なゆたの旅路
もしくろ
プロローグ
全ての行く手を阻むかのように連なりそびえ立つ山脈があった。
雲ですら頂上を飛び越えることは叶わないような天頂の、その合間の小さな尾根にて。雪が汚れを全て覆い隠し白く清廉な世界を造り出している。張り詰める冷気も、星々の瞬く夜空も、全てが澄み切っており、悪しき者も醜い者も存在しないかのようだった。
だが、日頃なら誰も踏み入れないはずのそこに、今は点々と足跡が残っている。山に慣れた獣のように規則的ではなく、左右にまろび手を突き、月下の白銀世界を汚すかのように先へ先へと続いていた。
その先端――次々と無様な足跡を作りつつ懸命にいるのは一人の娘だった。
「はあ、はあ……っ」
麻の簡素な服も、そこからのびるしなやかな褐色の四肢も、泥と雪にまみれている。髪を振り乱し、浅い息を繰り返し、必死の形相をして、その娘は雪中の逃亡を続けていた。
時折背後を仰ごうとするが、半分ほど振り返ったところで見るのが怖いという風にぎゅっと目を瞑り、結局前を向いて尾根を走り続けていた。
彼女がそこまでして走り続けるのにはむろん理由があった。追跡者だ。
二人の男が、娘の足跡を辿り彼女に迫りつつあった。雪中での行動に慣れているのか、滑落することもなく着実に距離を縮めていく。あと少しもすれば娘は追跡者に追いつかれる目算だった。
「面倒を起こすな。悪いようにはしない」
男の一人が声を張り上げる。尾根を滑るように上り、その言葉が娘に届く。だが同意するはずもなく、娘は死にものぐるいで尾根の頂点へと到達し、国境を越える。
山脈を挟んだ向こう側は、奴隷商人など居ない水と森に囲まれた穏やかな国のはずだった。だが、少女の希望はそこで簡単に打ち砕かれる。
「そんな……」
尾根を登り切った娘に、強い風がぶつかる。髪がちぎれて飛ばされそうなほどなびく。
呆然と立ちすくむ彼女の眼下には――断崖のようになった山の急斜面があった。雪すらとりつくこともできないような険しい岩肌は、娘の裸足もぼろぼろの指も受け止めてくれそうになかった。
「……手こずらせやがって」
「ひっ」
至近距離で、追っ手の声がした。振り返ると、二人の男がすぐそこまで迫ってきていた。子供を攫い他国へと売り飛ばす奴隷商人の手下達だ。
男達は揃って濁った目をしており、容貌は違うというのに、一目見ただけでは見間違えてしまいそうなほど雰囲気が似通っていた。
「戻ったら、鞭百回だ。二度とこんな真似ができねえように躾けてやる。言葉は分かるな? 百回、叩いてやるからな」
そのうちの一人がそう言って、一歩を前に踏み出す。もう手を伸ばせば捕まってしまいそうだった。せっかく目を盗んで逃げてきたのに。自由になれるはずだったのに。この先に、自由があるのに。絶望が少女をしっかりと包み込んだ。
つかの間の自由が、終焉を告げようとした、そのとき。
「やっ――」
娘は半ば無意識に一歩を後ずさりして――虚空を踏んだ。
一瞬の浮遊感の後、滑落。
岩に身体を強かに打ち付け、全身が砕けるような痛みで満ちる。視界がぐるぐると回り、呻きも祈りも吐くこともできず肺の空気が全て出て行き――やがて限界を超えた苦痛に押し潰されるように、娘の意識は閉ざされた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「どうだ?」
「……血だらけだ、もう駄目だな」
「拾えそうか」
「いや……」
尾根のギリギリに立って下を覗き込んでいた男が、首を横に振りながら身を退く。
そのはるか下、少しだけ傾斜がなだらかになっているところに、岩場を跳ねるように転げ落ちていった娘の身体が投げ出されていた。四肢を力なく広げ、ぴくりとも動かない。服はどす黒く濡れ、布地で吸収しきれなかった赤黒い血が岩場に拡がりつつあった。
「だが手ぶらで帰ったら俺らが叱られる」
「じゃあおめーが降りてみろよ」
もう一方の、言われた方の男がおずおずと首を伸ばして崖下を見やる。だがちょっとやそっと降りたところで届きそうにないことを身をもって悟り、嘆息しながら肩を竦めた。
