4-3
あの日から、私とエルは言葉を交わさなかった。同じ空間にいても会話はゼロ。そもそも視野に入れない。
朝起きるとリビングのソファにはエル。当然、目も合わさずキッチンに向かいコーヒーを入れる。私を一瞥もせずにそのまま部屋を出て仕事に行く。
どんな上等なコーヒーでも一気に飲むなら安物と変わらない。
それが、新しい日常。ただそれだけのやり取りだ。ひとたび口を開けば、あの日の再来。分かっているのに、指先が震えるほど何かを言いたくて仕方がない。
だが我慢する。言ったら負けだ。あの夜で既に決定的な敗北感を植え付けられている。
食事は別々、タイミングもわざとずらす。冷蔵庫の中身すら二分割されたようになった。浴室に残るエルのシャンプーの匂いですら胸がざわつき、掃除をした。
生きているだけで苛立つ――そんな感覚。すれ違いざまに服の袖がかすったとき、火傷のように皮膚が焼けた気がした。
あれほど安らぎをくれたはずの自宅は、今では一時も休まらない。自室からでもエルの息遣いが聞こえる気がする。
だから私は街に逃げた。
麗軒飯店でヤンヤンの笑顔を見ても何か居心地が悪い。バーで酒をあおっても、ただ胃が荒れるだけ。
「今日は一人なの?」
その質問の度にエルの顔がチラつく。この街ではどこへ行っても逃げられない。その事実が受け入れられない。
逃げようと街をぶらつくが至る所に張り巡らされたライトとスモッグに目がやられる。目も肌も乾いてるし、喉もカラカラで足も痛い。
そんな時は自然と足が動く。最も安全だと思う場所へ。
ダイナー“ゼニス・グリル”。
カラフルな疑似ネオンが光る看板、ガラス越しに見えるローラースケートのウェイトレス、駐車場のバイカーの集団、漏れる古いポップソング。
今の気分とはかけ離れているが、それはエルも同じだろう。
ガラス戸を開けて、適当な席に座ろうと思った。出入口が見えて、目立たない席に。
一番良いボックス席に手をかけると人影。先客がいたので別の席を探そうとしたその時、背中に鋭い視線を感じた。
振り返って見慣れた影を見つけたとき、一瞬、何も聞こえなくなった。音楽も、店員の声も、油の跳ねる音すら消えた。粘っこい声のポップソングさえも。
そこにエルが座っていた。まるで誰もいないかのように視線を向けない。
ナイフとフォークを両手にステーキを切っている。さっき私を見ていたくせに。何なら私が店に入るのも見えていたはずだ。挑発のような行為。
耐えきれずにそのまま出口に向かうと、ウェイトレスから声をかけられたが無視してドアを開ける。
駐車場にはエルのコンバーチブル――なぜ気が付かなかったのか。どこに行っても、エルの影が追ってくる。
だが唯一、安全な地帯を探し当てた。
それは射撃場――窓のない室内に響く銃声だけが頭の中の靄を払い、朽ちかけた硬いベンチで久しぶりの心地良い眠りにつけた。
すぐに近くのモーテルを借りて、仕事のない日は一日中、そこにいた。
ここでの射撃は心を躍らせて落ち着かせた。ターゲットの中心に穴を空けている間は何も感じない。スコアは更新し続け、胸の奥は空洞のままな事も忘れられた。
床に散らばる薬莢は山になり、指はしびれ、トリガーを引く感覚さえ薄れていった。
だが、ある日それは急に終わった。いくら撃っても、銃を変えても、最高得点が出ても虚しいばかり。モーテルを引き払ってエルがいる家に戻る。
新しい気晴らしが必要だ。それもエルの影が届かない場所。
だがそれは見つからなかった。スロットマシンでも、公道レースでも、チンピラとの喧嘩でもない。
何をしても、何も埋まらない。
分かっている。――原因はわかっているのに、私は認めたくなかった。
だから否定を続けた。
