第28話 あしたもあそぼうね ― フェイクエンド ―

I 起床 ― 寮の朝


小鳥の声が、窓の外からこぼれてきた。

カーテンのすきまを通った朝の光が、床の木目をほどいていく。


最初に目を覚ましたのは、いつものようにレオンだった。

ベッドからぴょこんと顔を出して、まだ眠る仲間たちを見回す。


「おはよー! あさだよ!」


勢いよくカーテンを開けると、淡い光が部屋いっぱいに広がった。

その明るさに、レンがまぶしそうに目を細める。


「……レオンくん、まぶしいよ」

「えへへ、でもきょうもいいお天気だよ!」


元気いっぱいの声に、部屋の空気がいっせいに動き出す。


布団の中でうごめく影がひとつ。

タクトが、寝ぼけまなこをこすりながら上体を起こした。

「ん〜……もう朝かぁ……」


けれど、おひさま組の男の子は、眠くても忘れない。

隣のベッドの布団がずれているのを見つけると、そっと掛け直した。

小さな背中に毛布を整えながら、ぽつりとつぶやく。


「ほら、ちゃんとあったかくしとかないと風邪ひくよ」


おねしょの確認も、彼にとっては朝の“お仕事”のひとつ。

もし濡れていたら、そっと寮母さんを呼びに行く。

責めるためじゃなく、ただ“安心のため”。

そんな役目を自然にこなす姿に、年長らしさが光っていた。


その隣のベッドでは、ユウマがすでに目を覚ましていた。

まぶたを半分だけ開けて、カーテン越しの光を静かに見つめている。


「……あさのひかりってさ、なでなでしてくれるみたい」


レオンが聞き返す。

「なでなで……? あったかいの?」


ユウマは少し笑って、布団を胸まで引き上げた。

「うん。泣いた顔も、ちゃんと元どおりになるってこと」


「むずかしいこと言うなぁ〜」とレオンが笑い、

タクトが「でも、なんか分かる気がする」とうなずいた。


子どもたちの声が、朝の光といっしょに部屋を満たしていく。


やがて、廊下から足音が近づいた。

「おはようございますよ〜、みんな起きましたか〜?」


寮母さんが扉を開けると、甘い石けんの香りが朝の空気に混じる。


「はぁい!」とレオンが即答。

「まだお布団とけんかしてる子はいませんね?」

その言葉に、タクトがくすっと笑う。


つづいて、柔らかなタイヤの音。

検温ワゴンが、ゆっくりと廊下を進んでくる。

今日はマリア先生がそのワゴンを押していた。

小さな電子音が鳴り、体温計がひとつずつ配られていった。


「はい、タクトくん。きょうも元気そうね」

「うん!」

「レオンくんも、お熱なし。えらいわね」

「ぼく、はやおきしたから!」

「ユウマくんも平熱ね。目がとってもきれいだわ」

「せんせい来たから、目がピカってしたのかも」

「ふふ、もう。朝からそんなこと言うのね」


マリア先生が笑うと、ユウマも小さく微笑んだ。

その笑顔は、まだ眠たい空気の中で朝の光よりも明るかった。


そこへ、ミラがくまのぬいぐるみを抱えてやってきた。

茶色の布地に赤いリボン、ガラスの目がきらり――ポポンだ。

髪の先に寝ぐせを残したまま、けれど表情はきらきらしている。


「先生、おはようございます!」

「おはよう、ミラちゃん。ポポンもよく眠れた?」

「うん、ポポンね、すやすやだったの!」


マリア先生がポポンの頭をなでると、ガラス玉の目がほのかに光った。

「ふふ、よかったわ。じゃあ、今日もいっしょにいい日を過ごしましょうね」


ミラはうれしそうにうなずき、ポポンを抱きしめ直す。

その瞬間、朝の光が窓辺から差しこみ、子どもたちの髪を金色に照らした。


木漏れ日が床に伸び、部屋の中を静かに満たしていく。

笑い声、足音、そして小さな息づかい。

こうしてまた、園の新しい一日がはじまった。



II 朝食 ― 食堂にて


