第29話 光が閉じる夢
I 夢の声
――暗闇。
どこまでも深く、息の届かない闇の中で、声が響いた。
『ユウマくん、逃げて……!』
『ダメ……来ちゃダメ!』
ミサキとシホの声。
その響きは遠く、深い水の底から泡のように上がってくる。
顔は見えない。けれど確かに――ふたりは泣いていた。
ユウマは夢の中で手を伸ばす。
指先が触れたのは、冷たい何か。
次の瞬間、世界が軋むように揺れ、光がひび割れた。
(ここは……どこ?)
闇の底で淡い金色が滲む。
それは、目覚めの合図だった。
⸻
Ⅱ 宿直室の光
「……こちらエミリー。――node 5の状態確認?」
受信音の後、無機質な声が返る。
『node 5、出力エネルギーが警告域。
臨界値を下回るまで待機。――刺激は与えるな。』
画面隅に“Node_05:Yuma”。
緩やかに波打つ出力が、じわじわと沈んでいく。
エミリーは短く息をのんで、端末を胸ポケットに戻した。
「……了解。」
背後から、マリア先生の声。
「……ファクトリーリセットにならないといいけど。」
エミリーは振り返る。
マリアの微笑みは、どこか遠く、やさしさの奥で何かを隠している。
「嫌な仕事だけど、お願いね。」
言葉の重さを受け止めきれず、
エミリーはただ静かに頷いた。
灰色の廊下を歩き出す。
靴音が、誰もいない夜の園舎に乾いて響いた。
⸻
Ⅲ 寝室
部屋には七つの小さな寝息。
エミリーは静かに見回していた。
並んだ布団のひとつで、ユウマが小さく身じろぎをしている。
眉が寄り、夢の中で何かを追うように、唇がかすかに動いた。
「……ユウマくん?」
エミリーはそっと膝をつき、額の髪を払いのける。
その指先が頬に触れた瞬間――小さな手が、反射的にその手をぎゅっと握った。
「……あったかい……」
寝ぼけ声でそう呟き、ユウマは目を細めた。
半分夢の中にいるような表情。
そのままエミリーの手に頬をすり寄せるようにして、安心したように息をつく。
「うん、先生の手、あったかいね。」
エミリーは小さく笑みを浮かべ、そっと手を握り返した。
「もう大丈夫よ。怖くないからね。」
「……ん……せんせ……」
ユウマはそのまま体を起こしかけ、ふにゃりとした寝ぼけ顔のまま胸元に額を寄せる。
「ここ……いいにおい……」
エミリーは思わず肩を揺らして微笑み、やさしく頭を撫でた。
「ふふ……ユウマくん、まだねむいのね。」
そのとき、彼女の指先が布団の上をかすめる。
淡い影。わずかな湿り気。
(……びっくりしちゃったのね)
エミリーは何も言わず、そっと背を支える。
ユウマはまだ半分夢のまま、ぼんやりと見上げて言った。
「……せんせ……ねむい……」
「うん、ねむいね。でもね、ちょっとだけお着替えしようか。」
その言葉に、ユウマの瞳がぱちりと開いた。
遅れて自分の状態に気づき、頬がみるみる赤く染まる。
「……や、やだ……見ないで……!」
「見てないわ。大丈夫、先生だけだもの。」
エミリーは穏やかに笑い、ユウマの頭をぽんと撫でた。
「ね、いっしょに行こう。お世話室で着替えようね。」
ユウマはうつむきながら、まだ眠たげな声でこくりと頷いた。
その小さな手は、離れるときまでエミリーの指をぎゅっと握ったままだった。
⸻
Ⅳ 通知音
お世話室の蛍光灯が、淡い唸りを続ける。
ユウマは小さな声で鼻をすする。
「……先生、ごめんなさい。」
「いいのよ。怖い夢を見て、からだがびっくりしちゃったのね。」
髪をやさしく拭いながら、エミリーはスマホにちらと目をやる。
画面に、小さく点滅する文字。
【Node_05:Factory Reset Protocol / Execute】
