第8話:大切な人
「鹿森さんのところへ連れていくから」
言葉なんて通じないだろうけど、拾ってきた帽子のおかげでムシリカちゃんはついてきてくれた。
小雨が降り始めているけれど、まだ傘を差していない人が多数。周りから見たら帽子を持って何もないところを振り返りながら歩く変な子に思われるかも。
「ごめんね。周りからは変人に見えるかも」
「リーちゃん先輩のためなら変人にも美人にもなります!」
「美人にはもうなってんじゃん」
「えっ?」
「今のなしね」
「分かりました」
そう言うや否や、空いている左手が大きな手につながれた。
何も分かってないじゃん……。
しかも、本人は何の意識もないんだろうけど恋人つなぎ。周りからは親子、よくても姉妹にしか見えないだろうってのは分かるんだけど、恥じらいってものをもう少し考えてほしい。
なんとか出口を抜けて、バス停へ。
ムシリカちゃんが乗る時間を稼ぐために支払いで手間取るふりをする。本当に恥ずかしかったけど、思ったよりもスムーズに乗ってくれたから助かった。イドちゃんにまでふりをさせる必要がなくなったし。
さすがに後ろの席まで誘導するのは難しいから、一人用の席をイドちゃんに譲って、手すりにつかまることにする。
発車するときに気付いた。
「ねえ、よく考えたら、乗車口から入れる必要なかったかも。幽霊なんだし、すり抜けられるじゃん」
「すり抜けられるかどうかは心持ちにもよりますから。ムシリカちゃんは動物園で人がすり抜ける体験を何度もしているはずなので『人はすり抜けられるもの』という認識を持っているのかもしれませんが、柵の中で過ごしていたわけですし、壁をすり抜けられる認識はないと思います」
あー、確かに。乗客はムシリカちゃんと重なって立っている。けれど、ムシリカちゃんが座席をすり抜ける様子はない。
雨の予報だったこともあってか人が少なく、下りるのに苦労はしなかった。
道中、雨が強くなってきたところに、イドちゃんが折り畳み傘を差してくれたのもすごく助かった。「相合傘ですね」の一言もないくらいに真剣な様子。傘からはみ出て濡らしていた左肩の分は、あとで恩として返さないと。
アパートのそばに着くと、ムシリカちゃんは急に私たちのもとから離れて、住民用の駐車場で止まった。
何もないところを嗅いでいる
ううん、違う。そこにいるんだ。鹿森さんが。
嗅ぐのをやめると、動物園で見たときと同じ棒立ちになった。
少し押されるように後ろへ下がったけど、首を下げると頬をすり寄せるみたいに見える素振りをした。
「ねえ、鹿森さんの様子は?」
「……抱き締めているように見えます。顔をくしゃくしゃにして泣きながら」
イドちゃんはもらい泣きしているんじゃないか、なんて思って顔を見た。
だから、びっくりした。無表情に近かったから。
でも、逆に、もっと複雑な感情が渦巻いているように感じる。亡くなったペットに会いたいとは言っていたけど、それ以上の何かがあるような、そんな気がするくらいに。
やがて、ムシリカちゃんは光の粒になった。
週末が明けて、昼。
足は自然と屋上への階段に向かう。
「リーちゃん先輩!」
イドちゃんはすでに座っていて、ひざの上にサンドイッチとパックの野菜ジュースを置いていた。そんなに目をきらきらされても、今は駆け上がるほどの気力はないんだけどな。
ゆっくりと階段を上って隣に腰を下ろす。
「……元気ないですね」
「うん、まあ」
「大きなことですか?」
「些細なこと」
「それなら、話してほしいです」
「パートナーだから?」
「それはもちろんですが、困っているなら放っておけないです」
……そっか。そうだよね。幽霊を浄化してきた子だもんね。
「本当にちょっとしたことなんだけど」
ため息を吐いたのなんて、いつ以来だろう。
「バイトで一万円手に入ったってクラスメイトに言ってみたんだ。さすがに霊については伏せたけど、ちょっと自慢したかったのかな。調子に乗っちゃっていたのかも。ううん。乗っていたね。完全に浮かれちゃっていた。でも、日給ならそれくらい普通って返されちゃって。むしろ少ないくらいなんて言われる始末で。そのまま話流されちゃって。なんか、訳分かんなくなって」
あーあ。変な愚痴り方しちゃっているな。
そもそも、愚痴なんて吐いたことなかったし。
一人のときに、ぶつぶつとつぶやいて細々と発散させるしかなかったから。
イドちゃんの顔色をうかがってみると、真剣な表情をして考え込んでいるみたいだった。
目が細くなっている分まつ毛の長さが際立っていて、手を顎に当てているから白く細い指もよく見える。黙っていれば浮世離れしている雰囲気が出るのに。
突然、何かを思いついたかのように大きく開いた目がこっちに向いた。
「リーちゃん先輩」
真剣な声。驚いて返事ができなかった。黙っていなくても綺麗なのはずるじゃん。
「実はですね、私もちょうど手に入ったところなんです。一万円」
そりゃ、まあ、一緒に仕事したからね。
「動物園にもう一度行って、今度はグッズを買いたいのですが、一人だと寂しいですし、交通費や食費、入園料を考えるとおごるのも難しいです。何より、大事な一万円ですから大切な人と行きたいですね。大事な一万円ですから」
声にだんだんと年相応の幼さが加わっていって、ちょっと安心した自分がいる。
「……ねえ、励ましって慣れていなかったりする?」
「一人でいることが多かったので」
「そっか」
不器用な言葉。
でも、上辺だけで取っているコミュニケーションよりずっと温かい。
「あーんしてよ」
「えっ?」
「ほら、口開けて」
「あ、あーん」
歯並びもきれいな口に卵焼きを三つ放り込む。
いっぱいいっぱいになった口が両手で押さえられて、もごもごと咀嚼するたびに頬が膨れる顔には困惑の表情が浮かんでいる。
別に深い意味があるわけじゃない。ただ、恩返しの分があるのと、喜ぶ声を変にあげられても困るからってだけ。
「今度は、展示ルートで行くからね」
一瞬、間があって、気付いたらしなやかな両腕に抱き締められていた。
次の仕事はさすがに、オカピほど驚くことはないよね?
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