るように笑った。その声が、スピーカーからだけでなく、頭の内側を這い回る。

「……エルはどこだ!」

怒鳴るつもりなどなかった。でも言葉は、口から勝手に飛び出ていた。カリムはわざとらしく画面のこちらを覗き込むようにし、にやけた。

『これは……レナか。あの日の以来だ。大きくなったな』

「エルを出せ」

胃が反転するほどの嫌悪。 殴りたくても殴れないその顔が、ただ悔しい。

『それにダリア。まさか君が無断侵入とは。NOVAでも君には常に気をつけていたんだよ。そして……おぉ、すごい。シルヴィアか。ゼニス・スパイアの女王様にお会いできるとは、光栄だな』

全員を把握している。しかも、それを誇示して見せるように。

「答えろッ!」

叫ぶと同時に、カリムが笑った。そしてカメラを移動させた。

そこに映ったのは——俯き、やつれたエルヴィラ。影の中に沈んでいても、あの髪と、あの姿は見間違えようがない。

だが、彼女の身体は蠢く肉塊に取り込まれている。

「エル! こっち見ろ! 私だ、エル!」

モニターに手を伸ばし、その存在を確かめようとする。しかし、エルは微動だにしない。

『落ち着いてくれ。彼女は今から結婚式だからね』

喉の奥が焼ける。血が逆流しそうだ。カリムが、エルの頬を撫でる。その手は人のものではない赤黒い肉塊だった。

「なっ!!…ふざけるなッ!やめろ!!!……エルに触るな!!」

悪寒と怒りが脊髄を駆け上がる。

だが、そのとき——。

『ミア、シルヴィア、ダリア。心配かけてごめんね』

エルが口を開いた。か細い声。けれど、確かにエルの声だった。

『……私は自分でここに来たの』

瞬間、視界が霞んだ。心が崩れていくのを感じる。

「そんなわけないだろ……何を言ってる、エル! メモリーのことも知ってるんだ!脅されてるんだろ!」

カリムの触手を置かれながらも、エルはミアを見た。

『大丈夫よ、ミア。この男の言いなりにはならないから』

「じゃあ、なんで……なんで行くんだよ……!」

『この男はこうやって私と融合しようとしてる、変なウイルスをつくるためにね。でもね…私を取り込もうとすると弱るの』

涙を浮かべながら、彼女は笑った。優しい、死にゆく者の笑顔だった。

「そんなの……私たちで倒せばいいだろ!」

エルは、首を横に振った。

『私で勝てるとまでは言わないけど、相打ちまで行こうと思う。…だからミア、お願い。私がダメだったら、こいつを倒して』

その言葉が、胸を裂くように刺さった。

『プラント自体がカリムの身体になってるの。でも通れない、壁があるから。…でも私が取り込まれると、私の血も入るの……だから、ミアなら通せるよ』

青い瞳から涙が溢れそうになる。私の口の中はもう滅茶苦茶だった。取り込まれる――そんな姿を見たくない。

『……大好きよ、ミア……本当に大好きだよ。……また、ね』

エルの涙交じりの笑顔が消えてカリムが再び映る。最後まで何も言えなかった。

『いいのを見させて貰ったよ。彼女の言う通り、私はこれから彼女を取り込む。…結婚式だ』

その顔は満面の笑みに満ちていた。よく見ると身体のいたるところから触手が生えている。

「黙れ!!!殺してやる!!カリム!!」

一発で喉が枯れる。カリムがエルに触れる。それだけで生理的嫌悪が止まらなかった。

「怖いね、それは。でも招待はしてやろう。……生きていたらね」

通信が消える。電子音だけがカリムのオフィスに響いた。

「エル……!」

ディスプレイを床に叩きつけた。割れた液晶が床に飛び散り、怒りと絶望が室内に充満する。

「ミア……」

そっと肩に置かれたシルヴィアの手が、妙に温かかった。

