5-4
「……それが、私。私たちの――過去だ」
言い終えた瞬間、胸の奥から冷たいものが抜けていった。肺の奥が空洞になったように冷え、喉がきゅっと詰まる。
誰にも話さなかった記憶。
いや――話してはならなかった記憶。それを今、ダリアに口にした。
沈黙。シルヴィアは目を閉じたまま、腕を組んで動かない。その横で、ダリアがわずかに眉をひそめていた。
「……なるほど」
ダリアが、重く吐息をついた。
「あなたたち姉妹とレベッカ・ウェルナーは……ジェナーク、いやカリムと“顔見知り”以上の関係だったわけですね」
その目は驚きよりも、確かめるような硬さを帯びている。しかし、すぐに別の疑問が彼女の表情を支配した。
「で――カリムが彼女と同行している理由」
ダリアが頭の中を整理するように話し続ける。
「……強化細胞」
その言葉が自然と口をついた。私とエルの体に組み込まれた、母からの最後の贈りもの。
「エルの細胞。それがあの男、カリムの狙いなのかもしれない」
頭では納得しているが、一つだけの疑問が離れない。なぜエルじゃないといけないのか?なぜ私がターゲットじゃなかったのか。
「でもなぜ?彼女が行く動機は?エルヴィラが進んで協力した可能性は考えられるでしょうか?」
間髪を入れずにダリアは次の質問を放つ。冷たい言葉と視線、まっすぐ私に突き刺さる。
「それは……違う」
声がかすれた。肺に溜まっていた空気が一気に抜ける感覚。私の奥底にある何かが、その言葉を拒絶した。
シルヴィアが一歩前に出る。高いヒールの音が、硬い土に乾いた響きを残す。
「ダリア。――エルヴィラを疑うなら、私が許さない」
氷のような鋭さの声にダリアも一瞬、ひるむ。
「理由はまだ分からない。でも、あの子は裏切らない」
ダリアの目がわずかに揺れる。それでも、完全に納得した色ではなかった。このままでは、疑念だけが残る。
ポケットの中――硬い感触。汗で湿った指が、ずっと握り締めていたそれを取り出す。
「見てくれ……エルが残したものだ」
端末に差し込む。瞬間、画面が青白い光を放ち、空気が張り詰めた。
映像の中。拘束された男が映る――痩せこけ、恐怖に引きつった顔。だが次の瞬間、男の体が弓なりに反り返り、皮膚が裂ける音が響く。
血が飛び散り、筋肉の奥から異形の器官が這い出した。眼球は爛れ、真っ赤に染まり、歯は獣の牙のように伸びていく。喉の奥から漏れる叫びは、もう人間の声ではなかった。
ダリアのかすれた声が、乾いた息と一緒にこぼれた。
映像は切り替わり、先日のバイオテロの現場を俯瞰するような映像。そして、田舎町の感染拡大する様子の動画。
さらに最後に映ったのは――私たちの合成写真。それと並んで、変異した私たちの姿。
赤く光る瞳、呻き声を漏らすような口元、半ば崩れた皮膚。別の生き物として加工された“未来予想図”。
言葉を失った。
画面の中の“怪物”が、妙に生々しく感じられた。まるでそれが――ただの可能性ではないと、告げているかのように。
トウモロコシのざわめきだけが、夜の帳に溶けていった。月光が葉に反射し、白銀の波のように広がっている。
「……すみません、少々……驚きまして。」
ダリアが、口元を手で覆い、震える息を吐いた。指の隙間から、小さく嗚咽が漏れる。
「つまり――カリムに脅されていた。強引に連れ去れば済む話を……ご丁寧にテロの証拠と、私達の画像まで用意して脅すとはね」
シルヴィアが吐き捨てるように言い、夜空を見上げた。
カリムの目的がどこにあるのか、まだ全貌は見えない。
だが、はっきりしたことが一つある。――エルは自分の意思ではなく、敵の手の中にいる。
「あぁ、な。ダリアわかっただろ?……カリムはどこにいる?教えろ」
無意識に唇を噛んでいた。舌に血の味が広がる。
「その質問には答えられません。というよりも私も追っているのです。彼は……忙しい身、常に移動を繰り返してます」
ダリアは腰に手を当て、遥か彼方を飛ぶ飛行機の赤い光を見た。
「ですが、定期的にいる場所ならわかります。非合法な手ですので――単独でやるしかないでしょう」
「……そう。だったら、私も行く。最初から、そのつもりで呼んだんでしょ?」
シルヴィアが、意地悪くも少し暖かい目を向ける。ダリアは耳まで赤くして頭をかいた。
「助かります」
小さく、だがはっきりと頭を下げた。その光景を見ながら、私は拳を握り締めた。
――そこに行けば、エルがいる。
理由も根拠もない。ただ、確信に似た感覚が胸を満たしていた。握り締めた拳から、爪が食い込み、じんわりと血がにじむ。
「……行かせてくれ。シルヴィア」
声が震えた。返事はない。
代わりに、背中に柔らかな視線が突き刺さる。シルヴィアがそっと手を伸ばし、私の頭をぽんと撫でた。
「当たり前でしょ?あの子はあなたの姉なんだから。見つけて――二度と離さないこと」
その声が、やけに優しかった。
「では、作戦については追って連絡します」
ダリアが短く告げる。その瞳には、もう先ほどまでの疑念はなかった。そして颯爽と車に乗り込み、静かにUターンして消えた。
シルヴィアも「ちゃんと寝なさい」とだけ言い残し、車に乗り込み畑から消えた。
風が吹き、枯れた葉が一枚、私の足元に落ちる。
残されたのは、トウモロコシ畑と月光。夜風が頬を撫で、ざわめきが海の波のように全身を包む。
身体は限界を迎えていたはずなのに、不思議と胸だけは軽かった。希望という名の熱が、まだ残っていた。
「エル……やっと、会えるな」
夜空を見上げ、唇からその言葉が漏れた。
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