3-4
麗軒飯店は定休日で、昨日よりもさらに静まり返っていた。
ホールには段ボールが積まれ、野菜と香辛料の匂いが微かに漂う。人の気配も、鍋の音もない——ただの、静かな厨房の匂い。
三階のリビングに通されると、レイは湯気の立つ私物のコーヒーを差し出した。しばし無言のまま、カップを手に互いを見つめ合う。
ふと、窓を見た。濃い雲とスモッグが空を覆い、今にも振り出しそうな湿気でガラスが結露していた。
「レイ、悪いな。休日に押しかけて」
「……いや、大丈夫。こっちこそ、すまんな」
レイは小さく首を振り、深く頭を下げた。その表情には多少の安堵の色が滲む。
「嫌がらせしてたヤツは、もういない」
「もちろん、この世からじゃないからね。でもゼニス・スパイアにはいないよ」
隣でエルが笑顔で付け加える。レイは一瞬、はっとして顔を上げ、頬を緩めた。
「正体はチンケなチンピラだ。嫌がらせは憂さ晴らしらしい」
レイの目が見開かれる。少し、唇を噛んでため息をついた。だが、その目は安堵。
「まぁ、どの街でもそんな事もあるよな。……でも、ヤンヤン狙いじゃなくて良かった」
言葉に決意を込めて伝える。レイは両目に涙を浮かべ、机に額がつきそうなほど頭を下げた。
「……この恩は忘れない。本当に……ありがとうな」
少し湿った空気を切るように、エルが話題を変える。
「ところで、ヤンヤンは? 姿が見えないけど」
「それがすっかり体調を崩してな、昨日からずっと寝込んでる。この件が解決したから時期によくなると思いたいが」
その声には、言葉にしきれない痛みがにじんでいた。
突然、レイが立ち上がり戸棚から何かを取ると、それを机に置いた。
「大した礼はできんが、受け取ってくれ」
分厚い茶封筒が三つ。
エルと目が合う。すぐに彼女は笑って答えた。
「ありがと。でもね、それは受け取れないよ」
「待ってくれ、そりゃこっちも収まらん。足りん分は月賦で払うから」
自分なら受け取らないのに、頑なに茶封筒を押し付けようとするレイ。氷のシルヴィアもその義理堅さに惚れ込んでいるのだろう。
「大したことはやってない。誰のせいで服がおじゃんになった以外はな」
急にエルが思い出したように申し訳なさそうにはにかんだ。
「だから、今度飯でもご馳走してくれ。ヤンヤンが元気になった時にでも」
「うん、いっぱい食べるよー。シルヴィアも呼ぶよ。……ま、来てくれるかわかんないけど」
レイの目が丸くなる。喉がポンプのように息を吞んでいた。
「……すまんな。エルヴィラ、ミア。この件は恩に着る」
頭を下げるレイ。
その姿を見た瞬間、悪寒が走る。腕には鳥肌、指が僅かに震えている。
エルも同じだろうか。あれはただの嫌がらせ、それもどこにでもあるような陳腐なもの。
オレンジフッド――あの男はもういない。カタを付けたはずなのに、直感がそれを否定する。
何が残っているのかもわからない。考えすぎかもしれない。でも、不安は完全に消したかった。
「レイ、今日の所は引き上げる」
「え?もう行っちゃうの?」
最後のコーヒーを一気に飲み干した。喉から胃に熱く流れる。いつもの缶や、インスタントよりも身体に沁みる。
「急ぐのか?」
頷いて席を立つ。部屋のドアに手をかけたとき、言い残したことがあった事を思い出す。
「コーヒー美味かった」
麗軒飯店出て、シルヴィアの贈り物の車に乗り込む。キーを回してエンジンを付けた瞬間、雨が振り出した。
エルが急いで駆けて車に乗り込んだ。
「何か考えてるでしょ?」
「まあ、な。マゼランの所に行く」
助手席の後悔の顔を横目に車を走らせる。
麗軒飯店、オレンジフッド、NOVA、ダリア。その言葉がどうしても頭を離れなかった。
仮にオレンジフッドが昼行灯を演じたとして、麗軒飯店の何を狙っている?いや、私達…シルヴィアか?おびき寄せている、としたら誰が?NOVAが絡んでいる事も考えるとヴォルフ・プラトフだ。
あの夜のイリーナが浮かぶ。ヴォルフ・プラトフだとしたら、そんなに回りくどい事はしない。直接カジノに嫌がらせすればいい。
