3-3

熱源が暗視双眼鏡のレンズ越しに滲む。ぼやけた輪郭の向こうで、静かに座る生体反応の熱。“オレンジフッド”は観察を初めてから大した動きがない。住民もほとんどいないトレーラーパークの夜は静かすぎた。隣には等の昔に閉鎖されたドライブインシアターに産業廃棄物が山となって詰まれていた。

双眼鏡から目を離し、隣に身を寄せているエルと視線を交わした。月明かりが、彼女のまつ毛にほんのりと銀の縁を与えていた。

「……動きはないねぇ。そろそろ行く?」

体を伸ばしながら呟くエルに双眼鏡を手渡す。肘が鉄塔の手すりに当たって、乾いた音が響いた。

「……だな。このまま待ってても埒が明かない」

言いながらも、小さな棘のような違和感が残る。オレンジフッドの目的が見えない。怨恨や依頼を別にして。

とにかく動かない事には始まらない。拳銃を抜いてエルにと目を合わせた。

「私が沸点の低い乱暴者、ミアはクールな殺し屋、で行く?ここならいくら撃っても警察は来ないしね」

エルが双眼鏡を覗きながら、飄々とした声で言う。最初にパニックにさせ、その後に状況を理解させる。小物にはそれが一番だ。

黙って頷き、階段を降りて車に向かう。少しいるだけで身体は砂っぽい。ここは常に砂と錆に晒されている。

「……でも、本当に平気?まだ本調子じゃないんでしょ」

いつになく真剣な声で、エルが見つめた。その視線には襲撃の不安ではなく、単に私を気遣っているようだ。

「……大丈夫、大した事じゃないしな。あと……あのドラゴン・チャウメン、効いた」

冗談めかして笑いながら言ったけれど、頭の中で少しだけ不安が過った。オレンジフッドに対してではない。

「……そっか」

エルは小さく笑って、私の頬に指先を伸ばしかけた。けれどその手は触れる寸前で止まり、空気をなぞるように降ろされた。私たちはしばし黙って、先のトレーラーハウスの灯りを眺めた。

砂の匂いと、鉄塔の鉄の匂い。それが静かに混ざり合い、夜の静寂に溶けていく。

いつも、こうして並んで歩いた――だが、いつなのだろう。それすらできなくなる日は。何も起きなければいいと願ってしまう一瞬。何も起きないはずがないと分かっているが、そんな考えすら贅沢に思えた。

エルと目が合う。……ああ、きっと、同じことを考えている。

「じゃ、行こっか」

エルが笑って車に乗った。私はその笑顔に応えるように、小さく頷いた。

遠くで野太いのクラクションが鳴った。夜の空に、滲んでいくような音だった。

目標までは数百メートル。オレンジフッドになんて聞くか迷っていたが、結局アドリブで行くことに決めた。

トレーラーハウスはかなりボロい。元は白い壁は錆に覆われ、割れたガラスには段ボールが貼られている。庇には穴が開き、階段は歪んでいた。錆びたトタンが風で激しく音を鳴らしていた。こんな環境で眠れるような図太さを持ち合わせているのだろう。

「さぁて、着いたよ」

エルが降りるなりトランクから短いバレルのショットガンを取り出した。慣れた手つきで装填し、数発をポケットに入れた。

「役に入りすぎて撃ちぬかないでくれよ。家具やベッドだけな」

笑顔で頷いたエルは頬を叩いて役に入った。そして、ゆっくりと慎重にトランクを閉めた。その目は凶暴な獣のよう。

「行こうか」

エルが足音を殺して扉の前に立った時、今更だが車がない事に気が付いた。そこに引っかかったが、今は待っていてもしょうがない。

大きく息を吸い込む音が聞こえた瞬間。

「オレンジレッグ!宅配便よ!!」

エルが怒号を上げて、貧相なドアを蹴破り、ショットガンを——。放たなかった。エルの硬直した背中が見える。

「どうした?」

そう言って背中越しに見えたのはオレンジフッドにではなかった。銀色に反射する銃。ぼんやりと見えるスーツ。そしてかび臭い部屋の匂いに混じる無香料のスプレー。

数週間前とあるホテルの最上階で見た女、NOVAの少佐でシルヴィアの旧友――ダリア。

「久しぶりって、言ったほうがいいかな?」

エルの声にダリアは無表情で答えた。想定外の状況は向こうも同じだろう。

「えぇ、お久しぶりです。エルヴィラにミア。あの日以来ですね」

瞬時にトレーラーハウスの外を見渡すも、どこにもNOVAの部隊の姿や気配はない。ダリアは単独だ。

ゼニス・スパイアでも有名なちゃちなチンピラの家にNOVAの将校の訪問。その事実が妙な汗をかかせた。

「こっちは家主を探しに来た。そっちは?NOVAの獲物には到底見えないがな」

「機密なので言えないですが、似たようなものです」

銃が降ろせずに、絵にかいたような膠着が続く。ショットガンを持ったエルの手が僅かに震えているのが見えた。このまま意地を張り合っても同じだ。例え地球と月がひっくり返っても麗軒飯店の嫌がらせにNOVAが関わっているはずがないから。