「仕方ねえ、正直に言うしかねーだろ。落ちて死にましたってな」
「はぁ。しばらく突かれるだろうな。頭領さまときたら一つでも商品が欠けたらご機嫌斜めだからな。元々拾いもんだったってのに」
「こうなっちゃできることもねーだろ……戻るぜ。次また一人多く仕入れりゃいいだろ」
「ああ」
奴隷商人達は自由を求めて落ちた哀れな娘のことなど全く気にかけず、ただ自分達に降りかかるであろう上司の折檻を思い途方に暮れながら、足跡が示す道筋を戻っていった。
そして、血まみれの娘が一人、取り残された。強い風に吹かれ、ただ朽ち果てるのを待つように――
「……もう、帰ってこないかな。起きていいよ」
「――っ」
その合図に従い、娘は飛び起きる。
まず両手足がちぎれ飛んでいないことを確認し、全身をぐっしょりと濡らす血が自分のものではないことを改めて確認した後、視線を跳ね上げた。
その先には、傍らの岩に隠れていた声の主――ふわふわの栗毛をしてへらへらとこの場にそぐわない笑みを浮かべている青年が佇んでいる。
「怪我はない? というか俺の言葉ちゃんと通じるかな……?」
言われてから手足の具合を確認すると、どこも動きはするものの、痺れや痛みでまるで自分のものではないようだった。
「……痛い」
娘がそう言うと、青年はくすくすと笑う。
冬の山の中腹であるにも関わらず、彼はまるで麓で夏を過ごしているような軽装をしており、奇妙な雰囲気をしている。
「まあ、そうだろうねえ。あれだけの高さから落ちれば」
「……あなた、何なの」
娘は信じられないという風に首を横に振る。
その視線は青年の持つ刃物と、その刃がつい先ほど切り裂いた青年の首筋を往復していた。元は白っぽい色だったはずの青年の服は、今やどす黒く染まっている。その首からは変わらず血が滴り続け、ぽたぽたと足下にまで落ちている。
「俺は、ナユタだよ」
「そ、そうじゃなくて!」
ナユタと名乗った青年に、娘は抗弁する。血で塗れた自身の胸元を示し、叫ぶように言う。
「何で、こんなことを!」
「何でって、こうすれば君が死んだみたいに見えて今の追っ手の人たちが諦めるから」
――娘の身体をしとどに濡らしている血は、全てこの青年、ナユタのものだった。
崖を滑落しこの岩場に投げ出された娘に、この男がどこからともなく現れた。そして「じっとして」と言いながら小刀で自身の首筋を切り裂き、物陰から、まるで彼女が出血したかのように血を注いで彼女の死を偽装したのだ。
「でも、あなたが……!」
泣きそうになりながら娘が言うと、血を流し過ぎたせいかついに蒼白になり始めたナユタは苦笑する。
「大丈夫、もうすぐ死ぬから」
「死……っ!?」
平然と放たれた残酷な単語。いよいよ悲壮な顔をする少女に、しかしナユタは笑いかける。そして、
「見てて」
刃物を握り直し、再び自身の頼りない首に添えた。
「見てて……って……やめて、死なないで!」
娘が言うことをきかない身体を何とか持ち上げて制止する前に――その刃はナユタの首筋を再び切り裂いた。
プシュ、と新たに血が噴出した後、まるでその一瞬で人形と化したかのようにナユタの目の光が失われ、ぐらり、とゆっくり傾いた後、岩場に崩れ落ちた。
一瞬の静寂の後、
「いやぁああ――――!!」
娘は、絶叫した。
目の前で人に死なれた。その事実で我を失い喚くことしかできなかった。下手をすると追っ手に再び生存を知らしめかねない行為だったが、それでも今の彼女にはそうすることしかできなかったのだ。
肺の空気をすべて叫んで追い出したあと、両手で顔を多い嗚咽混じりに泣き喚く。信じられない事態の連続で彼女が正気を失いかけた、そのとき。
「そんなに騒いだら山の向こうまで聞こえちゃうよ、静かに」
「!?」
飄々とした声。弾かれたように顔を上げた娘が見たのは――
「ひっ……ば、ばけもの……?」
「そ、ばけもの。でもナユタって呼んで欲しいな」