NOVAは大きい。他の組織かもしれないな。
そうだとしたら、次は……。
『投資。それに必要なもの。それは私にも、未来にも』
曇り空に浮かぶホログラム広告が妙にまぶしく、思考を打ち砕いた。
ため息をついているうちに、室外機が虫の卵のようにびっしりと付いた灰色のマンションが見えた。
「本当に行くの?」
エルの声はかすれていた。
マゼランとその部屋は前の日から何一つ変わっていない。違うのは隣に寄り添うアンドロイドだけ。今日は褐色の肌の水着姿だ。
「昨日は楽しめたか?」
「あぁ、アイツはもうこの街にいない。で、調べてほしいことがある。市警の発信機だ、アイツのバイクに付けられていたな」
マゼランがこちらを向いて笑った。口には変な臭いの電子タバコ。エルは顔を沈め、隣で拳を握りしめる。
「そうか、ヤツはストーカーの前歴があったか。元妻に近づいてたのか知りたいのか?」
「……NOVAもアイツを追っていた」
その一言がどうやら彼の好奇心が刺激したようだ。キーボードを叩く音が部屋に響き、煙がかき消される。
「骨董品並みのシステムだな」、「市警のタコめ」、「税金泥棒め」。
マゼランの言葉に呆れた目をエルは向けていた。確かに彼が税金を払っているとは思えない、というかそんなはずがない。
だが、前回よりも熱意は明らかに高い。それだけ意味がある。
「面白いことが分かった。見ろ」
モニターにはヤツの口座情報とゼニス・スパイアの衛星写真が映っている。そしてそれを繋ぐ線。
「この男の過去一週間の出入金と移動先だ。すごいな、ヤツは一週間で五千ドルも稼いだ。振込元もダミーときてる」
一日ごとに金を貰っている。それも嫌がらせを始めてから大金を。
ヤツが素直に街を出たのも納得だ。むしゃくしゃしたから?とんでもない嘘だ。あの峠の夜、ヤツは嘘を吐き、オレンジフッドを見くびった私たちは愚かにもそれを信じた。
拳を強く握る。隣のエルも顔を伏せ唇を噛んでいる。
「移動だが、家と歓楽街の往復が大半。だが毎晩、妙な場所に通っている」
一週間――オレンジフッドが嫌がらせを始めた頃。
その突出した一か所にズームアップした。湾岸の倉庫地帯の一つ。
「港の中でも特に使われてないエリアの倉庫。所有はDCエンタープライズとかいう海外の海運会社だが、もちろんダミーだろう」
マゼランが細く煙を吐いてにんまりと笑った。手が熱くなり、目頭に力が入った。直感が掠った。
「……それで何が分かった?」
「何もわからん。ただ"妙なコンテナ"を扱っていること以外はな。外見は一般コンテナと同じだが…防音・空調・排水完備の特注コンテナだ」
エルが顔を上げる。その顔は嫌悪感ではなく、睨みつけるような目。
「キャンプ用……とかじゃないの?」
そう聞いたエルにマゼランが煙を吹きかけた。エルがむせて睨んだ。
「お前は高級ホテルを想像してるのか?違う、このコンテナはある業界では有名だ。鉄格子に蓋無し便器、拘束椅子、監視カメラ、催涙ガスの噴射装置まで付いている。どの業界かわかるだろ?」
直感が嫌な方向で当たり始める。これが何を示すのか知りたくもあり、そうでない。
「動物園かな?……さあて」
マゼランはにやりと笑ってアンドロイドを指さそうとしたが、辞めた。
「お前らが、ここで何をやっているか教えろ。金はタダにしてやる」
エルと顔を見合わせる。両手の指を合わせてニヤニヤしているマゼランをよそに、アンドロイドに金を押し付けて部屋を出た。
外に出ると白い視界。
大雨だ、石灰入りの白い雨。その水滴が全てを叩く音で街の喧騒が消える。
端末で天気の情報を見る。明日まで大雨と書かれている。
「ちょうどいいね、ミア」
エルが笑って、ジャケットを頭に被せ、車へと走った。
私もフードを被りその後を追う。
確かにちょうどいい。待つのはもう耐えきれない。
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