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「……元気にしていますよ」


 千歳はとっさにそう返した。「元気かどうか」について、嘘は言っていない。あの日以降も、会うたび椿は変わらず穏やかな笑みで千歳を出迎えるからだ。まるで、あの日のことなど何ともなかったかのように。


「そうですか、よかった」


 葵はほっと安堵した後、はっとして頬をぽりぽりと搔きながら苦笑した。


「すみません、こんなこと聞いて。姉離れが出来ていないと周りからも言われて、気を付けているんですけど、やっぱり気になって」

「いえ。……私は仕事で家をあけがちですが、通いの使用人からは家のことをよくやってくれていると聞いています」


 その言葉に「そうですか」と、静かに返した葵。そのとき、千歳はふと最近の椿の姿を思い返した。


 玄関での出迎え。朝食や夕食の席で交わす短い会話。どの瞬間も彼女は穏やかに、変わらず笑っていた。


「……彼女は、よく笑う人ですね」


 思わずこぼれた千歳の言葉に、葵は少し驚いたような顔をしてから、曖昧な笑みを浮かべた。


「……そうですね。姉さんは俺の前でもよく笑っていましたよ。両親を亡くしてからは特に」


 葵は手の中の湯呑みをぎゅっと握りしめる。


「屋敷中が悲しみに沈む中、気落ちした俺や使用人たちを、姉さんは笑顔で支えてくれました。……きっと、姉さんだって泣きたかったと思うんです。それでも一度も涙を見せず、ただ笑って……」


 言葉を切りながら、葵は悔しそうに顔をゆがめた。そして姿勢を正し、千歳に向き直る。


「お義兄さん……俺が二人の関係に口を出すのは筋違いだと分かっています。でも、姉のことを……どうか、よろしくお願いします」


 深々と頭を下げる葵に、千歳は言葉を返せなかった。脳裏に浮かぶのは、あの日、自分に向けられた椿の笑顔。


 あのとき、彼女はどんな気持ちで笑っていたのだろうか。


 思い返してみても、頭に浮かぶのはただ、いつもの穏やかな笑顔だけで。その奥にあった感情を、千歳は何ひとつ見抜けていないような気がした。

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氷月の最愛~政略結婚のはずが、クールな旦那様から溺愛が始まりました!~ 来海 空々瑠 @kayaichinose

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