そんなとき、シルヴィアに呼び出された。重いドアを開けた先、エルは一人掛けのソファに座り、後頭部に手を組んでいた。もちろん私を見ない。シルヴィアは睨むように奥のチェアに座っている。
「ミア、座って」
シルヴィアの指示に従いエルの対面に座る。いつも張り詰めている部屋の空気が今日は尚更だった。
「あなた達ももう大人なんだから、みっともない喧嘩はやめてくれる?仕事が振りにくくてしょうがないわ」
呆れたようなシルヴィアの声。多忙な日常を少しでも楽にするための部下が、逆に仕事を増やすのだから。
「喧嘩じゃないもん。この人が言ったの、もう口出しするなって。だからそうするだけ」
まるで他人事のような言い方。その態度に腹の奥が煮え立つ。
「ガキ扱いされて、小傷でガタガタ言われて……そんなのじゃ仕事にならない」
私も負けじと吐き捨てた。エルはどうでもいい風を装いながら、しっかりと私を睨み返していた。沈黙が肌をひりつかせ、節々を段々と痛くさせる。シルヴィアは額に手を当て、深くため息を吐いた。
「……好きなだけ喧嘩しなさい」
言い捨て、背中を向けた。その姿は完全に見放した者のそれだった。
それから、私とエルは別々の仕事を請けるようになった。輸送、殺し、ガード、潜入――どんな仕事でも一人でこなせる。
最初はそれで良かった。エルの顔を見ないだけで、こんなにも心が軽いのかと思った。守るものがない。
だから、どんな修羅場でも躊躇しないでいい。
囲まれた時ですら突っ込めた。時間が止まる。だが、私だけは止まらない。撃って、蹴って、殴り、骨を砕く。血が床に染みる。
荒い息が耳の奥で反響して、脳から快楽物質が噴き出した。仕事が楽しいと思ったのは初めてだ。
――だが、傷が増えた。
腕の裂傷、腹の打撲、頬に切り傷。
仕事は日に日に雑になり、油断すれば必ず何かしらをもらって帰る。それでも咎める者はいない。
湯船の中で痛みを我慢することが、いつの間にか日課になる。誇りなんて、そんなものはない。ただの肉の裂傷、皮膚の亀裂。
だが、ある日。エルがその傷を見て、表情を曇らせる。あの日以降、一度も見なかったのに。
怒りではない。軽蔑でもない。ただ、どうしようもなく痛ましい顔。
その瞳が、私を刺した。……いや、刺したんじゃない。
浸食した。
身体の奥が熱くなる。鼓動が耳を打ち、呼吸が荒くなる。
それは――快感だった。エルはすぐに自室へ戻り、ドアを乱暴に閉めた。
その音が、私の胸を震わせる。
笑った。自分でも気持ち悪いと思うくらいに笑う。“エルを壊している”――そう実感する。
それから、わざと傷を増やすようになる。
敵をギリギリまで引き付け、敢えて拳を食らい、刃をかすらせた。肩、腹、腕、太腿……。
わざと作った赤い線を、家で見せびらかすように歩いた。湿気のこもる部屋の空気をわざと揺らすように、無言で通り過ぎる。
エルは必ず顔を曇らせた。その顔を見るたび、骨の髄まで熱が走る。興奮が止まらない。ベッドの上でも収まらない。
目を閉じれば、あの青い瞳が浮かび、呼吸が荒くなり、布団を握りしめる。感じる。エルを。熱い。熱すぎる。寝不足だ。
体はだるく、痛みで軋んでいるのに、それでもやめられない。
――これしかない。
自分を刻むことでしか、エルに触れられない気がした。血を流して、やっと繋がれる気がした。
――それは一方通行の遊戯だった。
私は傷を刻む。エルはそれを見て、苦い顔をする。それで満足していた。いや、満足しているつもりだ。
ある夜、ソファに沈み、音量を絞ったコメディ番組を無感情に眺めていた。安っぽい笑い声と、ビールの苦味だけが現実をつなぎ止めていた。
