第31話 大学キャンパスの昼下がり

 秋の柔らかな陽光が差し込む教室。

 大学の講義棟の窓際に座りながら、藤堂遼は大きく伸びをした。

 黒板には「経済学概論」と書かれているが、教授の単調な声は子守歌のように心地よく響き、学生たちの半数はすでにスマホか夢の中に没頭している。

(……眠い。ダンジョンで徹夜気味だったせいだな)


 前日の研修帰りで身体はまだ重く、まぶたが勝手に落ちてきそうになる。


「……ほら、起きてなさいよ」

 隣の席から小声が飛んできた。

 肘で突いてきたのは白石亜里沙。

 栗色のセミロングが肩で揺れ、ぱっちりとした瞳が少し怒っている。


「寝たら単位落とすよ。私のノート写させないからね」


「いやいや、ちゃんと起きてるって。ちょっと目を休めてただけ」


「それを“寝てる”って言うのよ」

 頬を膨らませてノートを取る彼女の姿に、遼は思わず苦笑した。

 子どもの頃から何度もこうして世話を焼かれてきた。

 その横顔が、子どもの頃から変わっていないことに、遼は小さく笑みを浮かべた。

 面倒見がよく、気が強くて、そして優しい。

 “幼なじみ”という言葉だけでは括れない存在。

 ――だが、、今の彼女はただの学生ではない。同じ探索庁の候補者――

 現実と日常の境界を歩く、同じ“もう一つの世界の人間”だ。

 それを思うと胸の奥がざわついた。


(……なんでだろうな。ダンジョンで命張ってるときより、今の方が緊張してる)


 そう思って目を閉じかけた瞬間――。


 「……遼?」


 亜里沙の声が遠くで揺れた。

 耳の奥に“ノイズ”が走る。雑音の中に、微かに人工的な声。


 《観測対象F-07、波長安定。》  《異常反応なし。記録継続――》


(……今、誰かが喋ったか?)