寄宿舎の食堂は、朝の光でいっぱいだった。

木の長テーブルが三列に並び、窓から差すひかりがパンとミルクを照らしている。

焼きたての香りとスープの湯気が、眠気の残る子どもたちのまわりで息づいていた。


「はい、それじゃあ――」

ベア先生が両手を合わせて、明るく声を張る。

「いただきますっ!」


ぱちん、と小さな手が一斉に合わさる。

木の音が重なり、食堂がいっせいに“朝”になった。


おひさま組は、今日もおてつだい係。

カノンは両手でトレーを抱えて、一列ずつ丁寧に配っていく。

その横でレンが小皿を並べ、数を確認していた。


「三、四……よし。これで全部」

落ち着いた声に、隣のレオンがぱたぱたと走ってくる。

「レンにいちゃ、これぼくの分〜!」

差し出したパンを見て、レンは笑った。

「ありがとう。レオンくんのパン、丸くておいしそうだね」


カノンのほうでは、リリアが元気いっぱいに駆け寄ってきて、背中にぎゅうっと抱きつく。

「カノンねえね、だいすき!」

「え、あ、うん……」


突然の抱擁に、カノンの頬がぱっと赤く染まる。

けれど、やさしい笑みが口もとに浮かんだ。


「リリアちゃん、パン冷めちゃうよ」

「だいじょうぶ、カノンねえねと食べたほうがぽかぽかするもん!」

「……もう、変なこと言って」


ベア先生がくすっと笑う。

「ふたりとも仲よしさんね。パンもスープも、きっともっとおいしくなるわ」


テーブルのあちこちから、「おいしいね」「これなあに?」の声が飛び交う。

パンをかじる音、スープをすする音。

食堂は朝の音楽みたいだった。


レオンはパンをくわえたまま、目を輝かせた。

「きょうぜったい外であそぶ! お山のトンネル、もっと大きくするんだ!」


すると隣のタクトが笑いながら言う。

「じゃあ、ぼくが手伝ってあげるよ。トンネルづくり、得意なんだ」

レオンの顔がぱっと明るくなる。

「ほんと!? やった! タクトにいちゃがいっしょなら、すっごいの作れる!」

「ふふ、じゃあ今日の隊長はレオンね。ぼくは助手」

「うん! いっしょに作ろー!」


その会話を、向かいの席でユウマが静かに聞いていた。

スープの湯気がゆらぐのを見ながら、

「……トンネルってさ、あなをつなげたら“みち”になるんだよ。すごくない?」とつぶやく。


タクトが首をかしげる。

「なにが?」

「だって、最初は“穴”なのにさ。掘り進めると“道”になるでしょ。

 それって、ちょっと大人みたいじゃない?」


ユウマの言葉に、タクトが少し考えて笑う。

「うーん、よくわかんないけど、なんかかっこいい!」

「でしょ?」と、ユウマも目を細めた。


その隣では、ミラがスープをすくっていた。

湯気の向こうでマリア先生が通りかかり、手にしたポポンを軽く動かす。

ガラス玉の目がきらりと光って、針糸の口が小さく開いた。


「ミラちゃん、ポポンだよ〜。きょうのスープはあったかいねぇ」

先生のやさしい声が、腹話術みたいにポポンの口から響く。


ミラはぱっと顔を明るくして、スプーンを止めた。

「うん! ポポンも食べたい?」

「ふふ、ポポンは見るだけでお腹いっぱいなんだって。

 でもね、ミラちゃんはちゃんとよく噛んで食べるんだよ〜」


ミラがえへへと笑い、スプーンを口に運ぶ。

「うん、ちゃんとかむね!」


ポポンの目がまた光り、その表情はまるで「えらいね」と言っているようだった。


マリア先生が静かに見守る中、ユウマがふとつぶやく。

「……ねぇ先生。スープのにおいって、“やさしい”ってかんじする」

「まあ、ユウマくん。いい言葉ね」

マリア先生の目が、朝の光を映して笑った。


パンの甘い香りと笑い声、スプーンの小さな音。それらがそっと溶け合って、食堂は“今日という新しい日”で満たされていった。


