一足一刀の間合い
雨季
第1話「パソコンと僕」
それは、ひどく疲れた日の夜だった。
ここ数か月は、日付をまたぐほどの仕事を背負い、帰りはいつも夜中の1時だった。
そんな毎日に辟易していた僕。
家に帰ってもセルフケアをする元気さえも怪しいくらいの体力で、自分のご機嫌を取る暇はなかった。
思考の9.5割を仕事、残り0.5割は退職を考えながら日々をこなしていた僕に、ささやかな幸せが訪れた。
今日はなんのトラブルもなく、仕事が順調に進んでいる。
時計に視線を向けると、16時。
久しぶりの定時退社の予感にワクワクしながら、パソコンのキーボードを叩いた。
あと、一時間、一時間経てば・・・マイホームに帰れる!
業務終了30分前・・・そんな僕のささやかな幸せが部長の肩たたきで打ち砕かれた。
「明日会議で使う資料作成・・・明日までにって、ふざけてんのかよ・・・。」
整髪剤で整える余裕のないボサボサの頭を掻きむしりながら、パソコンの画面を睨んだ。
今日も・・・定時で帰れない。
期待した分だけ、絶望は大きい。
どこかのアニメで昔、そんなことを言っていたっけ・・・。
深夜1時、ため息交じりに僕は自宅の玄関の扉を開けた。
「やっと・・・帰れた・・・。」
いつもと変わらない日常・・・。
僕は玄関にうずくまり、目を閉じた。
このまま寝てしまえば、明日の朝にはいつも通りの仕事が待っている・・・。
「なんか・・・嫌だな・・・。」
出迎えてくれる家族も居ない家の中、僕はポツリと呟いた。
せめて・・・嫁さんでも居れば・・・こんな変わりのない毎日も変わるのかな・・・。
仰向けに寝転んだその時、仕事で忙殺されるまでは頻繁に使っていたノートパソコンが視界に入った。
「パソコン・・・。」
呟いた瞬間、可愛い嫁さんがあったかいご飯を用意して家で待っている未来が何故か見えた。
「自分から、未来を変えに行かないと、何にも変わらない・・・。」
固唾を呑み込み、僕は匍匐前進で埃を被っていたパソコンへ向かった。
平成のこの時代・・・出会い系の印象は良くなかった。
けど、こういうことでもしないと、こんな忙殺された日々にピリオドを打つことはできない。
そう思い、僕はパソコンの電源ボタンを押した。
パソコンはここ最近使っていなかったせいもあって、なかなか画面がつかなかった。
やっとついたと思ったら、いつ終わるかわからない更新画面が表示された。
クッソ!
拳を机に落として僕は頭を抱えた。
暖かい家庭が築きたい・・・そんな夢さえ見たらいけないのか?
奥歯を噛みしめて、僕は怒りを抑え込んだ。
時計は2時を指している。
明日もいつも通り7時にこの家を出なければいけない。
こんなことをするよりも、早く寝て出勤に備えなけれ・・・。
でも・・・かわいい将来の嫁さんが・・・僕のことを待っているんだ。
パソコンが僕の行く手を阻もうとするなら、僕は立ち向かうだけだ!
両腕を胸の前で組んで、デスクトップが開くのを待った。
その間を無駄になんかしちゃいけない。
将来のお嫁さんに向けたラブレターを考えなければ!
近くにあった紙とシャーペンを手に取り、まだマッチングもしていない嫁さんに向けた愛のメッセージを僕は書き始めた。
「初めまして・・・。」
そこまで考えた所で、顔から火が噴くんじゃないのかと思うくらい、恥ずかしくなった。
この人生で自分から告白はおろか、女の人と付き合ったことなんて一度もない。
どんな距離感で文章をしたためれば良いのかなんて、まるで分らない。
両手で頭を搔きむしって、パソコンの画面を見るが、まだ更新中のままだった。
やっぱり・・・これは、まだ婚活準備ができていない神様から僕への戒めだったんじゃ・・・。
そう思うと、ため息が出てきた。
部屋が明るい。
顔を上げてみると、カーテンから朝日が差し込んでいた。
ガラパゴスケータイに視線を向けえ、僕は息を飲んだ。
最初に変える世界は、こんな突拍子のないことからじゃない。
変えないといけないのは、今この現状だ…。
どんなに批判されたって、僕は未来の幸せを築かないといけないんだ!!
そんな思いを胸に、会社へ休みの電話を入れた。
入社してから一度も遅刻や欠勤をしてこなかった僕だ。
かなり緊張したが、電話口から聞こえる罵声を子守唄のように聞き流して、電源を切った。
そして、本腰を入れて婚活に励むためベッドへ寝転んだ…。
一足一刀の間合い 雨季 @syaotyei
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