空気が一瞬止まる。
指先がかすかに震えた。
(……やっぱり、来た。)
彼女は息を詰め、画面を伏せる。
唇の奥で、誰にも聞こえないように呟く。
「……ごめんね。」
⸻
Ⅴ 絵本
「ユウマくん、眠れないよね。
特別に、絵本を読んであげる。」
棚の奥から取り出されたのは、黒色の表紙の絵本。
タイトルはない。
エミリーの膝に座ると、心臓が早鐘を打った。
でも、声はやわらかく、あたたかい。
ページがめくられる。
――ぱらり。
その音が、どこか不気味に聞こえた。
⸻
エミリーの膝の上で、ユウマは小さく息をついた。
「ね、いっしょに見よう。怖くないよ。」
先生の胸の鼓動が、遠い波のように静かに伝わってくる。
けれど、ページの端を見ていると、そこだけ世界が薄く揺れていた。
さっきの悪夢の声が、耳の奥でよみがえる。
――『ユウマくん、逃げて……!』
――『ダメ……来ちゃダメ!』
ユウマは反射的に身をひねり、床に足をついた。
小さく駆け出す。お世話室の扉の方へ。
その瞬間、世界が歪んだ。
壁が柔らかいゼリーのように波打ち、花柄の壁紙がこちらを向いて笑う。
棚の上のぬいぐるみの目が、ゆっくりと動いた。
「そっちじゃないよ、ユウマくん。」
「こっちだよ。あそぼ……?」
声があちこちから滲む。
足元の床が沈み、影が足首を掴む。
「やだ……やだぁ……!」
光が音を失い、色が溶ける。
笑う花弁が伸び、影になって、ユウマを闇の中へ引きずり込んだ。
――はっと目を開ける。
また、エミリーの膝の上だった。
「どうしたの? ユウマくん。怖い夢でも見た?」
肩が上下し、呼吸が浅い。
エミリーは背を撫で、何も追及しない。
ただ、小さく微笑んでいる。
⸻
Ⅶ 夢のループ(2)
ページがそっとめくられる。――ぱらり。
紙の音と一緒に、遠くでオルゴールが鳴り始めた。
ユウマはまた立ち上がり、廊下へ。
冷たい床の感触。灯りの端、薄暗い角。
転がったオルゴールが、誰にも触れられていないのにくるくると回り出す。
丸い穴の奥、金属の歯が光る。
ぬいぐるみたちが輪になって、小さな糸の手でユウマの袖を掴む。
「こっちだよ、こっちであそぼ。」
「いっしょなら、こわくないよ?」
声はやさしい。だからこそ、怖い。
輪の中心は、黒かった。
覗き込むと、ぞわりと風が上がってくる。
見えない階段が、下へ下へと延びていた。
「ちがう……ちがうよ……!」
ぬいぐるみの手を振りほどこうとしても、
綿のように軽い力が、驚くほど強く離れない。
オルゴールの音が歪み、逆回転を始める。
音がほどけ、糸が切れ、色が裏返り――
――はっと戻る。
また、エミリーの膝の上だった。
「落ち着いて。もう大丈夫よ。」
けれどユウマは、自分でもわからなくなっていた。
どうして逃げているんだっけ?
さっきまで怖かったはずなのに、胸の奥がふわふわして、
頭の中で絵本のページがひとりでに開く。
⸻
Ⅷ 夢のループ(3)
ページの余白に、細い線が一本走っている。
それは亀裂のようで、毛糸のようでもあった。
「続き、読もうか。」
エミリーの声が、少しだけ楽しそうに響く。
ユウマは一瞬、首をかしげた。
――ぼく、どうして逃げてたんだっけ?
その疑問が浮かんだ瞬間、先生の指先がページを押さえ、
柔らかな声が重なった。
「さぁ――はじまりはじまり。」
ユウマの口元に、元気な笑顔が戻る。
「うん! 読むー!」
⸻
Ⅸ 朗読と終端
絵本の世界が広がる。
色とりどりの動物たちの笑顔。
楽しい音楽。
暴れん坊は泣いている。
ユウマはその輪の中に立っていた。
「うさぎさんが、暴れん坊の足もとに雪玉をころがしました!