──朝食を終えると、子どもたちは順番に靴箱の前へ向かっていく。


レオンはスモックの裾を気にしながら、しゃがみこんだ。


朝の光が、レオンの短髪を金色に染めている。

彼はスモックの裾をきゅっと握りしめ、靴のかかとを押し込もうと必死だ。

「うーん……うまく、はいらない……」

小さな足の裏が木の床をぺたぺたと叩き、焦りが声に滲む。


背後から静かな足音。

レンがゆっくりと近づき、レオンの肩越しに腰を下ろした。


「こっちに傾けてみて」

レンの指が靴のかかとをそっと支える。

細い指先の体温が革越しに伝わり、レオンは息を止める。


「力を抜いて。大丈夫だから」

穏やかな声に合わせて、レンは軽く腕を回し、姿勢を支える。

ぴたりと寄り添う距離に、安心がすっと流れ込む。


「ここだよ」

指先が滑らかに動き、靴のかかとを整えてからやさしく押し入れる。

「ほら、入った」


「できた……!」

レオンは靴の中で足の指をそっと動かす。

ぴったりとフィットする感触に目を輝かせ、振り返って笑った。

「ほんとだ! れんにいちゃ、すごい!」


レンは照れ隠しのように頬を掻きながら、レオンの頭をぽんと撫でる。

指先が柔らかな髪を梳くたび、胸の奥にあたたかい何かが灯る。


「朝の準備、これで完璧だね。いっしょに行こ」

「うん!」


二人が並んで廊下を走り抜けていく。

その足音が、朝の園舎を明るく揺らした。



III 午前保育 ― おはようの会


園庭には朝の光が広がり、風にまじって子どもたちの声が響いていた。

木の枝のすきまから差しこむ陽ざしが、砂の上で小さな光を跳ね返す。

まだ空気はひんやりしていて、笑い声もどこか柔らかい。


──まずは、朝の“お別れ”の時間。


「リリアちゃん、おつきさま組の時間ですよ〜。」

ベア先生が歩み寄る。


「いやぁ〜〜っ! カノンねえねと離れたくない〜っ!」

リリアは華奢きゃしゃな両腕を目一杯伸ばして、カノンのスカートの裾をぎゅっと握り締めてしゃくり上げた。

幼い頬が涙でキラキラと光る。


カノンは一拍置き、小さな唇をほんの少し噛んだ。

目尻に微かなしわを刻みながら、静かに膝を折り曲げてリリアの瞳の高さへ降り立つ。


「……リリアちゃん」

囁き声と共に、カノンの白くて冷たい指先がふわりとリリアの絹のようなピンクの髪を撫でた。

震える肩にその滑らかな指が軽く触れる。


「よしよし」

短いけれど慈愛に満ちた言葉。吐息混じりのその音色は、リリアの荒れた呼吸をゆっくりと鎮め始めた。


「うぅ……カノンねえね……だいすきぃ……」

嗚咽おえつの合間に漏れる切ない告白。

「……わたしもだよ。」


次の瞬間、リリアはまるで砂糖菓子のようにカノンの胸に飛び込んだ。

温かい涙がカノンの薄いスモックの生地に染み込んでいく。

カノンは一瞬だけまぶたを閉じると、小さな頭を優しく抱きしめ返した。

自分の心臓の鼓動がリリアの耳元で響いているのがわかる。

それは確かに早く、しかし穏やかだった。


「まぁ〜! 今日も仲良しねぇ、二人で朝のハグダンスかしら!」

ベア先生はリリアの小さな体をそっと抱き上げ、にっこり笑う。


「またあとで会えるわ。ほら、お昼ごはんのときにね。」

「うん……カノンねえね……またあとでね?」

「うん。一緒に食べようね。」


ベア先生の肩の上でリリアがまだ手を振っている。

カノンは笑って手を振り返した。

その笑顔はいつもどおり穏やかだったけれど――

手を下ろした瞬間、胸の奥にぽつんと風が通った。


(……リリアちゃん、ほんとに甘えん坊だなぁ。)

そう思いながら、カノンは自分の指先を見つめた。

そこには、さっきまで握り返していた小さな手のぬくもりがまだ残っている。


(……どうしてこんなに、寂しいんだろう。)

