第2話 静寂のための不協和音

「ノイズキャンセリングイヤホンは、現代社会において個人が構築できる、最強の結界(サンクチュアリ)である」


 これが、彩葉一心(わたし)が導き出した、対ラスボス戦における基本戦術だ。

 朝、教室の扉を開けると同時に、私はマットブラックのイヤホンを両耳に装着する。物理的な音を遮断するんじゃない。隣の席の歩く恋愛フラグこと、九重透(ここのえ とおる)から発せられる、予測不能なノイズ――すなわち、コミュニケーションの試みをシャットアウトするための儀式なのだ。


「彩葉さん、おはよ」

「…………」

(聞こえなーい、聞こえなーい。私の世界は今、静寂と文庫本だけで構成されていまーす)


 チラリと視線だけ向けると、透は苦笑しながら自分の席に着いた。よし、まずは朝の挨拶イベントを回避。経験値ゼロ。素晴らしい一日の始まりだ。


 透が隣の席になって一週間。私は血の滲むような努力の末、完璧な『隣人スルー』スキルを習得しつつあった。

 休み時間はイヤホンと読書で自己結界を展開。

 移動教室はチャイムが鳴る前にフライング気味に教室を飛び出し、二人になる状況を物理的に回避。

 透が私の方を見て、何か話しかけようと口を開きかけるその瞬間――


「…っ、ゴホン!ゲホッ、ゲホッ!」

「え、だ、大丈夫か!?」


 ――そう、伝家の宝刀『予測不能な咳き込み』を発動。会話の糸口をウイルスもろとも粉砕するのだ。

 この徹底した非コミュニケーション戦略は、我が軍の軍師殿から「そこまでいくともはや行動芸術の域だな。そろそろ文化庁から表彰されるぞ」と、最大級の賛辞(という名の皮肉)を賜るほどだった。


 しかし、人生という名のクソゲーは、時としてプレイヤーに理不尽な強制イベントを仕掛けてくる。

 数学の授業中。眠気を誘う教師の声が、悪魔の宣告へと変わった。


「はーい、じゃあここから応用問題な。難しっから、隣の席の人とペアになって、どうやって解くか議論してみなさーい」


(――な、なんだと……!?)


【強制ペアワークイベント】発生!

 馬鹿な!このゲームにそんな協力プレイが実装されていたなんて聞いてない!ソロプレイヤーに人権はないというのか!

 脳内で運営に猛抗議するシミュレーションが展開される。『先生、ペアワークという旧時代的な教育手法は、生徒の自主性を著しく阻害するものであり、合理性に欠けるのでは?』『個の力を尊重したまえ!』『そもそも数学に議論など不要!あるのは公式と証明のみ!』


 しかし、私の抗議が現実の口から飛び出すより早く、隣のラスボスが動いた。

「なあ、彩葉さん」

「……!」

 まずい、話しかけてくる。彼の声はイヤホンをしていても、骨伝導かなにかで鼓膜に直接響いてくる気がする。

「ごめん、ここの公式の意味からよく分からなくて…悪いんだけど、教えてくれないか?」

 ノートに書かれた二次関数を指さしながら、透が小声で尋ねてきた。その顔は、本当に困っている顔だった。ここで無視すれば、私のクラス内での評価は「性格の悪い変人」という、モブとは程遠い最悪の称号を得てしまう。それだけは避けなければ。


(……仕方ない。最低限の接触で、このクエストを終わらせる)


 私は舌打ちをぐっと堪え、無言でペンを握りしめた。ノートを寄越せ、とジェスチャーで示すと、透は素直にノートをこちらへスライドさせた。

 私は彼のノートに、説明するのも面倒だ、と言わんばかりの勢いで、解法を直接書き殴り始めた。文字じゃない。数式という名の、世界で最も無駄のない言語で。


(頂点の座標はx=-b/2aで求まる。この場合、係数はこうだから…)

「へえ、なるほど…!そうやって変形させるのか」


 私のペン先を追っていた透が、感心したように身を乗り出してきた。

 まずい、距離が近い。

 ぐっと彼の身体がこちらに寄せられ、整った顔が、私の耳元すぐそばまで接近した。

「それで、この後の展開は…?」

 彼の声が、吐息混じりに耳を直接くすぐる。

 その瞬間――ふわ、と。

 彼の匂いが、私の呼吸に混じり込んできた。汗の匂い。でも、それは不快なものじゃない。体育の後の、健康的な匂い。それと、石鹸みたいな、制汗剤みたいな、清潔で、少しだけ甘い匂い。

 生々しい、男の子の匂い。


(――な…に、これ…)


 思考が、停止した。

 カツン、と持っていたペンが滑り落ちる。頭が真っ白になって、数式の続きが何も思い浮かばない。全身の血が、顔に、耳に、首筋に集まっていくのが分かる。体温が、急激に上昇していく。

 今まで聞いたことのない、未知の音が、心臓の奥深くで鳴り響いた。


【ズン…】


 それは、脳内に響く金属音じゃない。身体の芯を、直接揺さぶるような、重い、低い、腹の底からの音。

 パニックだった。

 汚い。不潔。ありえない。なんで私が、男の匂いなんかに。こんな、こんな動物みたいな反応――!

