第1話 凍てつく街への進軍


1942年10月27日。


午前四時半。


 東の空はまだ黒く沈み、灰色の煙だけが街の上に浮かんでいた。

我々第389歩兵師団の小隊は、工業地帯の西側、住宅街の境界に展開していた。

最早、街と呼ぶにはあまりにも凄惨。

建物の半分以上は瓦礫の山と化し、

道という道は崩れた煉瓦と半ば凍りついている死体で埋まっている。


 私は少尉クラウス・エッケルト。士官学校を出て半年。

机上で何十何百と習った「市街地戦術」は、ここでは何の役にも立たなかった。

壁の影にはいつも敵が潜んでいる。

そして、煙の向こうには死がある。

それがこの街の掟だ。


背中のMP40が歩調に合わせて揺れる。


右手にはKar98k、固定弾倉の残弾は4発と薬室に1発。


左腰のホルスターには準備万端なルガーP08。


だが、使いたくはなかった。

これは最後の手段だ。


腰のM24柄付手榴弾は2本。

金属の冷たさが手袋越しに伝わってくる。

小隊の先頭を歩くのは、ヘルマン伍長だ。

彼は元炭鉱夫で、私より10歳は年上。

彼の手には泥と油が染み込み、銃を握る姿が恐ろしい程に自然体そのものだった。

彼がふと振り返り、短く言った。


「少尉殿、煙が濃くなってます。向こうで燃料庫が燃えてるかもしれません」


私は頷いた。

声を出すのもためらうほど、空気が重かった。

やがて視界の先に、崩れかけた住宅が並ぶ細い路地が見えた。

その向こうには、工業地帯の巨大な煙突が、

闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。


風は東から吹いてくる。

焦げた油と硝煙の臭い。

私は知らぬ間に息を止めていた。


「あそこが……持ち場ですか」


先の新兵、フェルナーが呟いた。歳はまだたったの18。

彼の目にはこの街が“戦場”ではなく、

まるで別の惑星かのように映っているようだった。

私は静かに答えた。


「そうだ。ここが我々の地獄だ」


その瞬間、遠くでソ連軍の砲撃が始まった。

爆発の光が夜を裂き、住人のいない数多の民家を気味悪く照らした。

大地が震え、崩れた建物の壁がまたさらに崩れる。

フェルナーが思わず身を伏せる。

私は肩を掴み、低く叫んだ。


「落ち着け!まだ、まだ距離がある!」


頭上を鉄片がかすめた。

風が焼け付くような音を立てる。

心臓が暴れるように脈打つ。

だが、足は止まらなかった。

戦線で歩兵は、隊は、止まれば地に骸を晒す。

それを私は、ここに来て初めて体感で理解した。


 夜が明け始める。

瓦礫の隙間から、冷たい光が射し込んでくる。

私たちは住宅街の影へと滑り込み、崩れた壁の裏で息を整えた。

遠くの煙の向こうから、銃架の上でふんぞりかえるマキシム重機関銃の音がした。


その音は、これから始まる終わりの合図のように聞こえた。

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