無言のまま、カノンは自分の胸に小さな拳を当てた。

鼓動は確かに続き、その音がやさしい痛みを伴って全身へ広がっていった。


ふと視線を落とすと、スモックの胸元にリリアの涙のあとが小さな模様を描いていた。

陽の光に透けて、それはまるで銀色の花の跡のようだった。


ベア先生はその様子に目を細めると、

今度は向こうでレンにしがみついているレオンの方へ向かっていった。

どうやら、そちらも同じように“仲良しさん”の朝らしい。


そのあと、園庭の端ではおひさま組の子どもたちが「おはようの会」の準備をしていた。

ミラが小さな声で歌を口ずさみ、タクトがその音に合わせて手拍子を打つ。

クラスごとの輪がゆっくりと整っていく。


鐘の音が鳴ると、光の粒がふわりと舞い上がり、

朝の園はすっかり“いつもの一日”の顔になっていった。



IV 昼食とお昼寝 ― やさしい夢


おひさまが真上にのぼり、園庭の影がいちばん短くなったころ。

保育室には煮込みスープの香りが漂っていた。


この時間、保育室にはおひさま組とおつきさま組の子どもたちが集まる。

年長さんが下の子の世話をしながら食事をとるのが、この園のいつもの昼。

助けたり、助けられたり――それが“光の循環”になるのだ。


「はい、リリアちゃんのぶん。」

カノンがそっと皿を並べる。

リリアはスプーンを両手で持ちながら、満足そうに笑った。


「ねえねのスープ、あまい〜。」

「ふふ、あまいのはお野菜だよ。ちゃんと食べられたね。」

そんな穏やかな声のやりとりに、ベア先生が目を細める。


「おひさま係さん、今日もありがとう。」

カノンたちが「はいっ」と返事をして、席についた。


昼食を終えると、やわらかな音楽が流れる。

エミリー先生が絵本を片手に、そっと声をかけた。

「お昼寝の時間ですよ〜。」


園児たちは保育室で毛布を広げる。

淡い灯りが天井を照らし、空気がゆっくりと静まっていった。


物語の最後のページをとじると、エミリー先生はそっと立ち上がり、一人ひとりの寝顔を見てまわった。

タクトは毛布の端をきちんと揃えて眠り、

レンとレオンは手をつないだまま夢の国へ。

リリアは抱き枕をぎゅっと抱え、

カノンはその向こうで穏やかにまつげを揺らしていた。

ユウマはスケッチブックを胸に抱え、

小さな手のひらにはクレヨンのあとが残っている。


「……いい夢、見られますように。」

エミリー先生の声は、風鈴みたいに静かでやさしかった。



V 午後 ― 自由時間


午後の光はやわらかく、園庭の砂を金色に染めていた。

風が木の葉をゆらし、影がそっと地面をなでていく。


「……風の線、見えた」

タクトがぽつりと言った。

砂場に座って空を見上げたまま。

風が通るたび、旗や枝の影が細い糸みたいにゆれて、

それが本当に“見える線”になったようだった。


園庭の真ん中では、リリアがくるくる踊っていた。

ツインリボンが陽を受けて、ちょうちょみたいにきらきらと光る。

近くでは、灰紫の布地にボタンの目をしたうさぎのぬいぐるみ――パピンが、

折り紙の冠をのせてちょこんと座っていた。


「リリアちゃん、かわいい〜!」

「えへへっ!」

くるりと回るたび、スカートのすそが花びらみたいにひらめく。


そのとき、遠くの音楽室からピアノの音が聞こえてきた。

小鳥が木の上で鳴くような、やさしくてまっすぐな音。

リリアはぱっと顔を上げた。


「カノンねえねの音だ〜!」

風の中に声が弾む。

タクトがにっこり笑った。


リリアは両手を胸の前でぎゅっと合わせて、空に向かって呼んだ。

「カノンねえね〜! またピアノひいて〜!」


少しして、音楽室の窓が開いた。

カノンが顔を出して、髪を耳にかけながら笑う。

「リリアちゃんの踊り、また見たいな。」


「ほんと? じゃあいっしょね!」

リリアはうれしそうに笑って、靴先で砂をけった。

「カノンねえねのピアノきくと、からだが勝手におどっちゃうの!」


カノンの指が鍵盤の上でまた動きだす。

やわらかな旋律が午後の空気にとけて、

