第27話 ふたりぶんの「すき」
朝の光が、白いカーテンのすきまからやわらかく差し込んでいた。
園舎の廊下はまだ少しひんやりしていて、足音が小さく反響する。
列のいちばんうしろ――ミラは、スモックの袖をきゅっと握りながら歩いていた。
あの午後から、まだ数日。
保健室で、マリア先生の胸の中に泣き崩れた日。
「泣くのは、こわれることじゃない。やさしくなること」――その言葉と、
“ユラン、ユラン”とほどける透明な音は、いまも胸の奥で灯っている。
あの日、ミラは知った。
胸の奥には“もうひとり”――ミレイがいて、
泣けなかった気持ちも、甘えたい気持ちも、まず最初に受けとめてくれていた。
それ以来、心の内側から、ときどき小さな袖を引かれるような気がする。
(ねえ、もう少し近く。だっこ、してほしい。)
「おはよう、ミラちゃん。」
エミリー先生の声に、ミラはびくっと顔を上げた。
けれど返事をするより先に、視線は自然にマリア先生を探してしまう。
見つけた瞬間、ふっと体がゆるんだ。
「……おはようございます……」
マリア先生が近づいて、髪をやさしく撫でる。
「おはよう。よく眠れた?」
指が髪をすべるたび、胸の奥でも同じ線がなぞられて、あたたかくなる。
(これ。いま、これがいるの。)
ミラは言葉の代わりに、エプロンの端をそっとつまんだ。
「あらあら、今日もマリア先生モードね。」
少し頬が熱くなる。(うん。いまは“ふたり”でいたい。)
⸻
午前の教室。
光が積み木やクレヨンを照らし、床の上で色の粒が踊っている。
子どもたちの笑い声はあちこちで弾け、世界はやさしく賑やかだ。
けれどミラは、輪の外で静かに座っていた。
指先でブロックを並べながら、何度もマリア先生をちらりと見る。
先生が近くにいるだけで、胸の中が落ち着く。
でも、ほかの子が抱っこされるのを見ると、胸の奥がきゅっと痛んだ。
(ねえ、いまは“わたしたち”の番がいい。)
上目づかいになる視線が、声の代わりに合図を送る。
「ミラちゃん、おいで。」
マリア先生がそっと手を差し出す。
一歩、足がすくむ――行きたい、でも恥ずかしい。
(だいじょうぶ。いこう。)胸の奥の小さな声が背中を押す。
ミラはちょこんと歩み寄り、先生のスカートの端をそっとつまんだ。
「……せんせ、ここにいていい?」
「もちろん。ここはミラちゃんの場所だよ。」
その微笑みに、ふたり分の安堵がふわっとほどける。
「えへへ……」
⸻
昼食の時間。
カチャカチャとスプーンが触れ合う音。
ミラはお皿を見つめたまま、手を止めてしまう。
(となりがいい。いっしょにたべたい。)喉の奥で、小さな輪があたたかく灯る。
「ミラちゃん、食べようか?」
エミリー先生に声をかけられて、ミラは小さく首を振る。
「……マリア先生がいいの。」
「ふふ、今日は特別ね。」
呼ばれて来たマリア先生が隣に腰をおろす。
「じゃあ、一緒に食べよ。」
それだけで、肩のこわばりがほどけた。
一口。上目づかい。(“おいしい?”ってきいて)――
「おいしい?」
「……うん。」
内側の頷きと外側の声が、ひとつの音になった。
賑やかな教室が遠のき、ミラの世界はマリア先生を中心に静かに回りはじめた。
⸻
食後、眠気がそっと降りてくる。
「ふわぁ……」小さなあくび。
(ねむい。あそこで、いっしょに。)ミレイが毛布みたいにまとわりつく。
「最近、ミラちゃん、マリア先生のそばが一番落ち着くみたいですね。」
エミリー先生が微笑む。
「そうね。じゃあ今日は、私の部屋でお昼寝してみようか。」とマリア先生。
「……うん。」
返事と同時に、胸の奥がぱっと明るくなる。
⸻
乳児室。
静かな光が、白い毛布をやさしく照らす。
