第26話 壊れて、やっと見えた青

午後の保育室には、やわらかい光が満ちていた。

子どもたちの声は遠く、光だけが静かに揺れている。


この時間は「自由あそび」。

机の上には、クレヨンも積み木も、ままごとのお皿も並んでいる。

子どもたちはそれぞれの小さな“世界”を作っていた。


窓の外では、風が葉を揺らし、笑い声が遠くに溶けていく。


ユウマはその中で、静かに紙に向かっていた。

白い紙の上、クレヨンの青が少しずつ空の形を描く。

コップの中の水は、たぶん絵を洗うためのもの――

けれど誰のものだったのかは、もう覚えていない。


その青は、ユウマにとって“自分”そのものだった。

静かで、広くて、だれも入ってこない空。


そこへ、ぱたぱたとスモックの裾を揺らして、ミラが近づいた。


「なに描いてるの?」


ユウマは一度だけ顔を上げ、「……そら。」とだけ答えた。


「ふーん。みせて!」

ミラが覗き込み、机に手をついた。

その瞬間――コップの水が、かすかに揺れて倒れた。


ざぶん。


青の上に透明な水が落ち、滲み、広がっていく。

空が崩れ、白が消える。


ユウマは一瞬、息を止めた。

目の前で、描いていた世界がゆっくりと壊れていく。


ミラが「あっ」と声をあげ、次の瞬間――照れ隠しみたいに、ふっと笑った。

ほんの一瞬の、その笑い。

けれどユウマには、それが“嘲り”に見えた。


――心の中で、何かがカチリと音を立てる。


大事な絵が、壊された?

どうして笑ってるの?

どうして謝らないの?

ぼくの空なのに。


胸の奥が、燃えるように熱くなった。

喉がからからに乾き、視界がぐにゃりと歪む。音が遠のく。


守らなきゃ。ぼくの世界を。誰にも、もう触らせない。


気づいたときには、手が勝手に積み木を掴んでいた。

時間がゆっくりになり、青だけが残って他の色が消える。


ガツン――。


世界が止まり、音も光も一瞬消えた。

小さな身体を、はじめて知る衝撃と痛みが駆け抜ける。

ミラは後ろによろめき、机の端にあたる鈍い音。

静寂。


すぐに現実が洪水みたいに戻る。

「ぎゃぁあぁ……!」ミラの泣き声。

先生たちの足音が近づき、エミリー先生が二人の間へ。


「どうしたの!? ミラちゃん、ユウマくん!」


ユウマは答えられなかった。喉がふさがって声が出ない。

ミラは額を押さえ、しゃくりあげる。

先生は慌てず、机の上を見た。濡れた紙、滲んだ青、転がる積み木、倒れたコップ。


先生の表情が、ひと呼吸だけ曇って、すぐに穏やかに戻る。


「大丈夫、びっくりしたね。ちょっと見せてね。」

救急箱のガーゼをやさしく当てて、「ここ、少し赤いだけ。大丈夫だよ。」


そしてユウマへ、責めずに、静かに。

「ユウマくん、あとでゆっくりお話ししようね。」


――叱るでも問い詰めるでもない、“わかってるよ”の声色だった。



夕方。

手のひらだけが、やけに重い。


止められなかった。どうして。

ミラちゃん、泣いてたのに。女の子なのに。

胸の奥がぎゅっと痛む。

怒りだったのか悲しみだったのか、全部まざって、何も見えなかった。


ぼくの中に、あんな自分がいるの?

