5-3

グリーンフィールド。名の通りの、緑に囲まれた田舎町。 牧草地に馬が放たれ、木造の教会の鐘は風で軋み、遠くを走る観光列車の汽笛が時折、かすかに届く。

子どもの頃、私は――それが“世界の全て”だと信じていた。 私たち姉妹は、ただの子どもだった。だが母は違う。

母――レベッカ・ウェルナーは、「未来」を創る研究者だった。

彼女は細胞研究の老舗ネオジーン社の主任研究員で、強化細胞の研究を率いていた。戦争と感染症に蝕まれる時代、母はあらゆる未知のウイルスに対抗できる抗体を創ろうとしていた。

そして、その横に常にいたのが――ジェナーク。母は彼を“天才”と呼んでいた。だが私は覚えている。彼の目の奥は常に何かおかしかった。

家にもよく来て食卓を囲んだ。彼は常に何かに怯えているように挙動不審だった。今思えば、母は仕事上の尊敬で彼を拒まなかったが、決して心を許してはいなかった。母は命を落とした父を決して忘れてはいない。私はおろか、エルも記憶がないくらい幼い頃に父は事故で命を落とした。

そんな母がジェナークと距離を取りつつも決して敵視しなかったのは、同じ理想を見ていたからかもしれない。

それでも、あの日までは平穏だった。

パレードの日の夜。エル――いや、ジュリアが私の手を引いた。

「レナー!早くいかないと終わっちゃうよ!」

笑顔で、花火を見上げながら走った。母は最近ずっと忙しく、帰りはいつも夜遅い。今日も帰宅は期待していなかった。

出し物は玩具店の主人によるお粗末なマジックショー、地域のブラスバンドの演奏と、聞いたこともない歌手のライブ。

その他にもお手製のメリーゴーランドや、乗馬体験があった。

出し物を見て回る途中でジュリアがアイスクリームを欲しがったが、バンは店じまいを始めていた。

だが、若い店員が気前よく二つ分を特別にくれた。――それが、最後の幸福な記憶。

帰宅した頃には足は棒のようで、身体が熱くて怠かった。だから隣家の老夫婦の屋台で貰ったレモネードを二人で飲む。

甘酸っぱいはずの味。だが身体が熱かったので、とにかく美味しかった。飲み切るころには身体が焼けるように熱かった。震えが止まらなかった。

「……なんか、風邪かな」

ジュリアも額を押さえる。 最初はただの風邪だと思った。母の机から薬をくすねて飲み、笑いながら布団に潜った。

だが、数時間後には――笑えなかった。 喉が裂けるように痛い。汗が止まらない。目はかすみ、視界が揺れていた。

身体は鉛のように重く、起き上がることもできなかった。 ジュリアが隣で荒い息を吐き、私の手を探して握った。その手はいつもの元気を失って、ひどく弱々しかった。

私はその手を握り返した。指先だけが体温を分かち合っている。ジュリアの呼吸が、少しだけゆっくりになった気がした。

意識が薄れゆく中で、時間の感覚は消えた。ただ、熱と震えと、彼女の荒い呼吸だけが現実だった。

そのとき、遠くで扉が開く音と――母の声。

何を言っているかは聞き取れない。ただ――泣いていた。母が泣いている声を聞いたのは、初めてだった。

一瞬で目が覚めた。

二人とも抱きかかえられ、ダイニングテーブルに並べられる。そしてうすぼんやりと見えたのは注射針。

いつもなら飛び起きて逃げていただろうが、その時は無理だ。

ゆっくりと母の手に握られた針が皮膚を刺し、血流に冷たい液体が広がっていく。痛みではない。もっと深いところに、何かが注ぎ込まれていく。

それが身体と溶け合う時、なんだか気持ちが良かった。焼けるようだった身体が、急速に冷えていく。震えが止まり、喉の痛みが引いていく。視界が澄み、音が戻る。

顔を横に向けるとジュリアと目が合った。彼女も同じだった。熱の消えた瞳に光が戻っている。生き延びた。そう直感した。

だが、母の目は喜びではなかった。泣き腫らしたまま、強い決意だけを湛えていた。

怒られるかな――薬を勝手に飲んだから。そう思った瞬間、母に抱きしめられた。強く、折れるくらい強く。二人で笑おうとしたが辞めた。

震えた声で、彼女はまた泣いていた。その夜の温度と匂いと、腕の力――それが、今も忘れない。

窓の外に目を向けた瞬間、世界が真紅に染まっていた。――炎。

それに混じって聞こえてくる、叫び声。普段見慣れた町が、知らない町に変わっていた。怖い。寒気がするのに、肌は汗でべっとりと濡れている。

母は私たちを強く抱きしめ、窓から遠ざけた。

「窓を見ないで!」

その声には、母らしからぬ恐怖が混じっていた。母は電話を取り出す。

「お願い、あなたにしか頼めないの!」

母の声は震えていて――それが余計に恐怖を煽った。 電話を終えると母は私達を玄関に連れ、私たちに靴を履かせながら言った。

