4-5
懐かしい風景を見た。
幼い姉妹が寄り添っていた。――泣いている妹、その頭を必死に撫でる姉。鳴り止まない雷鳴、叩きつける雨音、すすり泣く声。
『帰りたい……よ』
妹が消え入りそうな声で呟く。姉は震える唇を噛み、無理やり涙を飲み込んだ。
『なんでなの……?』
妹は縋るように姉にしがみつく。姉はそれを優しく包み込む。
「……やめろよ」
分かってるだろ。もう戻れない――そんな事は既に分かっているはずだ。なのに自分だけ泣いている。
『大丈夫……大丈夫よ』
か細くも優しくも強い声が、雷よりも強く響いた。次の瞬間、妹は抑えていた涙を爆発させるように泣き出した。
「泣くな」
でも泣いた。 やめてくれ…エルだって悲しいし、苦しいんだよ。だから…やめろ。言ったそばから、自分の視界がぼやけた。
……気づけば、その姉妹の姿は消えていた。
代わりに、くしゃくしゃに泣く私を、エルが抱きしめていた。あの香り、あの温もり。――安心と同時に眠気が押し寄せ、まぶたが閉じる。このまま……。
――目が覚めた。
天井。柔らかなベッド。陽のあたたかさ。そしてエルの香り。
ここは、エルの部屋だ。だから、あんな夢を。深く息を吐き、身体を起こそうとしたその時――
「っ……!」
みぞおちに鈍い痛みが走る。手で押さえると、肌をひりつかせた。めくると青あざ。エルのシャツを着ていることに気が付いた。
エル――!
反射的に部屋を見回すが、姿はない。嫌な汗が、背中を一筋這い降りる。跳ね起きてリビングに飛び出した。――誰もいない。
呼吸が乱れる。胸が詰まる。トイレも、バスルームも、ベランダも、どこにもいない。エルの部屋は……いつも通り。だが――端末も、武器も、車のキーも、なかった。
机の上。白い紙が一枚。その存在だけで、心臓が嫌な音を立て、身体に針を刺したような痛み。
震える指が触れるのを拒んでいたが、見なければ――終わる。たった一語。
『またね』
膝から力が抜ける。……嫌だ。
部屋から駆け降りて駐車場に走る。願いはただ一つ――間に合え。まだここにいてくれ。だが、そこに車はなかった。
「……っ、くそっ!」
歯がきしみ、視界が揺れる。
端末を開く。……出ろ。数秒でいい。出てくれ。
『はーい!』
「エル!今どこに――」
『エルヴィラ・エヴァンズだよ!お話したいことはピーっとの後で言ってね!』
「っ、クソ!!」
エルは――いない。自分の車に飛び乗る。無意識にアクセルを踏み抜き、街を飛ばした。だが、メインストリートの渋滞で全てが止まった。身体も心も全てが。太陽が眩しすぎて視界が白く焼ける。僅かに動く頭でシルヴィアに電話をかける。
『……ミア?どうしたの』
「エルがいない!そっちにいるか!?」
沈黙。重い、沈むような沈黙。シルヴィアのところにもいないようだ。
『……落ち着きなさい。まずは私の所に』
「で、でも、エルが……!」
『聞け』
その声は大きくはなかったが刃物のように耳に刺さる。鳴り続けた心臓が一瞬止まる。
『とにかく来なさい。……分かったわね?』
「……わかった。すぐ行く」
ステアリングを握る指が痺れていた。脳内は焼け焦げたように真っ白で――でも、エルの顔だけが、はっきりと焼き付いて離れない。
「なんでだよ……なんで、エル」
頭を叩きつけ声に出すと、胸の奥が軋んだ。思考が、感情に追いつかない。車はアクセルを踏み抜いても、まるで意地を張っているかのように渋滞は解消されない。苛立ちで指先が震え、呼吸が浅くなる。
「クソ……っ!」
手でステアリングを叩いた音が耳の奥で反響する。
ようやく到着すると、エンジンが完全に止まる前にドアを蹴り開け、鍵を駐車場係に投げる。
カジノの客をかき分けてエレベーターに駆け込み。最上階を駆けて扉を叩き壊す勢いで開け放つ――そこにいた。
シルヴィア。鋭い目で書類を閉じ、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「エルが……エルがいないんだ!急いで、急いで探してくれ!」
肩で息をしながら胸ぐらを掴む――その瞬間。乾いた音が耳の奥まで響いた。頬が焼け、視界がぐらつく。
目の前にはシルヴィアの冷たい瞳。怒鳴り声もなく、ただ氷のような静けさがあった。その沈黙のほうが、どんな罵倒より恐ろしい。
「――落ち着け」
その一言だけで、冷水をかぶったように身体が醒める。
「最初から話せ。全部よ、順番に」
いつもの声ではない。命令だった。私は、全てを吐き出した。
喧嘩の始まり。冷戦のこと。エルの異変。ダイナーでのヤンヤンとレイの言葉。昨日の抱擁と、残された手紙――その言葉も。
話しているうちに、喉がひりつき、言葉が止まらなくなった。気付けば、エルに謝っていた。懺悔のように。祈りのように。
嗚咽が胸を締め付ける。あの時、一言でも違うことを言えたら――あんな態度を取らなければ――エルは出て行かなかった。
それが頭の中で反響し続ける。膝が折れて床に落ちた。顔を覆う両手は濡れ、涙で指の間が震えている。
「ミア」
シルヴィアの声。気が付けば私の目の前に屈んでいた。
顎をそっと持ち上げられる。その目は――責めても、慰めてもいなかった。ただ真っすぐ前を見据えている。
「謝るのは、エルに。……それが違うなら、何の意味もない」
その冷徹な優しさに、足が震えながらも立ち上がることができた。すぐさまシルヴィアは端末を開き、指示を飛ばす。
市内外の捜査局のネットワークに侵入し、街の裏ルートも、州外の連絡線も、一気に捜索する。
電話の合間にこちらを一瞥するたび、その目には妥協も迷いもなかった。
私は――走った。エルがいる可能性のある場所を片っ端から回った。違法バー、廃ビル、裏カジノ、闇市場。ヤンヤンやレイにも聞いた。情報屋や顔の利く連中にも声をかけた。
エルと歩いていた男、その詳細は何も分からなかった。酔っ払いに絡まれていたのか?それとも別の何かか?
マゼランのコネも使った。……それでも、エルの影は一つも見つからなかった。
息つく間もなく走り回っても、手の中には何も残らなかった。汗で濡れたシャツだけが、現実を教えていた。
街はいつも通り賑やかで、どこかで人が笑っている。その雑踏の中で――私だけが、ひとり取り残された気がした。
行く当て尽きて、翌朝に部屋に戻った。
エルの部屋のドアを開けた瞬間、湿った空気とともにエルの匂いが押し寄せた。あの朝と何も変わらない。香水とレザーと、微かに焦げたコーヒーの匂い――彼女そのものだった。
机を開く。新品のペン、整然と並んだ弾丸。その奥には、エルが昔使っていた小型拳銃。グリップには私が付けた傷がそのまま残っている。
机の端に、私が誕生日に贈ったオルゴール。ぜんまいを回すと、あの曲が静かに流れた。――エルがよく寝る前に聴いていたバラード。
だが、横には睡眠薬の瓶があった。
知らなかった。一度も、そんな素振りを見せたことはなかったのに――。
胸が重く沈んでいく。何度も何度も、息が詰まる。閉める時に違和感を感じて引き出しを外す。その奥に、何かが光っていた。
真新しいメモリ。端末に接続する――が、何も記録されていない。
新品、いや、表面にはかすかにエルの口紅がついている。なぜか、そのわずかな痕跡が妙に気にかかり、ポケットにしまった。
クローゼットには、お気に入りジャケットやレザーのパンツ、ロングブーツが整頓されていた。
ステレオには、バラードのCD。棚には悲恋小説が並んでいる。フォトフレームには――真顔の私とエルの写真。その横には洒落た缶。底に隠されていた小さな成年誌。思わず、口元がゆるみそうになった。……でも笑えなかった。
この部屋は、まるで一晩だけ留守にしているだけのようだった。何も変わっていない。けれど、すべてが遠い。
部屋に差し込む夕陽が、目に痛いほどまぶしかった。
そのままベッドに腰を下ろす。徹夜し続けた体は鉛のように重く、頭はぼんやりとしている。けれど眠れなかった。