また出てきたらどうしよう。ぼく、自分がこわい。


小さな足音が近づく。


「……ユウマくん。」


エミリー先生が隣に座る。

「今、お話していい?」

ユウマは小さくうなずいた。


「……ぼく、わかんないの。なんであんなことしたのか。

 手が勝手に動いて……。怒ったのかも、わかんない。

 でも……相手は女の子なのに……。ぼく、自分がこわいの。」


声が震え、言葉がほどける。涙がぽろぽろ落ちる。


先生は少し沈黙してから、静かに問いかけた。

「ねえ、ユウマくん。あのとき、どんな気持ちが一番強かった?」


ユウマはしばらく考えて、ぽつりとつぶやく。

「……びっくり、した。ぼくの空、いきなりこわれて……

 ミラちゃんが笑ったのが、なんでかこわくて……

 ほんとは怒りたくなかったのに……体が、びくってして……」


言葉が詰まり、唇を噛む。

「ぼく、ミラちゃんが悪い子だなんて思ってないのに……。」


先生はそっと腕をひらいた。

「おいで。」


ユウマは胸に顔をうずめた。心臓の音が、とん・とん。

背中を包む手が、ゆっくり動く。


「こわかったね。」

その一言で、涙があふれた。


「ぼく……ミラちゃんを泣かせちゃった。痛かったと思う。

 ごめんなさいって言いたいけど……顔を見るのが、こわいの。」


「ユウマくん、それは“優しさ”だよ。」


ユウマが顔を上げる。「え……?」


「『痛かった』って感じられるのはね、ちゃんと優しい心が生きてるってことだよ。

 その優しさがあるなら、もう大丈夫。ちゃんと気づけるよ。」


「でも……また怒っちゃうかも。」


「そのときはまた先生がギュウして、一緒に考えよう。

 怒ったり怖くなったりするのもね、ユウマくんが一生けんめいな証拠なんだよ。」


うなずくたびに呼吸が整っていく。

夕暮れの冷たさは、もう感じなかった。



翌朝。

ミラは額に小さなガーゼを貼ったまま。


かつてのミラなら、怖さを隠して笑おうとしたかもしれない。

でも今は違う。

ミレイとの時間を経て、「他人に甘えること」を覚えたミラは、

ちゃんと涙を見せられる子になっていた。


教室に入ると、エミリー先生がやわらかく声をかけた。

「大丈夫? まだ痛む?」


ミラは小さく首を横に振り、

そのまま先生のズボンに手を伸ばして、ぎゅっと掴んだ。

エミリー先生がそっと抱き上げる。

エプロンごしの鼓動、とん・とん――安心の音。


最初、ミラは顔を上げられなかった。

小さな手がエプロンの端をつまみ、何度も握ってはほどく。

やがて先生が、そっと支え直して言う。


「ねぇ、ミラちゃん。お顔、見せてくれる?」


ためらいながら、ゆっくりと顔を上げる。

涙を湛えた瞳が、上目づかいで先生を捉えた。

その目が合った瞬間、ミラの唇が小さく震える。


「……せんせい……」

ぽと、涙が一粒おちた。

「わたし……ユウマくんの、たいせつな絵……こわしちゃった……。

 すぐ、ごめんなさいって言えばよかったのに……

 ――わらっちゃったの。へんな声、でちゃって……。

 わらったら、わるい子だって、思われるって……こわくて……」


言葉がつかえて、ぽろぽろと涙が増える。

「せんせい、わたし、わるい子?」


エミリー先生は逃げずに目を見て、やわらかく首を横に振る。

「ちがうよ、ミラちゃん。こわくて固まっちゃっただけ。

 “笑い”はね、からだがびっくりしたときにも出ちゃうんだよ。だから大丈夫。

 ミラちゃんは、わるくない。」


ミラはしゃくりあげる。

「でも……ユウマくん、かなしい顔してた……。

 わたし、どうしたら、いいの……?」


先生は背中をとん、とん。

「今みたいに気持ちを話せたね。それがいちばんの“よくできました”だよ。

 それから――『ごめんね』を、ゆっくり言いに行こう。

 “こわかった”ってことも、一緒に伝えようね。先生と練習しよう。」


「……れんしゅう、する……」

「えらいね。」


ミラが小さくうなずくと、先生は続ける。

「それからもうひとつ。ユウマくんの“あお”は壊れたけれど、

 ふたりでなら、もっと大きな空にできるよ。

 新しい紙にね、“ごめんね”の気持ちを描こう。」


ミラの涙が、金色の光を帯びて頬をつたう。

「……つくる。いっしょに、あお、つくる……」

「うん。先生も手伝うから。」


ミラは先生の肩に頬を寄せ、深く息をした。

怖さがほどけて、胸の中にあたたかい場所がひとつ増える。



少し離れた机で、ユウマはその光景を見ていた。

胸の奥がきゅっと痛んで、すこしあたたかい。

――ミラちゃん、ちゃんと話せたんだ。

ぼくも、また描けるかもしれない。


クレヨンをそっと握る。

青が、紙の上にゆっくり戻っていく。

昨日より少し、明るい青で。


ミラが先生の腕の中から顔を上げ、ユウマを見つける。

目が合う。ためらって――それでも、小さく言えた。


「……ユウマくん……きのうは……ごめんね。

 こわくて、わらっちゃって、……ごめんね。」


ユウマは、青の先端をすこし持ち上げた。

「……うん。ぼくも……こわかった。

 ――いっしょに、あお、つくる?」


ミラの目が、ふっと笑う。

「つくる。」


エミリー先生が新しい大きな紙を用意して、机の中央へ。

「ふたりの空、スタートです。」


青と青が、紙の上でそっと出会う。

ミラは薄い水色を、ユウマは深い群青を。

境目で色がまざり、新しい空の色が生まれる。


「青、戻ってきたね。」

先生の声。

ユウマはうなずく。「うん……でも、前よりあかるい。」

「ふたりの光がいっしょになったからだよ。」


ミラは泣きはらした目で笑って、もう一度、はっきり言った。

「ユウマくん、ありがとう。……ほんとうに、ごめんね。」

「ぼくも、ごめん。――ミラちゃんと、描けてよかった。」


教室の光が紙の上で跳ねる。

昨日まで知らなかった色が、そこに広がっていく。


―― こわれて、はじめて見える空がある。

その空の下で、やっと甘えられるようになる。



🕊 次回予告


第27話 ふたりぶんの「すき」


数日前、心の奥に眠る「泣けない自分=ミレイ」と向き合い、初めて涙を流したミラ。

マリア先生の腕の中で「泣くことは、こわれることじゃない」と教えられた彼女は、少しずつ“甘え”を覚えていく。

マリア先生のそばで過ごす一日――それは、もうひとりの自分と外の世界が、やっとつながる時間。

小さな手が握り返すたびに、もう1人の自分が目を覚ましていく。


「甘えることは、前に進むこと。」

そんな“再構築”の物語。


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