音とリリアの動きがひとつになっていく。


ユウマはその少し離れたベンチで、スケッチブックを膝にのせていた。

クレヨンを握る手が止まらない。


「これ、風が踊ってるんだよ。」

レオンがのぞきこむと、ユウマは少し照れたように笑った。

「ちがうよ。風と光と……リリアちゃん。」

「え、みんな? いっぱい描けるね!」

「うん。でもね、動いてるの描くのって、むずかしいんだ。」


タクトがその会話を聞いて、ぽつりとつぶやく。

「……なんか、ひかりが通ってるみたい。」

「えっ? どこどこ?」レオンが首をかしげる。


風が通り抜けて、木かげがきらめく。

空には白い雲がゆっくり流れ、

午後の時間はのびやかに、あたたかく進んでいった。



VI 夕方 ― お風呂と夕食


夕方の光が沈みはじめるころ、

寄宿舎の奥から、湯気と笑い声が聞こえてきた。


「きもちい〜!」

レオンが湯船のふちで手をぱしゃぱしゃさせる。

その横で、リリアが泡を両手ですくっては丸めていた。


「リリアちゃん、あんまり立たないでね〜。」

カノンがタオルを持ってそっと声をかける。

泡のひげをつくったリリアが、きゃはっと笑う。

「カノンねえね、見て! おひげさん〜!」

「ふふっ、かわいいね。ほら、流さないと風邪ひくよ。」

やさしい声に、湯気の中の空気がほころんでいく。


反対側では、レオンがシャボン玉を飛ばしてはしゃいでいた。

「わあっ、見て見て! でっかいの出た!」

泡が天井近くまでふわりと上がり、レンがその後を追う。

「すごいな。落ちる前につかまえるぞ!」

ふたりが笑いながら手を伸ばすと、泡は音もなく消えた。


そのすぐそばで、ユウマが湯の表面を指先でなぞっていた。

「……ねえ、見て。光、泡の中に入ってる。」

小さな声でつぶやくと、湯面の泡が金色にきらりと揺れた。

タクトが微笑んでうなずく。

「ほんとだ。ユウマくん、よく見てるね。」


タクトは少し離れたところで肩までつかりながら、

そんなみんなの様子を見守っていた。

「なんか、空の色まであったかくなってきたね。」

その言葉に、ミラがうなずく。

「うん。お風呂ってね、光がまるくなるんだよ」


湯気の向こうでは、寮母さんが微笑みながらタオルを広げていた。

「そろそろあがりましょうか〜。髪、しっかり拭くのよ。」


お風呂を出ると、寄宿舎いっぱいに洗いたての香りが広がっていた。

寮母さんがかごを抱えて入ってくる。


「はい、レオンくんのぶん。」

「わーい! いいにおい〜!」

「カノンちゃん、これはリリアちゃんのパジャマね。」

「はい。リリアちゃん、こっちのボタンだよ。」

「えへへ、ありがと!」


レンはレオンの前にしゃがみ込み、丁寧にボタンをかけていく。

「ほら、ここがちがってた。……うん、これでよし。」

「れんにいちゃ、すごい!」

タクトが微笑みながらタオルを肩にかけた。

「じょうずにできたね。二人とも、すっかりお兄ちゃんだ。」


全員の髪がふわりと乾くころ、

廊下の向こうから煮物の香りが漂ってきた。

「ごはんだ〜!」

レオンが駆け出し、みんなの笑い声がそのあとを追いかける。


食堂には、木のテーブルが夕映えを受けて並んでいる。

ベア先生の声が響いた。

「それでは、いただきます!」


夕食のテーブルには、炊きたてのごはんと湯気を立てるお味噌汁。

湯気の向こうでは、にんじんとじゃがいもの煮物がふっくら湯気を立てていた。


「いただきますっ!」

ベア先生の合図で、いっせいに手が合わせられた。


「このにんじん、ほっくほく〜!」

レオンがほおばりながら目を細める。

「ちゃんと噛んでね〜」とレンが笑うと、

「うんっ! ほら、ちゃんとかんでる!」とレオンが口をもぐもぐ動かす。


「ねぇ先生、今日のごはん、やさしい味〜」

ユウマの言葉に、ベア先生はふわりと笑った。

「それはきっと、みんなが一日がんばった味ですよ」


食後のワゴンがころりと音を立てて近づいてくる。

「さぁ、今日のデザートは――プリンです!」


「やったーー!!」

「プリン!プリン!」

