20

 それから着替えを済ませ、居間へ向かうと台所から漂ってくるいい香り。ちらと台所に視線をやると、そこにいたのは着物の袖を紐でたすき掛けし、料理をする椿だった。


「あ、おはようございます、旦那様」


 にこやかな笑みを浮かべて千歳を出迎えた椿は、「千歳様、おはようございます」と続けた八重子と共に何やら朝食の支度をしているようだった。


 釜からは白い湯気がもくもくと立っていて、黒鍋からは出汁のいい香りが漂っている。椿の手元を見れば、まな板の上に輪切りにされたきゅうりが並んでいた。


 昨日は初夜にも関わらず、冷たく突き放した自覚があった千歳は、目の前の状況を上手く呑み込めないでいた。何事もなかったかのように笑顔を向けてくる椿にも、彼女が朝食を作っている事実にも──。


「旦那様……?」


 呆然とする千歳に、「ご迷惑、だったでしょうか……?」と、そろりと顔色を伺う椿。


「いえ、別に食事くらいは」


 千歳がそう返すと、椿の顔がぱぁと明るくなる。


「では、すぐにお料理をお持ちしますから、座って待っていてくださいね」


 そうして、また笑みを向けられ、千歳は何も返せなくなった。確かに「自由に過ごせ」とは言ったが、まさか朝食作りを手伝っているとは。


 それから千歳が言われた通りに食卓に腰を下ろして待っていると、ほどなくして椿が膳を持ってやってきた。


 焼き魚に、大根おろしが添えられたたまご焼き、きゅうりの浅漬け、味噌汁といつも八重子が作るものと変わらない献立である。


「はい、どうぞ」


 差し出された手には、お茶碗によそわれた白飯。艶があり、ほかほかと湯気が立ち込めるご飯を、千歳はじっと凝視した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る