第3話 雨音は、危険(ラヴ)の調べ

 スマホの液晶画面に表示された天気予報を、私はまるで親の仇でも見るかのように睨みつけていた。


『本日15時からの降水確率:70%』


(……来たか)


 ゴクリ、と無意識に喉が鳴る。

 彩葉一心(わたし)、16歳。モブ。平穏な学園生活の守護者。この私が最も警戒する天候、それが雨だ。

 なぜなら、雨はあらゆる恋愛フラグの触媒(カタリスト)だからである。

 雨宿り、ハンカチ貸してイベント、そして何より――王道にして最悪の高難易度イベント、『相合傘コンボ』の発生確率を爆発的に引き上げる、最悪の気象現象なのだ!


「今日のラッキーアイテムは折り畳み傘!これで急な雨でも安心だね!」

 朝の情報番組の占いが、脳内で不吉なファンファーレのように鳴り響く。

 安心?冗談じゃない。それはフラグ建築の後押しでしかない。


「おっはよー、一心」

「…おはよう、鏡子」

 教室に着くと、我が軍唯一の参謀、観月鏡子が既に席に着いていた。

「なんだその顔は。まるでこれから戦場にでも赴く兵士のようだが」

「戦場に行くんだよ。水という名の理不尽な暴力が支配する、な」

「ただの雨だろ。大げさな」

「大げさじゃない!いいか鏡子、隣の席のラスボス…九重透は、十中八九、傘を持ってきていない!」

「ほう?その根拠は?」

「昨日の天気予報は晴れのち曇りだったからだ!典型的なうっかり系ヒーローである彼は、細かい天気までチェックしているはずがない!つまり…!」

「つまり?」

 鏡子がニヤニヤしながら続きを促す。


「私が!彼に!傘を貸すという展開になる可能性が極めて高いということだ!」


 バン!と机を叩く私に、鏡子は呆れたようにため息をついた。

「それがどうした。傘の一本くらい貸してやればいいだろう。むしろ好感度アップのチャンスじゃないか」

「分かってない!借しを作るということは、すなわち『お礼イベント』という名の新たなフラグを立てることと同義!それだけじゃない、もし、もしも相合傘にでもなってみろ!私のモブライフは即日サービス終了だ!」

「たかが相合傘でか」

「たかが相合傘じゃない!閉鎖空間、近距離での接触、雨音による吊り橋効果!あれはな、歩くラブホテルなんだよ!!」

「お前のその独特な語彙はどこから来るんだ…」


 会話は、教室の扉が開く音で中断された。

「おはよーっす!」

 太陽が、服を着て歩いていた。

 九重透。今日も彼は、無駄に爽やかなオーラを撒き散らしながら教室に入ってきて、友人たちと談笑を始めた。その手ぶらな姿を見て、私は確信する。


(やはり持っていない…!今日の私のクエストは、このラスボスから逃げ切り、無事に家まで帰還することだ!)


 幸い、私には対策があった。鞄の中には、今日の日のために用意した折り畳み傘が三本も入っている。自分用、不測の事態用、そして……最終手段として、相手に押し付けて逃走するための、ダミー用だ。

 今日の授業は心なしか、長く感じた。

 早く終われ。早く終われ、そして雨よ降るな。

 私の祈りも虚しく、五時間目の終わりを告げるチャイムと同時に、空はみるみるうちに暗くなり、ゴロゴロと遠雷が鳴り響いた。


 そして、放課後。

 窓の外は、バケツをひっくり返したような土砂降り。

 ザアアアアア、という轟音が、教室のざわめきを塗りつぶしていく。


「よし!」


 私は勝利を確信し、誰よりも早く鞄を手に取った。

 下校時刻のチャイムが鳴り響く。行け!私のステルススキル、今こそ発動の時!

 教室中の生徒たちが「うわ、最悪」「傘ないわー」と嘆く中、私は人混みに紛れ、空気のように教室を出て、昇降口へと向かった。

 完璧だ。誰にも気づかれていない。あとは靴を履き替え、勝利の傘を広げるだけ――。


「あ、彩葉さん!ちょうどよかった!」


 背後からかけられた、悪魔のような天使の声。

 振り向くと、クラスの女子グループが、困り顔のラスボスを囲んでこちらに手招きをしていた。

 しまった!女子たちの「九重くんに良いところを見せたい」という集団心理が、私を標的にしたのか!


「九重くん、傘なくて困ってるんだって!彩葉さん、持ってない?」

 女子の一人が、有無を言わせぬ笑顔でそう言った。

 彼女たちの背後で、透が「あ、いや、悪いからいいよ」と遠慮している。その善人ムーブが、逆に女子たちの「貸してあげなよ!」という無言の圧力を増幅させていることに、この男は気づいているのだろうか。


 断れば「九重くん相手にノリが悪い子」のレッテルを貼られ、悪目立ち確定。中学時代の二の舞だ。

 貸せば、貸したで、未来の厄介なフラグが確定する。

(……詰んだか?)