マリア先生は棚から、小さなトレーニングパンツを取り出した。
「ミラちゃん、これに履き替えようか。」
「……うん。」
先生の前で着替えると、胸の内側でミレイが“よかったね”と拍手する。
「安心していっぱい寝ようね。」
その言葉が、内側の空気までふかふかにする。
「……なんか、ふかふか。」
「でしょ? “安心のパンツ”だもん。」
(あんしん、っていい音。すき。)
先生は微笑んで、ベッドの脇に置いてあった小さなくまのぬいぐるみを手に取った。
「この子ね――」
マリア先生はぬいぐるみを胸の高さまで持ち上げ、声を少し変えて言う。
「こんにちは、ぼくポポン。」
ミラはまぶたをとろんとさせたまま、口元をゆるめる。
「……んふ、こんにちは……ぽぽん、かわいい……」
先生はそっと笑い、ぬいぐるみの頭を撫でた。
「この子、いつも“おやすみ”の番をしてくれるの。」
「おやすみのばん……?」
「そう。眠っている間、怖い夢が来ないように見ていてくれるのよ。」
「……すごい。じゃあ、ミラもいっしょに寝ていい?」
「もちろん。」
ミラはぬいぐるみを抱きしめて、胸の前で小さく「ぎゅっ」。
「ふかふか……」
「ふふ、ミラちゃんと同じね。」
毛布にもぐると、身体と“中の子”が同じ姿勢で丸くなった。
ぬいぐるみを胸に抱いたまま、小さくあくびをもらす。
まぶたの奥で、やわらかな声が聞こえた。
(……て、つなぎたい……)
ミラはそっとぬいぐるみを見つめて、
「……せんせ、ぽぽんがね……て、つなぎたいって。」
マリア先生は少し目を細めて笑う。
「じゃあ、三人でぎゅってしようか。」
ミラはうれしそうに手を重ね、指をからめた。
「……せんせ、あったかい……」
「ずっと付いててあげるよ。」
その言葉に安心したように、ミラのまぶたがゆっくり落ちていった。
握られた手のぬくもりが、胸の奥まで流れ込んでいく。
親指が自然に口元へ――ちゅ、ちゅ……と小さな音。
(この音、おなかまであったかくなる。)
「かわいい寝顔……」と囁く声が、ふたり同時に聞こえた気がした。
マリア先生はそっと、指先でミラの髪を撫でる。
その仕草の奥――ガラガラの鈴が、かすかに光を帯びた。
――ユラン。ユラン。
透明な音が空気をわたり、眠りの奥へと細い道を描いていく。
マリア先生の瞳に淡い琥珀色の光が浮かび、唇がやわらかく動いた。
「……いい夢、見ようね。」
その声は、まるで風の子守歌。
光と音が溶け合い、ミラの呼吸と重なる。
握られた手の温もりに、まぶたの裏がじんわり明るくなる。
世界が音をなくし、遠くで鈴の音だけが細く残った。
⸻
まぶたの奥で光がほどけ、呼吸のリズムが小さくなっていく。
気づけば、今より小さな自分になっていた。
毛布のような温もりのなかで、もうひとりの自分――ミレイが先にその腕の中にいた。
ミラもハイハイで近づき、ふたりの体温がゆっくり重なっていく。
やがて境目が消え、ひとつの毛布になった。
「ママ、あったかい……」
『あったかいね。』
⸻
夕方。天井にやわらかな光。
指先に、ほんのり冷たい感触。
「……あ。」
トレーニングパンツの ピヨンちゃん が、
淡い黄色から、やわらかい青に変わっていた。
毛布の端を握る手が、きゅっと強くなる。
(だいじょうぶ、って言ってほしい。)
「おはよう、ミラちゃん。」
そっと近づいたマリア先生の声。
ミラはうつむいたまま、ぽつりと言う。
「……ピヨンちゃん、変わった……」
頭に置かれた手の重さが、胸の奥まで届く。
「ピヨンちゃんが、そっと教えてくれたんだね。」
「……ミラ、悪い子?」
上目づかいの瞳に、涙がにじむ。
(“悪い”って言われたくない。ここはあったかいから。)