「自分の靴だけを見なさい。絶対に顔を上げないで」

手を引かれ、外に出る。ちょっと汚れた靴先だけを見ていたけど――それでも気付いてしまった。

熱い。夜なのに、変に明るい。耳の奥で、焦げた匂いが張り付く。

ほんの少しだけ顔を上げた。――地獄だった。炎に包まれた家々。通りに倒れる人影。

そのすぐ脇に、ぶよぶよした塊。見てはいけない――そう分かっていたのに、視線が吸い寄せられた。

その塊はまだ動いていた。突起にべっ甲の丸眼鏡がぶら下がっている。二つ。

……隣のおじいさんとおばあさん。

「レナ!」

母の怒号。反射的に顔を俯けた。人間が、人間じゃなくなっていた。

何が起きているのかわからない。でも――もう元には戻れない。そう直感した。

怖い。体が震える。ジュリアが手を握ってきた。今度は強い力で。私も握り返した。絶対に離さない。

車が闇の中へ向かう。町外れには、背の高い女が待っていた。初めて会うその人――シルヴィア。母の妹だという。

「逃げればいい!この娘たちには姉さんが必要よ」

シルヴィアは母の肩を掴み揺さぶって叫んだ。私たちへ向けた目は厳しかったけど、なぜか怖くなかった。

「でも安全な生活も必要よ。“強化細胞”があればこの世からバイオテロはなくなるわ。だからお願い、行かせて」

母はシルヴィアを押しのけて車へ向かう。

「なら私が行く!元凶を殺して、持って帰ってくる。ついでに焼けばいいんだろ?」

銃を出して車に向かうシルヴィア。

「無理よ、あなたは研究所には入れないわ。セキュリティはまだ動いてるの」

母の言葉に、シルヴィアは鋼鉄の扉を拳で叩きつけた。金属音が夜に響く。

「だからね。あなたにお願いしたいの」

母の声は静かだった。その直後、町の方から爆発音。シルヴィアは歯を食いしばった。

「……三十分待つ、それまでに帰ってこい。こいつらの面倒は姉さんが見ろ!」

子供ながらに心からの叫びだとわかった。シルヴィアは私たちを強くにらむ。

「ありがとう、シルヴィア。でも三十分以上経ったら、先に行って。ここも危ないわ」

シルヴィアは頷いた。

「さ、ジュリア、レナおいで」

母は再び私たちを抱き寄せた。

無言の抱擁。それは温かくもあり、なぜだか悲しかった。――もう二度と会えないかもしれない。そんな直感が涙をあふれさせた。

そしてすぐに私たちはシルヴィアの車に押し込まれた。時計を見続けるシルヴィア。落ち着かない指がステアリングを叩いていた。

私とジュリアは手を握りあっていた。ずっと赤い町を見ていた。そして待っていた。

突如、電話が鳴る。

シルヴィアと母さんがしばらく話す。シルヴィアがしばらく怒っていた。だが、突如静かになり、顔を沈めた。そして私たちに端末を渡した。

「出ろ」

恐る恐るジュリアが端末を手に取り、二人で耳を寄せた。

「ジュリア、レナ。……ごめんね。でも……あなた達を見守ってるわ」

ぷつりと切れた。その一言だけで、胸の奥が裂けた。

次の瞬間――轟音。町の方角が一瞬だけ昼のように明るくなった。

シルヴィアは車を出して、私たちは町を離れた。母を置いて。

その後のことは、シルヴィアから聞いた。母は研究所に戻ったが、目的の強化細胞は奪われていた。強化細胞は私たちに打ったものと同じらしい。母はそれを持ち帰り、研究を続けるつもりだったのだろう。

だがジェナーク――あの狂人が、すべてを持ち去っていた。彼は新種のウイルスと強化細胞を掛け合わせ、「支配種」などと呼ぶ怪物を生み出そうとしていた。

神になるつもりだったのだろう。ジェナークは叫んだそうだ。

「お前は悪魔だ、レベッカ!」

でも母は微笑んで、引き金を引いた。そして町は――燃えた。母の手で、町ごと。研究所も、過去も、業火に包まれた。

私たちは、生き延びた。でも代償は大きすぎた。

「ジュリア」と「レナ」という姉妹は、あの夜に死んだ。今ここにいるのは、「エルヴィラ」と「ミア」。

今は幸せだ。エルと一緒にいる限りは。

でも、時々フラッシュバックする。 あの光景。あの音。――そして母の最後の言葉。

母と私たちを繋ぐもの、それは母があの夜に打った強化細胞。

あの冷たい液体が、今も私たちの血の中を流れている。それが私たちと過去を結びつける唯一のもの。

もう大切な人を奪われたくない。私のこの血にも――何かを守る意味があるのなら。もう一度だけ、母のように大事な人のために立ち向かいたい。

そして、彼女の最後の言葉を胸に抱き続ける。

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