 いや、まだだ。私には、この状況を切り抜けるための秘策があった。


「……」


 私は表情を消し、鞄をごそごそと漁ると、中から一本の小さなビニール傘を取り出した。持ち手には、どこかのファンシーショップで売っているような、うさぎのキャラクターが描かれている。ダミー用の、最終兵器だ。

 これを彼に渡し、借りを作ったという事実を認識させると同時に、そのデザインセンスの無さで恋愛対象から外れさせるという、高等戦術。


「……これ」


 私はそのビニール傘を、まるで挑戦状でも叩きつけるかのように、透の胸に押し付けた。

「え?いいのか?でも、彩葉さんの分は…」

「私には、私用のがあるので」

 そう。私には、自分用のシックな黒い傘がちゃんとあるのだ。

 ここで相合傘に持ち込まれては元も子もない。「一緒に」と言われる前に、私は即座に踵を返した。


 完璧だ。被害は最小限。ミッションコンプリート。

 私の脳内に、澄み渡るような完璧な成功音【キィンッ!】が鳴り響く。

 満足感に浸り、私は自分用の黒い傘を広げ、土砂降りの中へと一歩踏み出した。


 グッ、と。

 強い力で、腕を掴まれた。


「え……?」

「待てよ」


 振り向くと、息を切らした透が、私の腕を掴んでいた。その目は、いつもよりずっと真剣だった。

 なんで。どうして。私の計画は完璧だったはず。

「一人で帰すわけないだろ、こんな雨の中」

「…でも、傘」

「これ、どう見ても一人用だろ。しかも女子向けの」

 彼はそう言うと、私が渡したうさぎの傘を広げた。確かに小さい。子供用と言ってもいいくらいだ。


「彩葉さんが濡れるくらいなら、俺が濡れたほうがマシだ」


 何を言っているんだ、この男は。

 訳が分からない。訳が分からないまま、彼は私の手を引き、自分の身体の方へとぐっと寄せた。

 そして、彼が広げた小さなビニール傘が、私たちの頭上に掲げられた。

 それは、誰がどう見ても――「相合傘」という名の、恋の共同戦線だった。


(嘘でしょ……)


 狭い。近すぎる。

 彼の肩と、私の肩が、触れ合うか触れ合わないかのギリギリの距離。

 一歩踏み出すたびに、彼の腕が私の腕に擦れる。彼の体温が、雨の冷たさを突き抜けて、生々しく伝わってきた。

 彼の濡れた髪から、シャンプーと、雨の匂いが混じった匂いがする。


 ザアアアアアア――


 傘を叩く雨音だけが、やけに大きく聞こえる。

 うるさい。

 うるさい、うるさい。雨音じゃない。私の、心臓の音が。

 ドクン、ドクンと、身体中に響き渡って、頭がおかしくなりそうだ。


(これは違う、これは吊り橋効果だ、ただの勘違いだ、この状況にときめいているわけじゃ、断じて、ない!)


 必死に自分に言い聞かせるが、顔に集まる熱は引かなかった。

 私たちは無言のまま、バス停へと向かう。

 いつもは何でもないはずの数分間の道のりが、永遠に続く拷問のように感じられた。

 沈黙が、気まずい。気まずすぎて、死にそうだ。


 ようやく見えてきたバス停。屋根のある、聖域(サンクチュアリ)。

 ああ、やっとこの拷問から解放される――!

 そう思った矢先、透が、静寂を破った。


「なあ、彩葉さん」

「……なに」

「もしかして、俺のこと嫌い?」


 彼の声は、いつもより少し低くて、真剣だった。

 ドキリ、と心臓が跳ねる。

 嫌い?嫌いなわけじゃない。むしろ、怖いのだ。あなたのような光属性のメインヒーローが、私のような日陰のモブに関わってくる、そのこと自体が。あなたといると、私の平穏が壊れてしまうから。


 でも、そんなこと、言えるわけがない。

 なんて答えればいい?なんて言えば、この状況を穏便に、フラグを立てずに終われる?

(そうだ、「別に」だ。「別に」って言えば、興味がないって伝わるはず…!)


「…別に、嫌いとかじゃ…」

「じゃあ、なんでそんなに俺のこと避けるんだ?」

 まずい、食い下がってくる。いつもなら、ここで引き下がるはずなのに。

 どうしよう。どうしよう。

 パニックになった私の頭は、最悪の答えを導き出してしまった。

 彼を傷つけてでも、この関係を断ち切る。それが、私のための、唯一の正解だと。


「……不潔だから」


 ――言って、しまった。

 自分の口から飛び出した、冷たくて、刃物のように鋭い言葉。

 シン、と世界から音が消えた。

 隣を歩いていた透の足が、ぴたりと止まる。恐る恐る彼の顔を見上げると、そのヘーゼル色の瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれていた。

 傷ついている、と、一目で分かった。


【ズキッ…】


 脳内に響いたのは、成功音じゃない。

 何かが、私の胸の中で、音を立てて砕け散ったような、鋭い痛みだった。


 ああ、違う。違うんだ。そんなこと、思ってないのに。

 そう言いたくても、声が出なかった。

 ちょうどその時、バスがライトを光らせて停留所に滑り込んでくる。


「……そうか」


 ぽつりと呟いた彼の声は、雨音にかき消えそうなくらい、小さかった。

「…ごめん」。

 バスに乗り込むまでの短い間に、彼が何を謝ったのか、私には分からなかった。


 気まずい沈黙のままバスに揺られ、降りるバス停も同じだったという追い打ちの事実。

 先に降りた透は、私に一度も振り返ることなく、こう言った。

「傘、ありがとう。明日洗って返すから」


 そして、彼は雨の中へと消えていく。

 その大きく、そしてどこか寂しげに見える背中を、私はただ、バスの窓から見送ることしかできなかった。

 フラグは、折ったはずなのに。

 それなのに、胸に残ったのは、達成感ではなく、息苦しいほどの後悔だけだった。


(私は、最低のフラグの折り方をした…)

 バスが走り出す。窓の外の景色が、雨で滲んで歪んで見えた。

 脳内に響いていた耳鳴りのようなノイズが、まるで、私の心を責めているように聞こえていた。

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