「…確か、私達は敵じゃないだろ?先日は仕事もして、“共通の知人”もいたはずだ。だから銃を降ろそう。みんな、な」

私が拳銃をホルスターに仕舞うと、エルもダリアもゆっくりと銃口を下げた。僅かだが、静かな息遣いが聞こえる。

「えぇ、その通りですね」

エルはショットガンのストラップを肩にかけ、ダリアも銃を胸にしまった。ダリアが私達にどのような疑念を持ってるか、わからない。だがさっきの姿を見れば、友好な関係には見えないだろう。面倒ごとは避けたい。

「オレンジフッドに友人が嫌がらせされてるんだ、こっちはそのため」

ダリアの灰色の目が鈍く光る。様々な考えを巡らせているところだろうが、これは事実。隠すような事でもないし、シルヴィアに電話すれば、すぐにでもわかる。

「そう、ですか、先に言ってくれて感謝します。ですが私の方は訳は言えません。例えあなたでもね」

そう言って目を細めて口角を少し下げる。その声と仕草で思い出した。シルヴィアにと同じ仕草だ。

「では失礼しますよ」

ダリアは裏口に向かう。

「ねぇ、会わなくてもいいの?」

エルの言葉にダリアは戸口を開けたところで止まる。たっぷりと息を吐いて、裏口から見える車に目を向ける。

「えぇ。あなた達が引いてくれるなら、残りますが」

乗り込み、すぐに重いエンジン音が聞こえた。そのまま凄まじいスピードで砂ぼこりを上げて、出て行った。

戸口に手を掛けて、その姿が見えなくなるまで二人で見送った。

「うーん。分かんない事が増えてくね」

エルが腕を組んでソファに腰かけた。細かな埃が裏口に流れる。

「あぁ、さっぱりだ。聞いてた話じゃ、オレンジフッドってせこいチンピラだからな」

その時、甲高いエンジン音が聞こえた。バイクだ。だが、その音はすぐに止まる。

当然だ。玄関のドアが吹っ飛んでるから。

「エル、あいつ逃げるぞ」

トレーラーハウスを出るとライトが既に遠い。

運転席に座る。一拍遅れてエルが助手席にドアも開けずに飛び込んだ。そのままアクセルをベタ踏みでダートバイクを追う。

道の小さな凹凸の上をタイヤが通るたびに車内が揺れた。未舗装道路はエルの豪華でクラシックなコンバーチブルと相性が悪すぎた。タイヤも滑り、バイクの出した砂埃や砂利が容赦なく車内を襲う。

「ちょろちょろすばしっこいわね。四駆で来ればよかった!」

助手席のエルがイラつく。私もイラついていた。

「あぁ、シャワーも洗車も面倒だ」

小型バイクなのにみるみると離される。バイクが駆けるように進むならば、こちらは空回りしながら進んでいるようだ。

「…あと少しの辛抱だ。ここを登りきれば」

そう、山間の道路。切り立った崖と谷に挟まれ、ヤツに逃げ場はない。そして坂を登ってバイクが道路に飛んだ姿が見えた。

「落ちるなよ、エル!」

砂利道から道路に飛び乗る。車は跳ねて、エルも私も少しだけ浮いて荒々しく着地した。底を擦る音が聞こえ、ミラーから火花が見えた。ここからが本番だ。レッドゾーンまで踏み込もうとした瞬間。バイクが見えない。

「ミア!あそこ!!」

エルの声に反応して目を向けると、つづら折りの道を真っ直ぐにショートカットする光。根性だけはあるみたいだ。

追いたいがこの車では無理だ。そうなら——。

直線に、折れ線で勝つ。カーブまでアクセルを踏み抜き、直前でブレーキを蹴る。ステアリングを振り、反動を付けてアクセルを踏みつぶす。後輪が滑り、そのまま直線に乗る。それがヘアピンカーブを最短で抜ける唯一の方法。