食堂が一気に花咲くように明るくなった。


リリアはスプーンを両手で持ち、

「ねえね、見て〜! ぷるんってしてる〜!」

カノンは微笑みながら「リリアちゃん、こぼさないでね」と声をかける。


レンとレオンは目を合わせて息を合わせた。

「せーのっ」――スプーンが同時に沈む。


「おいしい〜!」

「まるでお星さまみたい〜!」


笑い声と甘い香りが重なり、

食堂はまるで金色のランプの中にいるみたいにあたたかく光っていた。


食後のテーブルでは、ベア先生がにこにこと言った。

「今日の“がんばり賞”は……カノンちゃん! リリアちゃんのお手伝い、ありがとう。」

ぱちぱち、と拍手が広がる。

カノンは少し恥ずかしそうにうつむき、リリアがうれしそうに抱きついた。

「カノンねえね、すごい! だいすき!」

「もう、リリアちゃん……くすぐったいよ。」


「みんなも、よくがんばりました。今日もいい日でしたね。」

ベア先生の言葉に、子どもたちはいっせいに手をたたいた。


外の空はもう群青色。

窓の向こうに、一番星が光りはじめていた。

夜が静かに、園をやさしく包んでいく。



VII 夜 ― 歯みがきとお世話


お世話室にはミルクせっけんの香りが残っていた。

「はい、みんなー、歯みがきタイムですよ〜」

寮母さんの声に、子どもたちが洗面台の前へ並ぶ。小さな歯ブラシがコップの中でカチャカチャと鳴った。


「くちゅくちゅ、ぺっ、くちゅくちゅ、ぺっ!」

レオンが調子に乗って歌いながら磨く。

その隣でタクトが水をくんで配っている。

「はい、次ミラちゃんのぶん」

「ありがとう、タクトくん」


寮母さんが順番に仕上げ磨きをしていく。

「レオンくん、あーんしてね」

「はーい……あ、くすぐったい〜!」

「動かないの〜、こちょこちょ歯になっちゃうよ」

夜の笑い声がやわらかく響いた。


磨き終わった子たちは、部屋の真ん中にある丸いラグの上へ集まっていく。

そこには、毛布にくるまったうさぎのぬいぐるみがちょこんと座っていた。

灰紫の布地にボタンの目、午前にもらった折り紙の冠をちょこんとのせて――パピン。

ミラが膝にのせて、そっと抱きしめる。


「きょうも、いっぱいあそんだね」

ミラが話しかけると、パピンのボタンの目が小さく光ったように見えた。

「うん! おやまのトンネル、さいこうだった!」


カノンがほほえんで言う。

「リリアちゃんの踊り、可愛かったね」

「わたしね、おふろで泡でひげ作ったの!」

リリアが胸を張ると、みんながくすくす笑う。


子どもたちの声が次々に重なり、

パピンはゆっくりとうなずくふりをした。

「みんな、きょうもがんばったねぇ。えらいえらい」

――腹話術のようなやさしい声。ミラが少し照れくさそうに笑う。


「パピンが言ってたよ。“明日も、みんなきっと笑ってる”って」

その言葉に、みんなの顔がふわっとゆるむ。

ユウマが小さな声でつぶやいた。

「……うん。ぼく、あしたも笑う」


レオンが大きなあくびをして、目をこすった。

「……夜がやってくるね……」

タクトが笑って、毛布を広げてあげる。

「そうだね。夜が来たら、おやすみの時間」

「うん……」

レオンがパピンを見つめながら小さくうなずいた。


部屋の灯りが少し落ち、

窓の外で虫の声がひとしきり鳴く。

その音を子守唄みたいに聞きながら、

子どもたちはひとり、またひとりとあくびをかみ殺した。



VIII 夜中 ― レオンとレン、ユウマのまなざし


夜はすっかり深く、窓の外では虫の声が細く続いていた。

寝室の常夜灯が、薄い金の輪のように床を照らしている。


レオンは、その光の中でふと目を覚ました。

胸の奥が、ちょっとだけざわざわしている。

手を動かすと、シーツの下がすこしひんやりしていた。


(……あ……)


レオンは息をのんで、そっと毛布をたぐり寄せた。

ぬれていない部分を探して、静かに体を丸める。

おむつが守ってくれたおかげで、布団は無事。

でも胸の奥の小さな罪悪感が、くすぶるように残っていた。


(だれにも、ばれませんように……)