 自己嫌悪と、理解不能な生理現象で、私の理性は完全に吹き飛んだ。


「――っ、あとは自分で考えなさいよ!」


 私は椅子を蹴立てる勢いで彼から距離を取ると、ほとんど悲鳴のような声でそう言い放った。そして、ノートを彼の机に叩き返すようにして、自分の身体を固く縮こまらせた。


「え…?あ、うん…。ごめん。俺の頭が悪くて、イラつかせたよな」

 突然豹変した私の態度に、透は理由が全く分からなかったのだろう。ただただ素直に、そして少ししょんぼりとした声で謝罪してきた。

 純粋な、善意100%の謝罪。

 それが、ナイフのように私の罪悪感を抉った。違う、あなたが悪いんじゃない。勝手にパニックになった私が悪いのに。あなたの優しさが、ただただ怖いだけなのに。


 キーンコーンカーンコーン…。


 授業終了のチャイムが、まるでゴングのように鳴り響く。

 休み時間。私はすぐさまイヤホンを装着し、机に突っ伏した。静寂をくれ。誰とも話したくない。特に、九重透、お前とは。


 ピロン。

 ポケットの中でスマホが震える。鏡子からだ。

『鏡子:お前の態度の急変、もはや情緒不安定の域。クラスメイトが遠巻きにお前のことを見ているぞ。完璧に悪目立ちしている。おめでとう』

『一心:うるさい!あれは不可抗力だ!防衛本能がバグっただけだ!』

『鏡子:そのバグの原因が隣にいるイケメンだということは、クラスの猿でも気づいている』

『一心:違う!!』


 私はスマホの画面にだけ悪態をつき、顔を伏せた。耳を塞いでも、あの重い音が、まだ身体の奥でくすぶっている気がした。成功音のはずの【キィンッ!】と、未知の重低音【ズン…】が脳内で混線し、最悪の不協和音を奏でていた。


 ああ、もう嫌だ。

 家に帰りたい。

 できれば、私の部屋から一歩も出ずに、高校生活をスキップさせてほしい。


 放課後。

 私は誰よりも早く教室を飛び出し、昇降口へと向かっていた。もう一秒でも長く、あの教室にはいたくない。特に、あのラスボスの隣には。

 靴を履き替え、外に出ようとした、その時だった。


「彩葉さん!」


 背後から、最も聞きたくない声がした。

 振り返ると、九重透が息を切らしながらこちらに走ってくるところだった。

(なぜ追ってくる!?私が何かしたか!?まさか、昼間の態度を問い詰めに来たとか!?)


「忘れ物」


 彼はそう言って、一冊の本を私に差し出した。私が机の中に置き忘れていた、ブックカバーのかかった文庫本だった。

「…あ」

「教室出た後、すぐ気づいたんだけど。お前、足速すぎだろ」

 彼はそう言って、悪戯っぽく笑った。その笑顔には、昼間の気まずさは微塵も感じられなかった。

「……どうも」

 私は本を受け取り、ボソリと礼を言う。彼の手と私の指が、ほんの一瞬だけ触れた。びくり、と身体が震える。

 その反応を見た透の目が、ほんの少しだけ、真剣な色を帯びた気がした。


「なあ、彩葉さん」

「……なに」

「俺、なんかお前に嫌われるようなことしたかな」

 やっぱり、その話か。

 私は視線を逸らし、首を横に振る。「別に」。いつもの、私の十八番。

「なら、いいんだけど」

 透はそれ以上は追及せず、「じゃあな」と手を振って、部活に向かうために校舎へと引き返していった。


 一人、昇降口に残された私。

 手の中にある、彼から渡されたばかりの文庫本が、まだ彼の体温を持っているような気がして、胸がざわついた。

 ただの勘違いだ。彼の優しさは、誰にでも向けられる、テンプレートの優しさ。私にだけ向けられた特別なものなんかじゃない。

 そう、自分に言い聞かせる。


 でも、彼のまっすぐな瞳を思い出すと、また、あの重い音が、私の身体の奥で小さく鳴った。


【ズン…】


(うるさい、うるさい、うるさい!)

 私はその音を振り払うように、鞄に本を乱暴に突っ込み、家路を急いだ。

 彼の優しさは、バグだ。

 私の身体に、私の平穏な日常に、エラーを引き起こす、最悪のバグなんだ。

 だから、明日からはもっと、完璧に、徹底的に、全てのフラグを叩き折ってやる。

 二度と、あんな音が響かないように――。

 夕日に染まる帰り道、私は一人、静かに決意を固めるのだった。

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