序章 04


「雑なおさめ方だねぇ」


 屋上からとなりのビルに飛び移り、非常階段からその場を去ろうとしたメグルの背中に、突然、声がかかった。

 目をらすと暗闇のなかにひとりの男が立っている。


 細身の長身に黒のスーツと蝶ネクタイ。

 黒いステッキを持ち、黒い革靴を履いていた。

 黒いシルクハットからは、ぼさぼさの髪と丸いサングラスをのぞかせ、弓なりにぴんっと天に向かった口髭を伸ばしている。


 紳士ぶった気取った格好をしているが、どれもが薄汚れてぼろぼろ、スーツの膝にはぎが当てられ、体中から生ゴミのような匂いを放っていた。


「昔の管理人はもっとスマートに事をおさめていたぜ。センスがあったね」


 全身黒ずくめの男の口から『管理人』という言葉が出たとたん、メグルは素早くカバンから分厚いレンズの黒ぶち眼鏡、『星見鏡ほしみきょう』を取り出して掛けた。

 男の頭上には、人間ならあるはずの水晶玉がひとつも見えない。


「だいたい、関係ない少女を自殺志願者に仕立てるなんてよう? めちゃくちゃだぜ」


 そんな男の言葉などまったくかいさず、メグルは淡々とこたえた。


「あの少女は自暴自棄じぼうじきになっていて、放っておいたら命も落としかねない様子でした。沢山の人からはげまされた現実は、たとえそれが偽りの体験だったとしても、あの少女には生きるかてとなるでしょう……。それにしても、ここらは越界者えっかいしゃだらけだな。前任者は何をしていたんだ、まったく」


 文句を言いながらも胸ポケットからすばやく名刺を一枚ぬき取り、男に差し出す。


「先日配属されました、人間界管理局日本支部担当 六道リクドウ 輪廻メグルです。どうぞよろしく」

 練習通りにすらりと一息で言い切ると、にやりと笑ってこう続けた。


「人間界をたった一度で卒業した、二五〇〇年ぶりの超エリートです!」

 そしておもむろにカバンの中から、越界者えっかいしゃを閉じ込める小瓶『魔捕瓶まほうびん』を取り出した。


「ちょちょ、待った待った! おいらはお前さんの協力者なんだぜ?」


「協力者?」


 メグルは眼鏡のフレームを人差し指でついとずり上げ、男を睨みつけた。

「前任者は越界者えっかいしゃなんかと協力していたのか……。堕落だ」


「お前さんはそんなこと言うけどね。越界者えっかいしゃを探し出すってえのは、けっこう骨なんだぜ」


 しかしメグルは胸を張った。

「先月、人間界に降りてきたばかりだけど、さっき捕まえたやつで、もう三人目です」


「ほう、やるねぇ新人。しかし一ヶ月で三匹捕まえた程度で胸張られてもな……。近頃やつらは、毎月千匹単位で、この人間界へ侵入しているって噂だぜ」


 男はサングラスを外してシルクハットのつばの上に掛け直すと、だらしなく垂れた目をあらわにしながら、ふところから取り出した黒革の手帳をのぞき込んだ。


「とりわけ日本では、ええと……。いま現在、魔界側の世界から侵入した越界者えっかいしゃが、約六百匹ほど潜んでいるね。お前さんの捕まえた数なんて、まあ、微々びびたるもんよ」


 垂れ目がちの笑顔を向ける男に、メグルも同じ表情を真似まねながら言った。

「ふうん、六百人もねぇ……。で、その数にあなたは含まれているの?」


「そらぁ、お前……。おいらは別だよ……」

 男はばつが悪そうに口髭をなでた。


「いいかね、新人くん。自慢じゃないが、おいらは人間界に不法に入界して彼此かれこれ三〇〇年。言わば越界者えっかいしゃのベテランよ! この実績を買われて、いままで何人の管理人がおいらを頼って来たものか……。いいかげんその小瓶しまえったら!」


 いまいち納得はできなかったが、男が危険なやつにも見えなかったので、メグルは『魔捕瓶まほうびん』をカバンにしまった。


「三〇〇年も、人間界で何をやっていたんです?」


「なあんも。静かにひっそり暮らしつつ人間界を観察するのが、おいらの趣味なのさ」


「趣味? 人間界の観察が?」



「そ。人間界は【十層界じっそうかい】で唯一、『善』と『悪』が混沌こんとんとした世界。見てて飽きないね!」



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