第3話 午後十八時三十五分

 差出人 綿谷わたや はな

 件名 ご相談の件、少しお時間よろしいですか?


 心拍が一拍、空転する。呼吸を整えようと肺に空気を入れる。しかし酸素は喉の奥で逆流し、鉄の味を残して消えた。

 指先が──資料の埃を感じていたその指先が──やるべきことがわかっているというのに凍り付くように動かなくなる。


 辛うじて下げた目線に見える本文プレビュー。たった二行だけ浮かび上がる。その内容は。


 加瀬かせくん、お疲れさまです。

 頑張っているみたいですね。お急ぎのようなので──


 綿谷の後押しでプロジェクトは目覚ましい成果を上げ、塚本つかもとは自身の計画通り管理職の椅子に納まった。


「こき使われた分、今度は俺が加瀬さんを使って稼ぎますよ」

 ──半分冗談、半分本気のその宣言どおり、彼の企画した次期プロジェクトに俺もプレーヤーとして名を連ねている。


 昼下がりの新部署フロアは、間接照明のやわらかな色に満ちていた。旧オフィスの蛍光灯よりずっと目に優しい。窓際に置かれた観葉植物の葉が微風に揺れ、周囲からキーボードを打つ軽快な音だけが重ならない距離感で聞こえてくる。

 別部署との折衝を終えた塚本の手が空くタイミングを狙い、俺はシュタイヤーにレポートの要約を指示し、レビューコメントを添えて即座に送信した。


『六時間ほど稼働し続けていますね。少し休憩を取りませんか』


 モニターの隅に現れたメッセージを読んで、素直にPCをロックする。背中から腰へプチプチと気泡が弾けるような鈍い音が走り、血の巡りが逆流する感覚に思わず小さく息をついた。

 ──無理はするが、無視はしない。新プロジェクトを始めるにあたって決めた言葉が脳裏に過る。


 腕時計を確かめる。十五時丁度。

 この後は綿谷とのミーティングが控えている。鏡越しに無精髭を撫で、上着の皺を伸ばす。以前なら気にもしなかった身だしなみだが、AIに委託できる気遣いにも限界はある。


 シャワールームで冷水を浴び、顔を撫でるカミソリの金属音を聞きながら、カミソリ負けをしなくなったことにふと気づく。

 小さな変化だが、体調は随分とよくなったのだと実感する。


 十五分後。

 ブラインド越しに午後の日差しが射し込む会議室へ入ると、綿谷はすでに席に着いていた。淡いグレーのスーツに小ぶりなイヤリング。以前と変わらぬ端正な佇まいだが、その笑みはどこか柔らかい。


「相変わらず時間厳守ね、加瀬くん」

「シャワーだの髭剃りだのをしろと言ったのはそっちだぞ」

「拗ねないの。もうすぐ塚本くんが送ってくれる子たちが来るでしょ。せっかく加瀬くんを支えてくれるんだから、大切にしないとね」


 言葉を交わすたび、胸の内側で長い緊張がひとつずつほどけていくのがわかる。

 ガラス壁の向こう、ひときわ明るい執務エリアを横切る塚本が見えた。タブレットを抱え、部下ふたりに指示を飛ばしている。

 背を伸ばして歩く彼の肩越しに、自分が選ばなかった道が見えて目を細める。


 その塚本がドアを開けた。


「お疲れさまです! 資料、最新版です」

「助かった」

 塚本の提出された情報には、必要十分な資料を元に論理的な推論と説得力のある結論が記されている。要点は適切に色分けされ、余計な装飾がひとつもない。


「よく仕上げた」


 短く告げると、塚本は白い歯をこぼしながらも、綿谷へ視線を送る。綿谷が微笑みながら自らの腕時計を指でつつくと、塚本は真顔になって声を上げた。


「では、本日のミーティングを開始します」


 会議室のスクリーンに次期共同プロジェクトのロードマップが映し出される。青と緑のマーカーが並ぶその図面を、三人で同時に見上げた瞬間。胸の内で何かが「トン」と定位置に収まったような手応えがあった。


「ではアジェンダに沿って確認します」


 塚本がレーザーポインタで青のガントチャートを指し示す。

 スライドが切り替わるたび、綿谷が要所を確認し、俺は塚本に質問をする。塚本がテキパキと回答する分、議論はテンポよく深まり、会議室に漂う空気がわずかに温度を上げる──熱気ではなく、心地よい前向きさによって。

 最後のスライドが消え、塚本がタブレットを閉じる。


「自分からは以上です。フィードバック、お願いします」


 緊張を隠しきれないまま、彼は俺と綿谷を見比べた。


「はい。お疲れ様。わかりやすい説明をありがとうございました」

「充分だ。細かい詰めは現場でやろう」


 俺が短く応じると、綿谷はにこやかに頷く。俺たちの反応を確認した塚本は空気が抜けたように肩の力を抜いた。


「これで上役も交えた会議もなんとかなりそうっす。ひゃー。いや、意思決定者になるって大変ですね」

「管理職って大変よね。残業代出ないし。どう? 今からでもこき使ってあげようか」

「勘弁してくださいよ、ホントにもぉ」


 二人の談笑を背中に受けながら自分のデスクに戻って作業に戻る。いくつかのタスクを片づけると、ポケットの端末が震え、シュタイヤーの控えめな通知音が鳴った。


『本日の目標タスクが完了しています。退勤を推奨します』


 わかっている、と心の中で返し、画面を伏せて電源を落とす。

 ミーティングを終えて会議室の外へ出ると、夕暮れの光に満たされた廊下はまだ明るい。窓際の植物が揺れ、どこかでプリンターが紙を吐き出す短い音がする。残業する連中はこれからが正念場だ。


 エレベーターホールに向かいながら背伸びをすると、背中の骨が乾いた音を立て、体の奥に新しい血が巡る。

 ロビーを抜けると、街は早い夏の夕立を前に黙ったように静かだった。雲間から射した一条の陽光が舗道を切り取り、ビルのガラスに反射して煌めく。

 深く呼吸を吸い込み、吐きながら目を閉じる。頬を撫でた風が、どこか遠くへ背中を押していくようだった。

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社畜・Ver2.0 柏望 @motimotikasiwa

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