 思わず顔を上げたが、周囲は静かだった。教授も、学生も、誰も異常を感じていない。

 ただ、遼の心拍だけが小さく跳ねていた。



 講義が終わり、昼休み。

 キャンパスの中央の食堂は、いつも通りの混雑ぶりだった。

 電子メニューに並ぶ「日替わり定食」「唐揚げプレート」「チーズカレー」。

 どれも学生らしいボリュームで、どれも同じ味に感じるのが大学生の宿命だ。

 遼は列に並びながら、大学という“現実”にまだ戻りきれない感覚を引きずっていた。


「……やっぱり大学の学食は落ち着くな」


 トレーを持って席につき、深呼吸をひとつ。

 昨日まで剣と魔物と血の匂いに包まれていたことが嘘のようだ。

 まるで別世界。


「――遼!」

 背後から聞き慣れた声。

 振り返れば亜里沙が駆け寄ってきて、当然のように隣へ腰を下ろした。

 彼女のトレーにはサラダとオムライス。

 健康志向なのか、いつも栄養バランスを考えている。


「ほら、ちゃんと野菜も食べなよ。昨日もカップ麺だったでしょ」


「バレてるな……」


「当たり前。幼なじみ何年やってると思ってるの」


 笑いながらも、心配そうな目を向ける。

 その優しさが、遼の中でほんの少し痛かった。


「ねえ、あんた最近ちゃんと寝てる? 目の下クマひどいよ」


「……まあ、ちょっとな」


「ほら、お茶。カレー辛いでしょ」

 差し出されたペットボトルを受け取りながら、遼は思わず頬を緩める。

その時。


「ここ、空いてる?」

 ふいに落ち着いた声が頭上から降ってきた。

 振り向けば、香坂 真琴(こうさか・まこと)がトレーを手に立っていた。

 黒髪を高く結んだポニーテールが肩越しに揺れ、切れ長の黒い瞳が真っすぐに遼たちを見据える。

 その視線は冷ややかというより、研ぎ澄まされた刃のようで、周囲のざわめきが一瞬遠のいた気がした。

 シンプルなシャツにジャケットを羽織っただけの服装なのに、長身としなやかな体躯が映えていて、モデルのように場を支配している。

 淡々と席の有無だけを確かめていた。


「ま、真琴さん……!」

 亜里沙が思わず姿勢を正す。

 明るい笑顔の裏に、どこか緊張が走っていた。


「えっ、せ、先輩!?」

 遼の声が裏返る。


「何? 驚きすぎじゃない。ここは私の通ってる大学でもあるのよ」

 真琴は控えめに笑い、正面の席に腰を下ろした。  

 その仕草は自然で、周囲の学生たちの視線が一瞬集まる。


「……ふーん」

隣の亜里沙がじっと見つめる。


「遼、どういうこと? 研修で一緒だった人?」


「あ、いや……」

遼が言葉を探す前に、真琴がさらりと答えた。


「彼とは探索庁の研修で同じ班になったの。……頼りないところもあるけど、いざという時は動ける男よ」


「へぇ……そうなんだ」

亜里沙は頬を引きつらせ、視線を遼に戻す。


「(ちょ、待て……なんで俺が矢面に……!)」

 遼はスプーンを握ったまま固まった。

 食堂の喧騒の中、三人のテーブルだけが微妙な緊張感に包まれる。


「あなたが幼なじみの白鳥さん?」

 真琴が亜里沙に視線を向ける。


「そうですけど。それが何か?」


「ううん。遼の話に出てきたから、少し興味があって」


「……遼の話に?」


「研修のとき、よく“幼なじみがうるさい”って言ってたのよ」


「ちょっ、ま、待って! それ誇張です!」

 遼の慌てた声に、亜里沙はぷいっとそっぽを向く。


 真琴は小さく笑った。

「冗談よ。でも、あなたは良い人ね。……遼は恵まれてる」

 にこやかに言う真琴。

 だがその言葉の裏に、わずかな棘を亜里沙は感じ取った。


「恵まれてるかどうかは本人次第じゃないですか?」


 亜里沙の返しには棘があった。

 真琴はその変化を見逃さず、目だけで微笑む。

「そうかしら。……でも私は、彼に救われたことがあるわ」


「っ!」

亜里沙の瞳が揺れる。


「遼、あんた……何それ、どういうこと?」


「いや、えっと……!」

 突然の追及に、遼はスプーンを落としそうになる。

 真琴は落ち着いた表情で続けた。


「危険な場面で、勇気を出してくれたのよ。……それだけ」


「……ふーん」

 亜里沙は口を尖らせ、オムライスを突き刺すように食べ始めた。

(やばい、これ完全に火花散ってる……!)

 遼は心の中で悲鳴を上げつつ、カレーを口に運んだ。

 味がまるで感じられない。



 午後のゼミ室。

 教授の話が続く中、遼はノートを取りながら隣の亜里沙に小声で話しかける。


「なあ、さっきの真琴先輩のことなんだけど……」


「別に。何も気にしてないし」

 明らかに気にしている声色だった。


「……完全に気にしてるよな?」


「気にしてないって言ってるでしょ」


「いや、ほんとに大したことじゃ――」


「だったら、私に隠さないでよ」

 亜里沙は視線を合わせずにノートを走らせる。

 遼は苦い顔をしながらペンを回した。

 講義が終わり、帰り際。

 遼と亜里沙も立ち上がろうとしたそのとき、教室の入口で見慣れた影が待っていた。


「ねえ、遼。少し時間ある?」


「え、あ……」

 答える前に亜里沙が割って入る。


「遼、今日は私と一緒に帰るよね?」


「えっ、あ、いや、その――」

 二人の視線が交差した。

 まるで電流が走るような瞬間。

 学生たちが通り過ぎる中で、三人だけの小さな戦場が生まれていた。


 真琴が一歩前へ出る。

「白鳥さん。あなたが彼を守るって言ってたわね」


「ええ。私がいないとこの人、絶対無茶するから」


「……それは頼もしいけど。彼は、誰かに守られるタイプじゃない」

 真琴の瞳にわずかな光が宿る。

「――彼自身が、誰かを守る側の人間よ」


その言葉に、亜里沙の胸がざわめいた。

 視線が揺れ、唇が震える。


「そんなの、本人が決めることです」


「そうね。でも、私は見たの。彼が恐怖を超えて動いた瞬間を」


 静かな声。だが真っすぐで、何よりも“本気”だった。


 沈黙の数秒。

 遼はどうすればいいか分からなかった。

 心臓が痛いほど鳴っている。


(どっちも俺のことを見てる……けど、俺は……)


 亜里沙は頬を膨らませた。

 夕暮れの光が廊下を染め、三人の影を長く伸ばした。


 学内の廊下で、妙な三角関係の空気が漂っていた。



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ダンジョン・ブレイク〜スキルコピーするだけで最強の俺、ダンジョンで恋も奪う 源 玄武(みなもとのげんぶ) @123258

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