つい先ほど、死んだはずのナユタという青年が笑いながら立っている光景だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
目を覚まして最初に視界に入ったのは、粗末な天井だった。不規則に並んだ木の板の隙間から。黒い夜空が垣間見えている。
「!」
気を失う前の状況を思い出し、娘は飛び起きる。
すぐさま全身に激しい痛みが再来する。とくに落ちて最初に岩肌にぶつけた左肩がちぎれそうなほど痛んだ。思わず体を丸めて呻いていると、
「おおい、大丈夫かい」
のんきな男の声がした。
娘が歯を食いしばって痛みを逃がしてる横に、先ほど謎の自刃を遂げた栗毛の青年、ナユタが側に来ていた。
そこは薄暗い小屋のようだった。板を壁や屋根として貼り合わせて建物の形を為しているものの、見るからに素人の仕事で、外に居るのと変わらないほど風が抜け、どこかにある明かりの炎が揺れ、壁の影がせわしなく揺れている。
娘は地面に藁を敷き、その上に寝かされていたようだった。ナユタは横に膝をつき、彼女の背を支えてくれた。
「左腕と、足もたぶん折れてる。動かないほうがいいよ」
言われてからようやく、それらに当て木をされて布でぐるぐると巻かれているいることに気づく。手足の他の傷にもそれぞれお世辞にも美しいとは言えないが手当てらしきものが施されていた。
「……っ」
やがて頭が冷め正気を取り戻した娘が一瞬身を強ばらせる。
自身が気を失う直前の出来事を思い出したのだ。このナユタという男は、首を掻き切って死んだはずだった。
だが、今こうして自分を支えている青年の首には傷のひとつも無く、それどころか服を染め直すかのように滴っていた血の一滴も残っていない。そして、彼の血でびしょびしょになっていたはずの自分の服すらも乾き元通りになっていた。娘は事態が飲み込めないまま目を丸くする。
「あれ……? え?」
「ふふ、だから大丈夫って言ったろ」
得意げに笑うナユタ。子どものような、人懐っこい笑みだった。
疑問に思うべき事象は空の星ほどあったが、その笑みを見て、背を支えてくれている腕の暖かさを感じて、娘は質問をするための気力がなんだか萎えてしまった。そうしてぼんやりとしていると、やがてナユタが顔を覗き込んできた。
「ね、君の名前は?」
「……アイ」
「アイちゃんかあ。見たところ、人攫いから逃げてきたってところ?」
「うん……」
「そうか。無事でよかったねえ」
呑気な声だった。助けて貰ったにも関わらず無性に腹が立ち、少女アイは唸った。
「……あなたは、何なの」
「ナユタっていう人間だよ。死にそうになったら、傷が治って元通りになる人間。たぶん」
「多分って……」
「じゃあ堂々と人間って名乗ってもいいかな?」
「…………」
「ほらねー」
アイが黙ってしまうと、ナユタは別に気を悪くした様子もなく苦笑していた。
「……あなたの他にも、こんな人……いるの?」
「俺が知ってるのは一人、これを見世物にしてる人がいるってのは聞いたことがあるよ。東の砂漠の方で」
「……そう」
少しの間黙りこくってアイは俯く。
ふいの静寂が訪れると、生きているという実感とともに強烈な里心が去来した。雪など冬でも滅多に見ない穏やかな国で、太陽をめいっぱい浴びて果物を育て両親と兄弟でのびのびと暮らしていた、永遠に続くはずだった幸せな日常。
だが、西世界から持ち込んだ子供達を好事家の金持ちへ売り飛ばした帰路の奴隷商人が、街での行商の帰りで通りすがったアイに目をつけた。今度はこちらの子供を西世界へ連れていき試しに売ろうとしたのだ。
いつの間にか後をつけられ、薄暗い路地を抜けようとした際につむじ風のように追いすがり身体を掴まれた。
そのとき石畳にこぼれ落ちていった果実のことが、なぜだかずっと頭から離れない。そして、送り出してくれた両親のことも、そして街で焼き菓子を買ってきてくれと頼んできた弟のことも。
元々は肉付きの良かったアイだが、商人達の粗末な扱いで今やすっかりやせ細り、そのおかげで縄から抜けて逃げ出すことが叶った。だが、幸せに生きてきたという証が失われた気がして、どうしようもなく悲しくなった。
「帰りたい?」
見透かすような、思いやるような優しい声に頷くと同時に、下瞼のふちに貯まっていた涙が決壊し、こぼれ落ちた。一度道が出来てしまえば、あとは流れる一方だった。寒い、痛い、寂しい。声にならない嗚咽を漏らしながら、アイは攫われて以来身体の内に溜め込んでいた感情をほろほろと零していった。
ナユタはやさしい顔をして、アイの背を撫でてくれた。
「今のままじゃ動かせないから、もう少しここで休んでから山を下りよう」
「一緒に、来てくれるの……?」
「行かない方がいい?」
「…………、来て欲しい」
「でしょ」
ナユタはにんまりと笑う。人なつっこい笑顔だが、いまだアイの脳裏には血まみれの彼が自刃した光景がこびりついている。心の底から信頼することはできそうになかった。
「でも、何年ぶりかな、下のことはほとんど知らないから君が案内してくれよ」
「……帰り道なんて、わからない」
アイがこれまで知っている世界は、家と果物畑、水を引くための近くの川、そして果実を卸す遠くの街くらいのものだった。
知らない男達に拐かされこんなところまで来て何とか逃げ出してみたものの、もはやここはアイの知りうる世界の外だった。目の前に居る死なない男の存在も、アイの現実感を揺らがせている。ここから歩いた先の地続きに自分の家があるという気がしなかった。
「大丈夫、生きていればきっとたどり着くよ」
無責任な言葉ではあったが、反論するほどの気力も無く、アイは曖昧に頷く。
「さ、もっと寝て、早く傷を治そう。明日、明るくなったら何か食べられるものを探してくるから」
そう言われると、つかの間忘れていた空腹感が突然強く主張し始める。元々ろくに食事を与えられていなかったことに加えて逃亡の際に走り回ったせいで、既にお腹はぺたんこになっている。
「……食べるもの……」
「ごめん、今は無いや」
ふたり並んで寝るのがやっとという粗末な小屋を見渡し、ナユタが首を横に振る。
「あなたは、おなかが空かないの?」
「いや、空くんだけど」
「……」
いやな想像がアイの頭に宿る。その疑念を眼差しに載せて不死の男を睨むと、彼は悪びれずにへらりと笑う。
「食べ物のある時期はいいんだけど、今はあんまり見つからなくてね。まあおなかが空いたらそこらから飛び降りたりすれば済むから」
「……そういう命の使い方はよくないと思う」
「うん、ごめん」
素直に頷くナユタだが、薄明かりの中のその横顔はどこか深い哀愁を帯びているように見えた。
ナユタがここに住んでいるのだとすれば、人里から離れてこんなちっぽけな空間で長い時間を過ごす理由があり、それはきっと彼の特異性に由来するのだというのは想像に難くなかった。
アイのふるさとにも、そんな人物が居た。近くの山の奥で炭焼きをしており、ほとんどの時間を一人で自然に向かって過ごし、稀に街まで出て行き炭を売り、山で手に入らない必需品を入手するだけの生活をしている男だった。分別のつかないころはその身なりや寡黙すぎる様子に内心小馬鹿にしていたが、やがてその振る舞いが強盗に妻子を殺され失意と絶望の末にたどり着いたものだと知った。
「他の人と、関わりたくない?」
アイが思わずそう質問してみると、ナユタは一瞬目を丸くした後、僅かに口の端を上げて笑って見せた。
「まあ、誰かと関わって良いことはあまり無いねぇ。でも、こんなところで生きてるか死んでるか分からない暮らしをするのも飽きたし、山を下りるのに良い機会だ。
さ、もう寝なよ。起きていてもおなかが空くだけだ」
そう言って、ナユタはアイの背に手を添え、横たえた。そしてどこか遠くを見るような目をして、再び口を開く。
「眠れるまで、話をしてあげよう。死なない男、ナユタの話」
――これは、不死の男たちの話。けして命を失うことのない秘蹟を身に宿した者達の生き様を垣間見ていくおとぎ話。
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