エンジンからのオイルの匂いと熱が直接香る。煙で更に視界が悪化する。エンジン音とスキール音で転げまわっているエルの叫びは全く聞こえない。

だが進む、徐々にバイクに追い付いている。またオフロードに逃げられたら堪らない。

顔が真っ青なエルが戻す前に追い付く。六つ目のカーブに差し掛かった頃、バイクの姿がハッキリと見えた。

「エル!あと十秒だけ我慢だ!」

真っ青な顔が持ち上がると、ゆっくりと頷いた。

七つ目のカーブが終わるとちょうどバイクが見え、そのままスピードを落とさずアクセルを踏みぬいた。

口の開いた男の顔が照らされた。確かにマゼランの部屋で見た顔だ。

そして突っ込んだ。

衝撃と共に男は道路に放り出され、バイクはバラバラになる。男はしばらく転がった。エルはダッシュボードに頭ぶつけたらしく、青い顔のまま赤い額をさすっていた。

「すまん。車、ちょっとぶつけた」

私がそう言うとエルはよろよろと道路脇に歩き、俯いていた。無理もない。私だって助手席だったらああなってしまうだろう。

「乱暴者は私がするよ」

エルにそう言い残し、オレンジフッドの元へ歩く。男も大した傷ではないようで、片足を引きずって逃げようとしていた。

途中、割れたバイクのタンクから光が見えた。

それは小さな発信機――警察がよく使う長寿命のものだ。マークに値する人物であることに驚いたが、ストーカーの前歴がある事を思い出した。

「待てよ、オレンジフッド」

腕を伸ばし、地面を蹴って銃を向けた。

夜の山に甲高い音がこだまして、鳥が一斉に飛んだ。

「お前は誰だ?市警察か?連邦捜査官か?まさか国家情報局じゃないだろうな?」

オレンジフッドは尻もちをついて叫んだ。立ち上がろうとしたので手のひらを下に向けた。

「とにかく俺はポリ公には口を割らねえよ、流儀があるからな。弁護士と医者を呼べ!」

どうやらライトの光で私がよく見えないのだろう。重大な勘違いをしているみたいだが、正す必要もあるまい。

峠道なのは都合が良かった。この時間じゃ誰も通らない。

だからたっぷりと聞いてやろう、レイの店を襲った理由を。後悔するまで聞き出してやろう。

立て続けに三発、弾丸を放つ。股の間、右耳スレスレ、脇腹と腕の間。服と髪の毛が焦げた匂いが一瞬、流れる。

「や、やめろよな、こっちには黙秘権がある!それにポリ公は弁護士と医者を呼ぶ義務がある。呼べ!」

常套句らしく、傷だらけの身体にしてはすらすらと話す。

彼が胸ポケットから端末を出す。本気で掛けるようだ。

銃声、と共にそれを撃ち砕いた。

「わかったよ。とにかく撃つのは、もう止めてくれ。耳がイカレそうだ!」

男は端末の破片で頬を切って、顔には軽く涙を流していた。

「最初からやらなきゃよかったんだ、オレンジフッド」

ため息を吐いて銃を降ろした。峠に強い風が流れる。その風に、少しだけ嘔吐物の匂いがした。

思った以上に時間がかかったが、ナイフを使わなくてよかった。

オレンジフッドは身を抱くようにして涙を流す。コンクリートにはその染みができている。その涙に無性に腹が立った。

レイにはその涙を流す余裕すらない。それをコイツは易々としていた。

「話せ」

頭を撃ち抜く衝動を抑えて言った。

ようやくしゃくり上げながら、男はゆっくりと話した。

「あれは…罠だ、アイツは悪魔だよ。だって未成年じゃないって言ってたんだぜ。確かにすげえ大人っぽいからよ、信じるだろ」

私の頭の中で何か細いものが切れた。今ここで、すぐにオレンジフッドの脳みそを散らしたいが、抑えた。

「違う、二日前だ。ポークヘッドを盗んで、何をした?」

男は急に顔を上げる。目を丸くして、口を開けていた。

「え?飯屋の前にゴミを巻いたことか?確かにやったが…」

悪びれもせずにオレンジフッドは言った。口の中が一気に乾く。血が頭に流れ込む。コイツは何をしたかもわかっていない。

「なぜした?言え。全部」

銃口を再び男の頭に向ける。早く言わないと引き金を引いてしまいそうだ。

「楽しかったんだよ。ゴミ撒いて、悪評書いたらすっかり客がいなくなったからな、ざまあみろってな。頼むから、もう撃たないでくれ」

血が沸騰する。噛みしめると血の味がした。