けれど、その小さな気配に気づく人がいた。

隣のベッドで寝ていたレンが、ゆっくり目を開ける。

「……レオン?」


レオンはびくっと肩を震わせ、首をふった。

「な、なんでもない……」

「……寒いの?」

「ちが……うの……」

目が潤んで、声が震える。


レンはそれ以上聞かなかった。

静かにベッドを抜け出し、洗面棚のほうへ歩いていく。

引き出しから小さなタオルを取り出して戻ってくると、

そっとレオンの横に座った。


「だいじょうぶ。だれにも言わないよ」

レンの声は、夜の灯りよりもやさしかった。

「いっしょに行こっか。ね、寮母さんのところ」


レオンはためらったけれど、

レンの手がやさしく背中を押してくれた。

二人は足音を立てないように廊下を歩く。

足元灯がぽつ、ぽつと続いて、影が寄り添うように伸びていた。


宿直室の扉をノックすると、中からやわらかな声。

「どうしたの、夜のお客さん?」


寮母さんがランプを手に出てくる。

事情を話すまでもなく、彼女はすぐに察して、

しゃがんでレオンの目線に合わせた。


「だいじょうぶよ、レオンくん。ちゃんと守ってくれてたのね」

その言葉に、レオンの目がまんまるになる。

「まもって……?」

「そう。お布団をぬらさないようにしてくれたでしょ? えらいね」


レオンの肩から、少しずつ力が抜けていく。

「……うん……」と小さくうなずいた。


「あら……ちょっと濡れちゃったね。」


寮母さんが穏やかに言ったのに、

レオンは、ぱち、ぱち、とまばたきばかりしていた。


「……や……あの……」

声は出るけど、うまく形にならない。

服の裾をぎゅむっと握る。

指先だけが強くなって、肩は小さくすぼむ。


「だいじょうぶよ。痛いことしないからね。」


寮母さんは、お湯に浸した布を絞る。

ぽたっ、ぽたっと落ちるしずくの音が、胸に響いた。


そのとき――


「レオンくん。」


レンが、そっと横に座った。

手はつながない。

でも、ちゃんとそばにいる。


視線は落としたまま。見ないようにしているのが、レオンにはわかった。

けれど、その“見ない優しさ”がいちばんうれしかった。


レオンは、やっと顔をあげた。視線はレンに触れて、また落ちる。


レンは、ちょっとだけ息を吸ってから言った。


「レオンくん……こわかったの?」


言葉はやさしい。

押さない。急がせない。


「だいじょうぶだよ。

 ぼく、ここ。

 いっしょにいるからね?」


レオンの中で、なにかが少しだけやわらかくなる。


(……にいちゃ……ここ……)


呼吸が、

「す…は…」の短いのから

「すー……はぁ……」にゆっくり変わる。


寮母さんは、その呼吸に合わせるみたいに、

あたたかい布を、押すでもなく、こするでもなく、

やわらかくなぞった。


「……っ……ん……」


レオンは肩をすくめる。

でも、逃げない。


ただ、どうしたらいいのかわからないから、

体がちいさく震えるだけ。


レンはそっと、

レオンが握っている裾のすぐ隣に自分の手を置いた。

触らない。

けど、ちゃんとそこにある。


(……ちかい……あんしん……)


レオンは、ちいさく、こくんと頷いた。

握っていた指の力が、すこしゆるむ。


「……もうすこしでおわるよ。」

寮母さんの声は、まるい。


レオンは、ゆっくり息を吐いた。


「……にいちゃ……ありが……と……」


言葉になりきらない声。

でも、ちゃんと届く声。


レンは、にっこりして、

ぽん、と肩にそっと手を置いた。


「うん。

レオンくん、がんばったね。」


レオンのまつげが、すこしだけ震えた。

涙にはならない、

でも、心がほどけたときに出る、小さな息のふるえ。


「ほら、これであったかい。もう大丈夫よ」

レンがレオンの袖を手伝って通す。

「ありがとう、れんにいちゃ……」

「うん。もう寝よ。明日、またあそぼ」


二人は手をつないだまま、足音を忍ばせて寝室へ戻っていった。


ユウマは、半分眠りながらその様子を見ていた。

ランプの光が、二人の背中を淡く照らしている。

その光景が胸の奥にやわらかく広がり、ユウマは思った。


(……ああ、ちゃんと届いてるんだ。ぬくもりって、こうやって伝わるんだね)


まぶたの奥で光が静かにゆれて、ユウマは小さく息を吐く。


(ぼくも、いつか……ちゃんと、だれかを照らせるひかりになれるかな)