浴室のドアが、ふと開いた。湿った空気が流れ出し、湯気に包まれた影が現れる。
エル。
タオルで柔らかな髪を拭きながら、火照った身体で裸足のまま廊下を歩いてくる。そして――見えた。頬を走る、裂け目。赤黒く乾いた線が、白い肌に縫い込まれたかのように刻まれている。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。内臓が一斉にひっくり返る。喉が焼け、肺が凍り、鼓動が耳を殴る。口の奥に、酸っぱい味が広がる。
――違う。
あの傷は、ただの傷跡じゃない。私の知らない場所で、私の知らない誰かの“指”が、エルの顔に触れた証だ。身体の火照りが、一瞬で冷める。代わりに、吐き気を伴う震えが全身を襲う。
「……誰が、やった」
声は出ない。
喉が詰まり、肺が押し潰される。喉を裂くような呻き声。握っていたビール缶が潰れ、泡が指の隙間から噴き出す。
その傷を剥ぎ取りたかった。この世から――傷跡も、それをつけた人間も、跡形もなく消してやりたい。
エルは立ち止まり、こちらを見た。
半分開いた瞳で、静かに。青い光が鈍く光る。怒りも、恐怖も、哀れみもない、感情の見えない目。
そのまま、何も言わず、廊下の奥へ消えていく。動けなかった。怒りも、嫌悪も、愛情も、すべてが混ざり合い、言葉にならないものに変わる。
そしてその残骸だけが、あの傷跡の形で脳に焼き付き、離れない。
私は極力怪我を避けるようになった。いや、避けるというより――恐怖。あの頬に刻まれた裂け目を思い出すたび、胃の奥がひっくり返り、喉の奥が酸っぱくなる。
あれ以上、あんなものが一つでも増えたら……私は、たぶん壊れる。だから自室に籠もる時間が増えた。
エルと同じ空間にいると、あの傷の映像が頭を締め上げてくる。情けないが……そうだ。それが本心だった。
そんな冷戦は続いていた。ただ――ある日を境に、質が変わった。
風呂上がり、湿った髪を拭きながらリビングに入る。
電気をつける前、空気が違った。暗闇の中、電源が落ちたテレビの黒い画面。そこにぼんやりと映るエルの輪郭。静止画みたいな沈黙。わざと足音を鳴らす。
――無反応。
ふざけんな、と照明をつけると身体がピクリと跳ねた。
だが次の瞬間には、あの曇った怒りの瞳に戻っていた。ほんの一瞬だけ歩み寄ろうとしたことを後悔した。
以降、家の空気は凍る。エルはいつものように私を見ない。だが、“見えていない”わけじゃない。
目は開いているのに、何も宿っていない。それでも、確かに何かを“待っている”ように見えた。端末を覗き込む姿はいつも固い。一度だけ画面を覗こうとしたら、すぐに暗転して、無言の圧を向けられた。
窓の外に目をやる時間がやたら長くなった。何かを見張っている――そんな風にしか思えなかった。忘れているのか?喧嘩のことも、私のことも。そう思うと腹が立ったが、その怒りすら途中で萎んでしまった。
外泊も増えた。前にはなかったことだ。持ち出す荷物は少ないのに、帰らない夜が続く。
何をしている?遊んでいるのか?……自由だ、エルの勝手だ。それでも胸がざらついて、落ち着かなかった。
一度だけ声をかけた。ソファに座り込み、うつむいたままの彼女に。
「……エル」
その声に、ゆっくりと顔を上げたエルの瞳は――涙でいっぱいだった。何も言わず、唇を噛んで立ち上がり、目を逸らして部屋へ消えていく。
まるで、自分で壁を作って閉じこもるように。
残されたリビングには、彼女の香りだけが漂っていた。その背中を目で追いながら、ひどく息苦しかった。
理由は、最後までわからないまま。
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