ひゃっ、びっくりして、ころんじゃった!」
「うさぎさん、かわいいー!」
ユウマの声は明るい。頬が赤く染まる。
エミリー先生は、ふっと目を細めて微笑んだ。
「ほんとにかわいいね。うさぎさん、上手にできたね。」
そう言いながら、ユウマの髪をそっと撫でてあげる。
細い指先が優しく動くたび、彼の肩がくすぐったそうに揺れた。
「鳥さんは空から木の実を“ことん、ことん”。
コツコツ、コツコツ、暴れん坊は上を見上げて、まぶしそう。」
「とりさん、がんばれーっ!」
「うん、がんばってるねぇ。お空の上から、ユウマくんのこと見てるよ。」
先生の声はまるで風のように柔らかく、ページの空を撫でた。
ユウマは先生の袖をそっと掴んで、きらきらした目で空を見上げる。
「くまさんはどんと胸を鳴らして、みんなの前に立ちました。
“ふわふわの背中に隠れてごらん、怖くないよ”って。」
「くまさんすごいー! おっきいね!」
「そうねぇ、くまさんは力もちだもの。やさしい背中だね。」
エミリーの声は絵本の音楽に溶け、ページの森がふわりと揺れる。
ユウマは嬉しそうに先生の膝の上でもぞもぞと動き、
そのまま絵本に頬を寄せた。エミリーは小さく笑って、背中をぽんぽんと叩く。
ページの上の暴れん坊は、まだ抵抗している。
エミリーの声が少しだけ低くなる。
「でもね、暴れん坊は最後の力をふりしぼって、
まだみんなをこわがらせようとしたの。
どうぶつさんたちは言いました――
“ユウマくん、たすけて!”
さあ、ユウマくんの出番だよ。どうする?」
目の前に、傷だらけの暴れん坊。
浮かぶ四つの選択肢。
やっつける(次のページへ)
やっつける(次のページへ)
やっつける(次のページへ)
やっつける(次のページへ)
ユウマはまっすぐ絵本を見つめて言った。
「ぼく――やっつける!」
その言葉と同時に、ページが光を放つ。
ユウマの手に光の木の剣が現れ、暴れん坊の影を裂いた。
霧のように薄れていくその姿。
一瞬だけ、自分に似ている気がした。
でも、歓声がそれを飲み込む。
「ユウマくんはみんなを守って、暴れん坊を追い出しました!」
「やったーっ!」「ばんざーい!」
ユウマは笑って跳ねる。すっかり、絵本の中の子どもだった。
「えらいねぇ、ユウマくん。みんな助けてくれたんだね。」
エミリーは優しく頭を撫で、
頬を寄せて「よく頑張ったね」と小さく囁いた。
その声には、ほんの少しの震えがあった。
⸻
ページの色がやわらかく変わっていく。
空が夕焼けに染まり、森の動物たちが集まってきた。
エミリー先生の声が少し落ち着いて、あたたかくなる。
「どうぶつさんたちは、ユウマくんといっしょに夜空を見上げました。
お星さまがいっぱいで、みんなキラキラしていたの。」
「お星さま、きれい……」
「キラキラしてるねー。
うさぎさんが歌って、ことりさんが踊って、くまさんが拍手をしました。
“ユウマくん、ありがとう!”って言ってね、みんなで楽しい夜のパーティーをしたの。」
「パーティー!」
ユウマが声を上げて両手をぱっと広げる。
エミリーはくすっと笑い、頬をゆるめて、
「うふふ、にぎやかだね。先生もまぜてほしいな。」とそっと肩を抱いた。
「いいよー! せんせもきてー!」
「ありがとう。じゃあ先生はケーキ係ね。」
「ケーキー!」
声がはしゃいで、頬がほんのり赤く染まる。
ユウマは笑いながらエミリーに体を預け、
エミリーはその頭をそっと撫でた。
「おいしいケーキ、いっぱい作らなきゃね。」
その笑顔は、どこまでも無邪気でまぶしかった。
先生は続ける。
「みんなお腹いっぱいになって、やがて“おやすみなさい”の時間になりました。
ユウマくんも、みんなのまんなかで、目をとじました。
――楽しい夢を見ながら、ぐっすり眠りました。」
その途端、抗えない睡魔がやってくる。
ユウマの体がゆっくりと傾き、エミリーの胸にすべり落ちる。
絵本の光が滲み、星がひとつ、またひとつ、消えていった。
闇の底で滲む淡い金色が、静かに消え去った。
⸻
Ⅹ 白光のゆりかご
お世話室。
