4-4
その夜、要人護送の仕事から帰るとエルはいなかった。少しだけホッとして、冷蔵庫を開けると調味料と非常食を除いて食料がないことに気が付く。思い出せば、買い出しなんて最後に行ったのはエルと喧嘩する前。
面倒くさいがこのままだとエルと鉢合わせるかもしれないので、外で取ることにした。
車を走らせるも麗軒飯店の照明は一つもついていない。ファストフードも、カジノのレストランも行く気にはなれなかった。
信号待ちに見ていたぼんやりと浮かぶホログラムの車の広告。夜だとなおさら、逃げられない。
だが突如、白く濁る。フロントガラスに石灰混じりの水滴が流れる。雨だ、それも大雨。外に出た事を後悔しながら目線を下げると白いガラスの先にネオンの光が見えた。
前に行った時はエルと鉢合わせした店――ゼニス・グリル。進んで行く気にはなれないが、腹は減っているし、エルが切っていたステーキを思い出した。そして、涙で溢れたエルの顔も。
覚悟を決めて駐車場に車を停め、店内に入る。もしかしたらエルがまたいるかもしれない。そしたら、話しかけよう。
だがその淡い期待はあっさりと裏切られた。鉢合わせした席は誰もいない。エルの車も無かったから期待はしてなかったと言い訳をしてその席に座る。
ガラスを叩く粒の音と、油膜越しに滲むネオンが、夜の店内を不自然に明るくしていた。私は一人、エルが頼んでいたメニュー――ステーキセットとチェリーの乗ったシェイク――を前にして座っていた。
フォークで突き刺した湯気を上げる肉は、なぜだかぬるくて、いくらコショウをかけても味がしなかった。ただ、油の膜だけが舌に貼りつき、胃が重くなる。
シェイクをすすっても甘さは頭蓋の奥に響くだけで、胃にはいつまで経っても届かない。
――何やってるのか。
家に居たくなくて逃げてきたはずなのに、選んだのはエルが頼んだメニュー。自分がみじめで、笑えるくらい滑稽だった。胸の奥がざらつくようにモヤモヤして、落ち着かない。
机に額をつけて目を閉じる。ポップミュージックとフライヤーの油が焦げる匂い、奥の席で笑うカップルの声とウェイターのローラースケートの音が、全部遠いのにやけに耳に刺さる。雨音がガラスを震わせるたび、心臓まで軋むような気がした。
そんな時、ドアチャイムが陽気に鳴り、靴音が真っ直ぐに近づいてくる。顔を上げなくてもエルじゃないとわかった。女二人――。
「ミアさーん!久しぶりっすね!」
顔を上げると、笑顔のヤンヤンと、後ろの仏頂面のレイ。嫌なところを見られた。
「ここ、座っていいか?」
ぎこちない笑顔のレイ。
「あぁ……好きにしろ」
声はかすれていた。二人が席に座ると、テーブルの向こうから人肌の温度の空気が押し寄せてくる。ただでさえ冷えた胸の奥をさらに押しつぶされるような気がした。
「ミアさん、最近やつれてるっすよ? ダイエットでも?」
「……そうだ」
適当に返す。だがヤンヤンは笑顔は変わらない。
「エルと最近一緒に来ないから、心配してたんだ。なあ、ヤンヤン」
レイの声はわざとらしく優しい。誰の差し金だろうとすぐわかった。
「…シルヴィアに頼まれたのか?」
私の言葉に、ヤンヤンがレイを睨む。レイが小さく頷いた。
「まあな、そうだ。アイツもかなり心配もしてるからな。……聞いたんだ」
「ずっとミアさんとエルヴィラさんがどんどん沈んでくの見てんすよ。目の前で。会うたびに」
ヤンヤンの声が震えていた。胸の奥に針を刺されるみたいな言葉だった。
「聞きましたよ。喧嘩したんでしょ?ミアさんの傷の事で。……そんなん簡単じゃないすか?」
ヤンヤンの声が上ずる。
「ミアさんの事が大事だからに決まってるっすよ。なんでわかってあげられないんすか?」
「ヤンヤン」
レイが低く名前を呼ぶ、だが止まらなかった。
「別に全部エルヴィラさんに従えって言ってる訳じゃないんすよ!ただ理解くらいはできるでしょ?」
「ヤンヤン、やめろ」
「なのに……。本当にわからないんすか?」
問いの形をした暴力。私は喉を詰まらせ、言葉が出なかった。喉の奥が焼ける。顎が震える。呼吸が浅くなる。