そのまま目を閉じると、夢の中で風の音が遠くに続いていく。

夜はふたたび静けさを取り戻した。



IX 終章 ― マリア先生とポポン


夜の園は、まるで大きな息をしているみたいだった。

寄宿舎の廊下を、マリア先生が静かに歩いていく。

足元灯がやわらかく灯り、窓の外には薄い月。


寝室の扉をそっと開けると、子どもたちの寝息が並んでいた。

規則正しいその音は、まるでひとつのやさしい歌。


マリア先生は、静かな灯りをたどるように寝顔を確かめて歩いた。

タクトはきっちり折った毛布に頬をうずめ、

レンとレオンは指先を絡めたまま、同じ夢の入口で肩を寄せている。

リリアは抱き枕をぎゅっと抱えて、吐息に合わせてリボンがかすかに揺れ、

カノンはその向こうで、長いまつげが月明かりをひとすじ受けていた。


ユウマも、窓際のベッドで静かに眠っていた。

枕元には開きかけのスケッチブック。

そこには、昼に描いた“風の線”が、まだ途中のまま色を待っている。

月の光がその紙の上をなぞり、描きかけの線がそっと揺れた。

まるで、夢の中で続きを描いているみたいに。


最後にマリア先生は、ミラの寝床の前で立ち止まる。

毛布の中でミラが、小さな声でつぶやいた。

「……ねむれないの……」


マリア先生はにこりと笑い、手にしていたぬいぐるみをそっと見せる。

「じゃあ、ポポンを呼んであげましょうか」


先生の腕の中から、ポポンが顔を出した。

茶色の布地に赤いリボン、ガラスの目が静かに光る。

「ミラちゃん、ポポンもいっしょにねんねしたいって」

ミラの目が少しだけ丸くなり、そしてゆるむ。


「……ほんと?」

「ほんとよ。ほら、ぎゅっとしてあげて」


ミラは小さな両腕でポポンを抱きしめた。

毛布の中に、ふたりぶんのぬくもりが重なる。

マリア先生が髪をなでながら、やさしくささやく。


「ポポンもね、ミラちゃんのことが大すきって」

「……うん。わたしも……だいすき……」

ミラの声は、もう夢の中のようにやわらかい。


「おやすみなさい、ミラちゃん」

「……おやすみなさい……せんせ……」


マリア先生は立ち上がり、部屋を見渡した。

ランプの光がひとつ、ふたつ、静かに揺れている。

どの寝顔も、もう安心の色に染まっていた。


そのとき、毛布の中からユウマの小さな声が聞こえた。

「……あしたも、あそぼうね……」


マリア先生はそっと目を閉じ、口もとに微笑みを浮かべる。

「ええ。あしたも、きっと――」


その言葉を子守唄のように、小さな声でつづけた。


♪ ねむれ、やすらぎの子どもたち

  夢のなかでも光の庭で

  あしたも、みんなで あそびましょう ♪


子守唄が流れはじめる。

音は風とまざり、天井の影をやわらかくゆらす。

眠りの世界が、ひとりひとりを包んでいく。


――園は静かに息をしていた。

光とぬくもりを胸に抱いて。



断章:ねえねだいすき!!の歌


(リリア)

ねえね ねえね だいすきよ

おててつないで おどりたい

ねえねの ピアノ きこえると

こころがぽかぽか おはなみたい


(カノン)

ふふ…… リリアちゃん、また踊ってるの?


(リリア)

うんっ ねえねの音が きらきらしてる

まるで おひさまが ゆびさきにすんでるみたい

ねえねが弾くと 空が笑うの

わたし その中で 風になれるの


(カノン)

あ……

……うん……






……







……胸が、ちょっとあたたかくなる。

それなのに、言葉が見つからない。


リリアちゃんがいないと、どうしてこんなに寂しいんだろ……


(リリア)

ねえね ねえね だいすきよ

ねえねの音が あしたをつくる

ゆめのなかでも いっしょだよ

おひさまみたいな ねえねがすき


(カノン)

わたしも……だいすきだよ



🕊 次回予告


第29話 光が閉じる夢


――光は、消えたわけじゃない。

ただ、夢の奥で静かに“閉じた”だけ。


絵本のページがめくられるたびに、

世界は少しずつやさしく壊れていく。


そして、ユウマは“夢の終わり”へと辿り着く。


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