エミリー先生の膝の上で、ユウマは静かに眠っている。
エミリー先生は子守唄を口ずさむ。
その腕の中で、ユウマの瞼はゆっくりと閉じていく。
胸に抱かれ、優しくトントンと揺らされる。
まるで、生まれたばかりの赤ちゃんをあやす仕草そのものだった。
「……よく頑張ったね、ユウマくん。もう、大丈夫。」
その瞬間、淡い金色の光がユウマを包み込む。
光はまるでやわらかな膜のように広がり、彼の輪郭を静かにほどいていった。
肩も、腕も、指先も――しゅるりと糸がほどけるように形を変えていく。
小さな手足。ふっくらとした頬。すう、すう、と鈴のような寝息。
ユウマの小さな指が、そっと動いた。
空をつかむように伸びたかと思えば、エミリーの指先をぎゅっと握る。
その瞬間、彼女の喉の奥から、小さな息が漏れた。
「……そう、そこにいるのね。」
エミリーはその手を包み返し、微笑む。
頬に触れる赤子のぬくもり。小さな頭が胸の上にすり寄る。
ふにゃりと口を動かし、「ん……ふぇ……」と寝言のような音が漏れた。
「ふふ……かわいい子。」
エミリーはまぶたを伏せ、優しくトントンと背を撫でる。
「もう大丈夫。怖くないわ。」
その声は、まるで魔法の呪文のように穏やかで、
金色の光の中で、世界がゆっくりと凪いでいく。
ユウマの手が力を抜き、指が開く。
呼吸は鈴のように軽く、穏やかに。
エミリーは愛おしそうにその体を胸に抱き、
小さく、子守唄の続きを口ずさんだ。
「……おやすみ。ユウマくん。」
金色の光は次第にやわらぎ、
世界からすべての音を奪うように静まり返った。
どこか遠くで、無機質な声が囁く。
――Node_05:Cleared。
⸻
Ⅺ 搬送
夜明け前。
園舎の裏口。
搬出口には白い車が一台。
無機質な照明の下、手順通りの受け渡し。
「確認完了。node 5、移送対象。」
エミリーは頷く。
腕の中の小さな命は、金色の糸のような呼吸をしていた。
輸送班の手が伸びる。
抱き上げられる瞬間だけ、彼女は目を閉じる。
「……ごめんね。」
後部ドアが閉じる音。
黒い車のランプが滲み、エンジン音が遠ざかる。
無線から、ニュースが流れはじめた。
『本日、ヒーロー連合所属の“
怪人組織との交戦中に敗北したとの情報が入りました。
政府は現在、戦闘の詳細を調査中です――』
空が白み、風が、冷たい朝を運ぶ。
エミリーは静かに踵を返した。
園舎の壁に反射する朝の光が、
まるで小さなゆりかごのように揺れていた。
⸻
SYNC ROOM:Night Ops Summary
Node_05:Cleared(Factory Reset 完了)
Output Energy Level:0.00
Cognitive Layer:応答正常
Mobility Layer :応答正常
Emotion Layer:応答正常
そして、誰も知らないところで――
新しい波形が、何事もなかったように呼吸を始めていた。
⸻
断章:光の
……やさしかったろう。
抱かれ、撫でられ、眠ることを許されたのだ。
名を呼ばれ、祝福され、
やがて――呼ぶ声も消えた。
それが救いだと、誰もが信じた。
痛みを忘れることを、愛と呼んだ。
だが、光は減衰する。
やさしさに満たされた器の中で、
声も記憶も、
見ろ、輝きはもう息をしない。
温もりだけが形を保ち、
その奥で魂は静かに融けていった。
ああ、なんと穏やかな
ここでは泣くことも赦される。
それゆえ、二度と――目覚めはこない。
闇は平等だ。
罰もなく、嘆きもなく、
ただすべてを やさしく 包み込む。
……眠れ、名もなき光よ。
この沈黙こそが、最初で最後の愛だ。
⸻
🕊 次回予告
第30話
堕ちたヒーローに訪れるのは、罰ではなく――保育。
怪人ロラバイとぬいぐるみのポポンが、
優しくて、ちょっぴり恥ずかしい“反省の授業”を開きます。
ぺったんこ座り、ぺんぺん、そして涙のあとには――やさしい眠り。
⸻
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます