第1話:丘の上のデジャヴ
***
初夏の風が、丘の斜面を駆け上がってくる。
それはまだ若い草いきれと、雨上がりの土が太陽に暖められて立ち上る甘い匂いをたっぷりと含んでいた。
風がカイトの頬を撫で、少し長めの黒髪を優しくかき混ぜていく。
九歳の少年は、空の青さに溶けてしまいそうな心地よさに身を任せ、両腕を広げて仰向けに寝転がっていた。
見上げる空は、どこまでも高く、澄み渡っている。
ちぎれた綿菓子のような白い雲が、まるで時が止まったかのように、ゆっくりと、しかし確実にその形を変えながら東へと流れていく。
鳥のさえずり、
遠くで響く街の喧騒、
そして風が草を揺らす音。
その全てが、完璧な調和をもってこの世界を構成しているように思えた。
穏やかで、満ち足りていて、そして、少しだけ退屈な日常。
この日常が、まるでこの空のように、永遠に続いていくかのようにカイトは感じていた。
ふと、視界の端を銀色の影がよぎった。
音もなく滑るように空を横切っていく、巨大な魚の骨格にも似た優美な船体。
帝都と地方都市を結ぶ定期飛空船だ。
船体を浮かせているのは、炎でもなければ、プロペラでもない。
船の中央に据えられた霊力機関が生み出す、目には見えない力。
あの船が、この世界がカイトの知る「昔」とは違う場所であることを、静かに物語っていた。
街並みもそうだ。
この丘の上からは、帝都の一部が一望できる。
赤煉瓦で造られた洋館の隣に、黒い瓦屋根を持つ格式高い武家屋敷が並び、その間を霊力で灯る瓦斯灯(ガスとう)の明かりが彩る。
馬車と人力車が行き交う大通りを、時折、蒸気と霊力のハイブリッドで動く無骨な自動車が追い越していく。
和と洋、古き伝統と新しい技術が、奇妙な熱気を帯びて混じり合う、そんな時代。
魔法や、陰陽道と呼ばれる不可思議な術が、科学技術と肩を並べて人々の生活を支えている世界。
そして、有事の際には、人型兵器『ネクサス・ギア』と呼ばれる鋼の巨人が国の守りにつくという。
「……ふぁ……」
カイトは大きなあくびを一つした。
この世界の仕組みも、歴史も、何もかもが壮大で、複雑で、そして今のカイトにとっては、教科書に書かれた物語と同じくらい、どこか他人事だった。
明日も、きっと今日と同じように日が昇り、同じように飛空船が空を横切っていくのだろう。
その繰り返し。
確固たる安定。
だが、その安定は、時に心を緩やかに麻痺させる。
太陽が少し傾き、光の角度が変わった。
それまで目に痛いほどだった日差しが、蜂蜜のような温かい色合いを帯びて、丘全体を包み込む。
風が運んでくる草の匂いが、ふと、濃くなった気がした。
その、瞬間だった。
――なんだ、これ。
強烈な既視感(デジャヴ)が、カイトの脳を殴りつけた。
この光。
この風の匂い。
この、世界から切り離されたような感覚。
知っている。
カイトは、これを、確かに知っている。
いつ? どこで?
九年しか生きていないこの人生の中に、こんな記憶があっただろうか。
ズキン、と側頭部に鋭い痛みが走った。
それは釘を打ち込まれるような、局所的で暴力的な痛みだった。
「っ……ぅ……!」
思わず頭を抱えてうずくまる。
痛みの中心から、黒いインクが水に広がるように、何かが思考の領域を侵食してくる。
知らないはずの光景。
聞いたこともない音。
感じたはずのない感情。
それらが、壊れた映写機のように、猛烈な速度で脳裏を駆け巡り始めた。
『――仕様変更だ。明日の朝までに、このモジュールを実装してくれ』
無機質な蛍光灯の光。デスクに並んだ、三つのモニター。そこに滝のように流れ落ちていく、意味不明な文字列の羅列。
『――バグが出てる!サーバーが落ちるぞ!早く原因を特定しろ!』
鳴り響く電話。怒号。フロアに満ちる、焦燥と疲弊の匂い。冷めて酸っぱくなったコーヒーの味。
『――ハシモト君、悪いけど、今週も休日出勤、頼めるかな?』
終わらない残業。ちらりと見た窓の外は、いつも真っ暗だった。
家に帰っても、ただシャワーを浴びて、ベッドに倒れ込むだけ。
眠りは浅く、夢の中でさえ、カイトはコードを書き続けていた。
何のために?
なぜ?
「あ……がっ……ぁああああああ!」
痛みが、爆発的に膨れ上がった。
釘が、脳を内側からこじ開ける巨大な杭へと変わる。
記憶の濁流が、堰を切ったように流れ込んできた。
それはもう断片的な映像ではない。
一つの「人生」そのものだった。
ハシモト・カイト。
三十五歳。
システムエンジニア。
それが、俺の名前だ。
趣味は、プラモデル作りと、たまに行く深夜のラーメン。
好きなものは、静かな時間と、きちんと書かれた美しいコード。
嫌いなものは、意味のない会議と、責任を取らない上司。
愛した人は、いなかった。
守るべきものも、なかった。
ただ、生きるために働いて、働くために生きていた。
磨り減っていく精神。
蝕まれていく肉体。
ある朝、鏡に映った自分の顔が、まるで知らない他人のように見えた。
目の下には深い隈が刻まれ、瞳からは一切の光が失われていた。
その時、何かが、ぷつりと切れた。
意識が、最後の光景へと引きずり込まれる。
カン、カン、カン、カン――。
けたたましく鳴り響く、踏切の警報音。
点滅する、二つの赤い光。
雨に濡れたアスファルトが、街灯の光を不気味に反射している。
もう、疲れたんだ。
ゆっくりと、遮断機をくぐった。
冷たい雨が、頬を伝う。
それが涙の代わりだった。
ゴォォォ、と地鳴りのような音が近づいてくる。
強い光が、カイトの身体を白く染め上げた。
もう、頑張らなくていいんだ。
不思議と、恐怖はなかった。
ただ、圧倒的な解放感だけが、そこにあった。
身体が宙に浮く、奇妙な浮遊感。
そこで、ハシモト・カイトの記憶は、途切れていた。
「はっ……! はぁっ、はぁっ、……はぁ……っ!」
どれくらいの時間が経ったのか。
気づけば、カイトは丘の草の上に突っ伏していた。
全身が、まるで凍っていたかのように硬直し、自分のものとは思えないほど激しく震えている。
呼吸は浅く、速く、喉が張り付いてうまく息が吸えない。
全身から吹き出した汗で、着ているシャツが肌にじっとりと張り付いていた。
頭痛は、嘘のように消え去っていた。
だが、その代わりに、もっと恐ろしいものがカイトの内に残されていた。
九歳の少年『カイト』の記憶と、三十五歳で死んだプログラマー『ハシモト・カイト』の人生。
二つの人格。
それらが、まるで水と油のように分離したまま、一つの頭蓋骨の中に同居している。
俺は、死んだのか。
いや、死んだはずだ。
あの踏切で。
じゃあ、これは何だ?
この小さな手は。
この子供の身体は。
ゆっくりと、震える身体を起こす。
視界に映る風景は、さっきまでと何も変わらない。
初夏の穏やかな丘。
遠くに見える、和洋折衷の帝都の街並み。
空を横切る、霊力飛空船。
何も変わらないはずなのに、その全てが、全く違うものに見えていた。
ただの風景ではない。
その裏側にある、世界の構造、その法則(ルール)が、網の目のように見えてくるような、奇妙な感覚。
風が吹く。
それは、気圧の高い場所から低い場所へと空気が移動するという、単純な物理現象だ。
だが、今のカイトには、それだけには思えなかった。
無数の見えない粒子が、ある法則に従って相互作用し、その結果として「風」という一つの大きな流れが「創発」している。
まるで、無数のエージェントが、リーダーのいないままに一つのタスクをこなしているかのようだ。
一本の木の葉が揺れる。
その揺れ方は、決してランダムではない。
風の強さ、葉の形、茎の弾力性、周囲の木の葉との干渉。
無数の原因と条件が複雑に絡み合い、その結果として、今この瞬間の、その葉にしかできない、唯一無二の揺れ方が生まれている。
世界は、巨大で、恐ろしく精密で、そして途方もなく美しい、一つの複雑系(コンプレックス・システム)だった。
なぜ、そんなことが分かる?
プログラマーだったからだ。
ハシモト・カイトは、世界のあらゆる事象を、常に「システム」として捉える癖があった。
入力(インプット)があり、処理(プロセス)があり、出力(アウトプット)がある。
その背後には、必ずロジックとアルゴリズムが存在する。
この世界も、同じだ。
魔法も、陰陽道も、きっとそうだ。
それは奇跡や超常現象などではない。
ただ、まだ俺が知らない、この世界のOSに記述された、法則(ソースコード)に従って実行されているに過ぎない。
「……そうか」
声が、掠れていた。
「俺は……転生、したのか」
ありきたりな、三文小説のような言葉。
だが、それ以外に、この現状を説明する言葉が見つからなかった。
過労の末に自ら命を絶ったプログラマーが、魔法と科学が融合した不思議な世界に、九歳の少年として生まれ変わる。
あまりにも、出来すぎている。
だが、事実だった。
この小さな身体の奥底で、ハシモト・カイトの魂が、その三十五年分の絶望と、ほんの少しの未練と共に、確かに叫んでいた。
カイトは、ゆっくりと立ち上がった。
丘の上から、改めて自分が生きる世界を見下ろす。
前世で見ていた、高層ビルの窓から見える灰色の世界とは、何もかもが違っていた。
空は青く、緑は生命力に満ち、街には活気がある。
人々は笑い、語らい、生きている。
あの無機質なオフィスで、俺は何を求めていたんだろう。
高い給料か?
社会的な地位か?
いや、違う。
ただ、ほんの少しでいい。
自分の仕事が、自分の存在が、何か意味のあるものだと思いたかった。
誰かの役に立っていると、感じたかった。
それだけだった。
だが、その願いは叶わなかった。
俺はシステムを維持するための、交換可能な部品の一つに過ぎなかった。
そして、壊れた部品は、ただ捨てられるだけだ。
「……ふざけるな」
唇から、乾いた声が漏れた。
「今度こそ、ただの部品で終わってたまるか」
二度目の人生。
それが神の気まぐれか、あるいは何かのシステムのバグなのかは分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
俺は、もう二度と、ただ流されるだけの生き方はしない。
前世で果たせなかった何かを、この手で掴む。
そのためには、まず、知らなければならない。
この世界の「理(ルール)」を。
この世界のOSを。
そのソースコードを、俺自身の手で、一行残らず解き明かしてやる。
カイトは、夕焼けに染まり始めた帝都の街並みを、その小さな瞳に強く焼き付けた。
その瞳の奥には、九歳の少年が持つにはあまりにも深い、絶望と、そしてそれ以上に燃え盛るような、静かな決意の光が宿っていた。
彼の二度目の人生は、今、この瞬間から、本当の意味で始まったのだ。
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