「たった…それだけか?それだけの理由でやったのか?」

「それだけだよ!!むしゃくしゃしてたんだよ。通りかかった店が繁盛してたから、それでな。だから銃を下」

よくもいけしゃあしゃあと。今度は男から少し離れたところを撃った。もうギリギリは狙えないから。次は絶対に当ててしまう。

どうしてこんなのが生きているんだろうか。どうしようも人間のどうしようもない理由。それだけであの店から客が消えた。レイとヤンヤンの顔も。

ここで怒りに任せて引き金をひけば、それで全て解決する。だが何かが、それを止める。聞き忘れたことがある。

「…脅迫状の数字はなんだ?二二五九だ」

「あ?適当に決まってるだろ。どうせ、どこかのマフィアだとか勘違いするだろ」

男が立ち上がろうとした瞬間。私の背後から低い声が聞こえた。

「もういっか。聞けることなさそうだし」

激しい銃声と共に男の足元のコンクリートが抉れた。プラスチックの落下音。ショットガンだ。破片が当たったのか男は転がり回る。

振り返ると、エル。いつもと違う声、半分閉じた目、結んだ口、少し猫背な姿勢、荒っぽい銃撃。

「私達、考えてたの、犯人をどうしようかなって。私は海に捨てる気だったけど、この子は埋めたいみたい」

エルがゆっくりと前に歩く。いつもの軽いステップではなく、重く引きずるような歩み。

「でもさボートを出すのも、穴を掘るのも面倒じゃん。だからさ、いい方法思いついたの」

その時、コヨーテが遠吠えが聞こえた。それも一匹だけではない。周りを囲むように。

「きっと誰かが餌付けしてるんだろうね。新鮮で傷を負った肉を、ね」

男の顔が引きつる。想像したのだろう、生きながら貪られる自分の姿を。

「そりゃねえだろ、ゴミ捨てて書き込んだだけだぜ。ムショにだって入れられねぇよ」

もう一発。ショットガンが炸裂。今度は僅かに血飛沫が飛んだ。弾の一部が腕を掠めた。今度は暴れまわらない。

「わ、わかった。何すりゃいい?何でも言うこと聞くからよ!」

「じゃあ、街を出て、今すぐ。家にも二度と戻るな」

エルの声にオレンジフッドが頷くと片腕を抑えて、足を引きずりながら坂を駆けて行った。その後ろ姿、靴下が見えた。

オレンジ。

これで解決。

その時、ふと、ダリアの顔が過った。彼女もこの男に用があったはずだ。NOVA…いや、彼女もこの男を追っている理由がなぜだか知りたい。

「おい」

私の声にオレンジフッドは振り返った。

「他に何をやらかした?」

「くたばれ!クソアマ!!」

男はそう言い残してライトの外へ消えた。

どうしようもないチンピラだ。見るに堪えない。だが、そんな人間でも二人の笑顔を奪える。何の苦労もせずに。NOVAにも、ちょっかいをかけたのだろうか。倉庫泥くらいが関の山だろうが。

エルの顔は相変わらず違う。声も掛けられないが、しんどい事くらいはすぐにわかる。

「ミア」

エルの声が急に優しくなる。するとエルが膝から崩れ、瞬時に肩を貸す。

「大丈夫か?エル」

俯いたまま頷いた。無理もない。予期せぬ遭遇もあったし、あの運転に耐えて、その状態でオレンジフッドまで尋問した。それも完璧に。

エルの身体は重く、呼吸は少しだけ荒い。体温もいつもよりも低い。長いまつ毛がゆっくりと動いている。

シートに座らせようと向き合うと、エルは重い口を開いた。

「ごめん」

その目は潤んでいる。眉は下がって、頬は僅かに紅潮し、唇が濡れている。それを見て少しだけ強く鼓動した。

理由を聞こうとした、その瞬間。

「……もう無理」

口から全てが溢れだした。それが私の胸を濡らし、あまり心地良くない重みと温かみ、そして匂いがした。

止められない、そして今は待つしかない。私が手を離すとエルはこれに沈む。あまりにも無情、だから耐える。

ウェットシートは積んでいたか、服はどうしようか、近いモーテルはどこなのか、それを考える時間にしようと思った。だが次々に胸に押しかかり、腹から股、更にブーツの中に入る生ぬるい感触がそれを遮る。

遠吠えが近くから聞こえた。

来るなら来い、そしてどうにかしてくれ。

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