突如、照明が一斉に光り部屋を包む。

「大佐! 何か来ます!」

ダリアの声と同時に、ドアが銃弾に貫かれる。

「ミア、伏せろ!」

シルヴィアが机を蹴り上げて倒すや否や、壁が吹き飛び、窓が蜘蛛の巣状に砕けた。瞬間、銃声。乾いた破裂音が連続する。天井が崩れ、背後のガラス窓が割れる。

心臓を素手で握りつぶすような圧力と共にエルとメモリーの映像が脳裏を駆けた。

「ふざけんなよ……!」

感情が爆ぜる。喉の奥が焼けつくように熱い。

室内に飛び込んできたのは、NOVAの腕章をつけた兵士たち。銃声が再び響いた。壁のコンクリが削れ、破片が頬をかすめた。鼓膜を劈くような破裂音。火薬の臭いが鼻をつく。

「私はNOVA西部大佐ダリアだ! 射撃を中止しろ!」

ダリアの叫びで銃声が止まる。だが、銃口までは降ろされていない。

「わかっています、大佐。ですが、あなたには背任罪の容疑が。殺処分の許可も、すでに出ています」

ダリアが思わず顔を出しかけたその瞬間。

「ダリア!!」

シルヴィアが彼女を地面に叩きつける。すぐそばで、銃声が響いた。ダリアの頬をかすめ、血が一筋流れる。

「やつらは……本気よ」

激しくなる銃撃。カバー越しの反撃も、もはや限界。弾は、残りわずか。

「クソッ、弾がもう――!」

シルヴィアが無言で、最後のマガジンを見せた。ダリアも、首を振る。壁を削る弾丸の音が、耳を焼く。もう限界だ。

その時――背後の窓の外が昼のように明るくなった。

「クソ…やりすぎだろ!」

背後に現れたのは、武装した攻撃用ヘリコプター。ローターの音が咆哮のように響き、銃声のリズムをかき消す。

そして機関銃がゆっくりと回り始め、一切の容赦もなく撃った。

早い閃光、ローター音よりも激しい銃声、硝煙とガスの匂い。三人で身を寄せて死を覚悟した……が、違った。

撃たれたのはNOVAの部隊だ。空気が変わった。

「そいつは私の獲物よ」

その声はなぜか銃声越し出も聞こえた。重く、異質な気配。耳がキィンと鳴る。

叫び声が途切れると同時に銃声も途切れた。背後から聞こえる人の倒れる音。何かが破裂する音。銃が床を転がる音。液体が流れる音。

そしてヘリの光の奥に輝く赤い瞳。炎のように揺らめく金髪。小柄な少女の姿が、ヘリの縁に立っている。

「惨めな姿ね」

少女が笑った。獣のように、ゆっくりと、口の端を吊り上げて。

「早く乗りなさい。また来ちゃうわよ」

——ゾラ。

信じられない光景に体が固まる。更に廊下の奥からは軍靴が蹴る音が近づく。

「行く…しかないわね」

迷いのない目でシルヴィアが言ってそのままヘリへ飛び込んだ。ダリアもそれに続き、ヘリのスキッドにしがみつく。

そう、ここに残ってもエルは助けられない。例え、それがゾラのヘリに乗り込むことだとしても。

床を蹴ってビルから飛翔する。飛び出た途端に風にあおられるがスキッドに腹を打ち付けながら必死でしがみつく。

ゾラが笑い、操縦士に目で合図する。機体が横滑りし、カリムのオフィスを背に離脱する。

背後は光が点滅していた。NOVAの兵隊がヘリを撃っている。そのうちの一発が機体にあたり、火花が散った。

直後、ミサイルが発射され、カリム財団ビルの一角が爆ぜた。衝撃波でヘリが揺れ、街の光がぐらりと遠ざかる。

風の中で、ゾラの声が笑い混じりに響く。

「……ねぇ、人生って本当に面白いわね」

そうやってゾラは私に手を差し伸べる。私は答えられなかった。

胸の奥で、エルの笑顔だけが焼き付いて離れないまま、夜の街が流れ去っていった。

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