「いい子だよ。――むしろ、やっと“安心を感じられる子”になったの。」
その言葉で、内側のミレイの肩も、そっと下りる。
タオルでやさしく拭かれ、「お着替えしようか。」
清潔な服に替わるたび、胸の奥の空気まで新しくなる気がした。
抱き上げられた瞬間――胸の深いところで何かが溶けた。
腕の中の温もりが、心のいちばん奥までしみ込んでいく。
――泣いていた“ミレイ”と、泣けなかった“ミラ”が、
いま、同じ温度で息をしている。
鼓動はやさしく、息を吸うたび光が満ちる。
現実ではなかなか届かなかった“まるごと抱かれる”感覚を、
ふたり分まとめて受け取っている。
(ねえ、ほんとうに来たね、あたたかい場所。)
(うん。いま、ちゃんといるよ。)
おでこを、こつん。
ふたり分の「すき」が、小さく鈴みたいに鳴った。
「……せんせ、すき。」
「ふふ。先生も、だいすき。」
⸻
廊下の向こうで、エミリー先生が小声で言う。
「マリア先生、ミラちゃん……本当にあなたにベッタリですね。」
マリア先生は少し笑って答えた。
「ええ。いまは“甘えが主導”の時期。広い世界より、ひとつの安心が必要なサインね。
甘えきることも、ちゃんとした前進なの。」
「なるほど……退行じゃなく、再構築。」
「そう。内側の“小さな子”が、やっと“外の腕”とつながりはじめたのよ。」
⸻
夕暮れ。窓の外の空が金色に沈む。
マリア先生がほかの子を抱っこしてあやしていると、
ミラはそっと近づいて、袖をちょんと引いた。
「……せんせ、ミラも。」
(ねえ、ここだよ、と呼んで。)少し寂しげな上目づかい。
「大丈夫。ちゃんと順番、覚えてるよ。」
「……ほんと?」
「ほんと。」
ふわっと表情がほどけ、小さな手が服をぎゅっと握る。
「……えへへ。」
「ミラちゃん、甘えられるの、すごく上手になったね。」
「……ミラ、がんばってる?」
「うん。がんばってる。」
(いっしょに、がんばってる。)
――そのとき、マリア先生はふと微笑んで、ミラの手を見つめた。
「ねぇミラちゃん。その“ぎゅっ”はね、先生への合図にしようか。」
「……あいず?」
「うん。“ここにいるよ”“だいじょうぶだよ”って、言葉の代わり。」
ミラは少し照れながら、もう一度ぎゅっと握った。
先生の服の皺が、小さな約束みたいに残る。
「……うん、これ、せんせとのあいず。」
風がふわり。カーテンが揺れる。
「先生ね、ほかの子を抱っこしてるときも、ちゃんとミラちゃんのこと見てるんだよ。」
「……ほんと?」
「ほんと。」
小さな笑み。頬をすり寄せると、
外側のミラと、内側のミレイの温度が、ふっと同じになった。
「……せんせ、だいすき。」
「先生も、だいすきよ。」
夕暮れの光の中、二人の影が静かに重なる。
母と子がひとつの心を分け合う、短くて、満ちた時間。
その中心で――胸の奥の“もうひとり”も、たしかに抱かれていたままだった。
――そのぬくもりが、明日も続くと信じて。
翌朝、ミラは少し照れくさそうに、それでも自分から「おはよう」を言った。
⸻
🕊 次回予告
第28話 あしたもあそぼうね ーフェイクエンドー
小鳥の声で始まり、子守唄で終わる――。
保育園で暮らす子どもたちの、一日のやさしい記録。
朝の光、パンとスープの香り、涙と笑い、そして夜の安心。
リリアの踊り、カノンのピアノ、レオンの勇気、レンの思いやり。
ぬいぐるみのポポンとパピンも見守るなか、
マリア先生の子守唄が、すべてを静かに包みこむ。
“おやすみ”と“またあした”がつながる場所――
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