何か言えば終わる。分かっているのに、声が出ない。ヤンヤンの視線は鋭いまま、私を刺し貫いた。
「……黙るってことは、自分でわかってるからっすよ」
「ヤンヤン!」
レイが制止し、周囲の客がこちらを見た。ようやくヤンヤンの口が止まった。
ボックスシートの周りだけ嘘のような沈黙。雨音とポップミュージックだけが空気を満たすが、それすら無音に感じるほど居心地が悪い。私は無理やり冷えたステーキを口に詰め、甘ったるいシェイクで押し流した。
だが味はなかった。胸の奥が、ひどく空っぽだった。
レイがまるで猫にするようにヤンヤンの首根っこを掴んで立ち上がる。
「すまんな、ミア。食事の邪魔をした。もう引き上げる……あと、もう一つだけ」
少し間を置いて言った。
「エルが最近、見かけない男と動いてるのを見た。どうやらシルヴィアにも言っていないらしい。ミアになら話してくれるかもよ」
それだけ告げて、二人は出ていった。ドアチャイムが軽く鳴り、外の雨音が少しだけ大きくなった。
残された私は、動けなかった。
ステーキは冷え切り、シェイクの氷は溶けていた。視界の色は戻ったはずなのに、胸の中の何かは、二度と戻ってこなかった。
何も考えられないが残りのステーキをシェイクを飲み込み、金をおいて店を出た。
走る、車へ。全身が雨に打たれるがどうでもいい。水たまりにブーツを突っ込み、ながら濡れた車体に飛び込んでドアを開ける。
モノの数秒でシャワーを浴びたみたいだ。すぐにキーを回して道路に飛び出ると、クラクションを鳴らされる。
アクセルペダルを踏みしめると靴底が滑る。
エルはそこにいる確証もない。だが、今はそこにいる気がしてならない。帰ってるはずだ。私達の家に。
車の間を抜けるように走る。
着くなりに、駐車場に目をやる。幌の閉められた赤いコンバーチブルが鈍く光っている。
大雨の夜。マンションが生き物のように見えた。濡れたアスファルトの上で、外灯の光を吸い込みながら鈍く脈打ち、無言のまま大きな口を開けている。まるで、私を飲み込もうとして待っているかのようだった。
「……なんで、だよ」
喉の奥がひりつく。胃液の酸っぱさと幼稚なプライドが絡まり、足を縫い付ける。エントランスまで数メートル――ただの距離なのに、崖の縁みたいに見えた。落ちたら戻れない。戻れないのに、進まなきゃならない。
マンションを見上げる。
自分たちの部屋の窓は真っ暗だった。この味は胸の奥で不安と安堵をかき混ぜたもの。――いない。エルは、いない。
なのにその味は、喉に刺さるトゲみたいに痛かった。
呼吸を止めてエントランスを抜け、エレベーターに飛び込む。蛍光灯の白さが目を刺し、心臓の音が耳の奥で大きく跳ね、陽気な曲が濡れたからだに染みて悪寒が走った。
小気味の良いベルと共に駆け出して、息を切らしながら部屋の前まで倒れるように歩いた。ポケットの鍵を握りしめる指先は汗と雨で滑る。
ドアの前に立った。
鍵穴に鍵を差し込むと、手が震えていることに気付く。雨のせいじゃない。金属が擦れる乾いた音が、妙に大きく響いた。
開けた瞬間、家の中の空気が押し寄せた。
湿気と、油と、石鹸と、微かに残るエルの香り。暗闇が私の目をすぐに慣れさせ、不在を告げてきた。分かっていた。それでも、怖かった。
「何が……そんなに」
呟きは自分の声とは思えないほどかすれていた。
リビングに歩き照明を点ける。冷たい光が部屋を照らし、家具と床を浮かび上がらせる。
エルのジャケットはかかっていない。その事実に、胸の奥が一瞬だけ軽くなる。
――なのに、そんな自分に腹が立った。
濡れて肌に密着するジャケットを力任せに脱ぎ、ソファに倒れ込む。髪の先から雫が滴り、床を濡らす。足先は氷のように冷たい。
テレビをつけると、田舎町のバイオテロの速報、株価下落、誰かのホームラン。音ばかりで、何一つ届いてこない。音はただの水圧みたいに、身体の外から内側を押し潰す。
気付けば立ち上がっていた。心臓が早鐘のように鳴っている。
――もしかしたら、いるんじゃないか?
いないはずだ。
でも脳が勝手に探してしまう。震える足で廊下を進む。
エルの部屋の前に立った瞬間、全身が硬直した。ドアノブに手をかける。冷たい。いや、私の手が冷たいのか。
――開けていいのか。
それでも、行かなければならない。
扉を押し開けた瞬間、冷気と街の明かりが流れ込んだ。カーテンの隙間から漏れる青白い光が部屋を満たし、水槽の中みたいだ。音が消えていた。雨音すら遠ざかり、世界が閉じたよう。
そこに――エルがいた。椅子に腰掛け、膝を抱え、うつむいていた。呼吸の音すらしない。マネキンのように動かない。
その姿が、胸の奥を一気に締め付けた。
「……エル」
声が震えた瞬間、彼女が顔を上げた。怒りも拒絶もなかった。
代わりに――母のような、赦しのような、優しすぎる目。
怖い。怖いのに、許してほしい。
足が勝手に進む。一歩。また一歩。心臓が胸の奥で爆ぜるたび、胸が焼けていく。
目の前に立った時、エルがゆっくりと立ち上がった。その動作一つひとつが遅く、美しく見えた。青白い街明かりに照らされた横顔は、生気が宿っておらず幽霊のよう。
次の瞬間、エルの腕が私の背中に回った。その温もりに、身体の芯が溶け、膝が崩れそうになる。
言葉はなかった。でも、その無言がかえって胸を抉った。
……その目だった。
包むように、赦すように、愛するように微笑んでいるのに、どうしてか背筋が凍る。
怖いのに、離れたくない。心臓が打ちすぎて、何かが焼けている気がした。
エルの心音が、直接、耳の奥に響く。頭痛も耳鳴りも消えていく。惨めさも後悔も、少しずつ溶けていった。
気付けば、僅かな声が漏れていた。胸の奥に広がるのは、甘い安堵。その温度に沈んでいく。
このまま、すべて忘れてしまいたい――。
頬に触れる指先がやさしい。耳元で、微かに息が触れる。髪に埋められた顔から、エルの匂いがした。昔と同じ匂い。いつでも私を落ち着かせてくれた匂い。
その匂いを肺いっぱいに吸い込むたび、身体中の力が抜けていった。
泣いた。いや、“漏れた”。喉が潰れかけた獣みたいに、見っともなく、破裂するように。
やめたい。止めたい。情けなさに吐き気がするのに、止められない。みっともなく、何度もしゃくり上げた。
エルの手が、その涙を拭った。
「ぅ、あ…くそ……」
温かくて、優しくて、なおさら惨めで――胸が裂けそうだった。その仕草が優しすぎて、胸の奥が痛い。
どれくらい抱かれていたのか、わからない。時間が伸びて、永遠になったようだった。気づけばエルの顔がすぐ目の前にあった。
――微笑んでいた。
私は何をした?くだらない事をやってエルを傷つけた。それも傷つくとわかって苦しめた。
でも青い瞳は咎めない。そう確信したのに、その笑顔の奥に、何かがある気がした。
何かを背負っている。もう戻れない場所から私を見ている――そんな目だった。
その笑みが、どうしても怖かった。優しすぎて、現実味がなかった。この世界の誰にも見せたことのないような、清らかすぎる笑顔。
耳元に、唇が近づく。
「……ごめんね」
吐息が耳を撫でる。その声は、悲しみでも怒りでもなかった。ただ、何かの別れのような声。
「あ――」
声にならない声が喉に引っかかった瞬間、呼吸が止まった。みぞおちに鋭い衝撃が走る。
世界が揺れる。視線を落とすと、エルの拳が――私の腹に深く沈んでいた。その光景を理解する前に、床が消え、時間が断ち切られた。
最後に残ったのは、エルの体温と――あの笑顔だった。
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