“何も変わっていないのに、エルはいない”事実だけが、全身を締め付けていた。
だが次の日も見つからない――この街にはもういない。その直感だけは確かに感じた。
シルヴィアの助けも借りながら、隣の州、更に隣の州へと移る。だが、その街の情報屋に顔写真をいくら見せても反応は薄い。
ゼニス・スパイアから二つ南の州を移動中、シルヴィアから連絡が入った。
『エルヴィラの車が見つかったわ』
「……本当か。どこに?」
声が裏返る。だが、シルヴィアはそれ以上説明せず、「戻ってこい」とだけ告げて切った。
空港から直行する。二時間のフライトだがそれすら遅く感じた。空港を出るとシルヴィアの車に飛び乗る。
彼女は淡々と状況を説明した。車が見つかったのはゼニス・スパイア近郊、廃港になったゴーストタウンの湾口――閉鎖された埠頭だという。
夜の埠頭は街灯は半分以上が壊れ、塩と錆の臭いが混ざった海風が頬を叩いた。無人の広場にぽつんと停まるエルの車。鍵はかかっておらず、車内は綺麗なまま。争った跡も、物を持ち出した痕跡もない。辺りの防犯カメラはほとんど壊れていたが、一台だけ生きており、車が入る瞬間を捉えた映像で終わっていた。
その後――誰も映っていない。
波の音だけが響いていた。冷たい風が首筋をなでる。
その先の暗い海を見た瞬間、体温が一気に落ちた。――海底を想像してしまった。
「……いや……ない。そんなの、ない」
頭を抱える。喉の奥で声が震えた。エルほどの手練れなら、襲われれば必ず応戦する。撃たれた痕跡も、血の匂いもない。――自分の意志でここまで来て、そして姿を消した。
「じゃあ……どうして、どうして何も言わないで」
胸の奥が焼ける。裏切られた訳じゃないと分かっている。でも、置いていかれた事実だけが重かった。
「理由は……あの子にしか分からない。でも――」
「船だ!エルは船で連れられたんだ。航行記録、通った船があるはずだ」
だが、シルヴィアの表情は動かない。
「ミア、この港は廃港よ。記録なんてないわ」
「クソっ……ふざけるな……!」
足が勝手に動き出す。暗い海に向かって走り出そうとした瞬間――肩を強く掴まれ、無理やり引き戻された。
「ミア。……海を探す気?」
「じゃあどこにいるって?諦めるのか?」
次の瞬間、頬に鋭い衝撃が走った。乾いた音とともに視界が揺れる。耳鳴りが広がり、頭の奥で何かが切れた。
よろめいたところをシルヴィアから髪を掴まれ、顔をぐっと寄せられる。氷より冷たく、剣より鋭い目が、私を射抜いた。
「ミア……誰が諦めるって言った?」
息が止まった。シルヴィアの瞳は揺れていない。ただ真っ直ぐ、前だけを見据えていた。
「……じゃ、じゃあどうすんだよ……」
声が裏返り、足が震えた。シルヴィアの冷たい手が首に回る。
「わからないの?けれど今のあなたじゃ見つけられない。もはやトラブルの種」
短くそう言った彼女の目の奥に、一瞬だけ閃光のような意思が走る。
「命令よ。ミア。お前は、待機」
「……は……?」
声が掠れる。
「ここに残るでも、他を当たるでも勝手にしなさい。でも――邪魔はするな」
身体が放たれ、膝から崩れ落ちた。冷たいコンクリートにキスをする。下の石で腹が痛い、だが立ち上がれない。
シルヴィアは振り返らずに歩いて車に乗り込み、そのまま消えた。夜風がひどく冷たい。
残されたのはエルの車と、波の音と、エルを消した暗闇だけだった。疲労で全身が重い。睡眠不足で頭が霞む。
それでも胸だけが熱く、脈打ち続ける。
重い手で腹を探ると石ではなく、エルのメモリー。入れっぱなしにしていたもの。
だが、その無機質なプラスチック片が、エルとの繋がりに感じた。――エル、エルは。
その問いだけが、胸に焼き付いたまま離れなかった。
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