第25話 おませトリオ、ねむねむに散る ― エミリー先生の戦い ―
――午後。
カーテンの向こうで、陽ざしがやわらかく丸くなる時間。
「おひるね前の、よみきかせの時間ですよ〜。」
エミリー先生が絵本を胸に抱えて、にっこり。
その瞬間、敷かれたコットの上で三つの影が同時にむくり。
ユウマ、タクト、リク――園の“おませトリオ”。
「先生、ぼくら、もう赤ちゃんじゃないから」
ユウマが腕を組む。
「こんなので眠くなるわけ、ないよねぇ〜?」
タクトがしたり顔。
「先生、それは非現実的です。科学的に考えて」
リクは作り声で胸をそらす。
「おやおや。」
エミリー先生は目を細め、絵本を膝にのせた。
「じゃあ今日はね、先生が“ねむねむの声”でお話するから、みんなはどこまで起きていられるか、やってみようか。」
三人は顔を見合わせて、こくり。
布団がさくりと鳴り、他の子たちは横向きに落ち着く。
空気は牛乳みたいに白く、ぬるく、やさしい。
先生の指が、一枚、ゆっくりページをめくった。
⸻
最初は、紙のこすれる音だけ。
でもユウマの耳には、砂に小さな足あとが増えるみたいに聞こえた。
絵本のタイトルは『ひかりの森のちいさなみち』。
くるりと丸まった道の絵。
「ここは“ねむの木”の下です。」
先生の声は蜂蜜みたいにやわらかい。
「ねむの木の下を歩くとね、まぶたに、ふわふわの影がさすの。」
(……影で眠くなるなんて、ないない)とユウマ。
けれど目の端で本当に影がゆれ、指先から力が少し抜けた。
「森の入り口で、きつねがしっぽをふりました。『こっちだよ』」
その言葉に合わせ、ユウマの肩口をこしょ、と風。
枕元で、ふわりとしっぽが揺れた気がして――
「ふへっ」と、思わず笑いがこぼれる。
リクが袖をつまんで、声をこぼした。
「ゆ、ユウマ……きつね……いた……」
見ると、リクのまつげが蝶の羽みたいにふたひら。
先生がそっと近づいて、膝をついた。
「リクくん、鼻からすー、口からふー、できる?」
「すー……ふー……」
息がほわっと広がり、まつげがひとつ震える。
声はもう、眠たげな夢の温度。
「じょうずだね。そうそう、その呼吸でね、心がおやすみするの。」
リクはかすかに眉を寄せて、小さな声で言う。
「……ちがう……ぼく、おやすみについて……しらべてただけ……」
エミリー先生がくすっと笑って、髪を耳にかける。
「ふふ。じゃあ博士さん、今日は難しい研究はひと休みして――
“夢の世界”について、研究してみようか。」
「……夢の世界?」
「そう。ねむの森ではね、みんな“ねむねむさん”になって、夢の研究をするの。」
「……ねむねむさん……」
「うん。力を抜いて、深呼吸して。ほら、“夢の研究”の旅に出発だよー。」
「……すー……ふー……」
息のたびに、胸の中がぽかぽかとあたたかくなっていく。
手足の力がゆるみ、毛布の重みが心地いい。
「……せんせ……ぼく……夢の世界の研究……する……」
「うん、それが今日の実験ね。」
小さな手が毛布の上でとろりと落ちる。
「……ぼく……もう博士やめて……ねむねむ博士になる……」
「ふふ。上手に変身できたね。」
まつげがひとふるえ。ことりの羽音みたいな息がひとつ。
「……おやすみ、リクくん。大発見があるといいね。」
その言葉に包まれるように、リクの呼吸がふわりと落ちた。
まるで夢のノートを開くように、静かに――。
(早っ!)ユウマが心でつっこむ間に、次のページ。
⸻
「角を曲がると、ことりが『こっちこっち』って、羽で風を送ります。」
額にやさしい風。
ユウマの前髪がひと筋だけ持ち上がる。
横のタクトは、あくびを飲みこみながらも意地っ張りの顔。
「ぼ、ぼくは……へいき……」
タクトが毛布の中で小さく拳を握る。
エミリー先生はそっとその手をほどき、髪の毛を一筋、指でなでた。
「タクトくん、風さんが髪をなでてるよ。ほら、ふわ〜って。」
「……ふわ〜……?」
「うん、“ねむの森”の風。がんばった子の頭をなでて、“もうだいじょうぶ”って言うの。」
「……ぼく、まだがんばれるもん……」
「ふふ。タクトくんはいつも一生けんめいだもんね。」
先生の指先が髪をすべるたび、空気がすこしあたたかくなる。
「でもね、“がんばるのをやめる”のも、がんばりのひとつなんだよ。」
「……やめるのが……がんばり……?」
「そう。風さんはね、がんばった子に“おやすみのごほうび”をくれるの。」
「……ごほうび……」
タクトのまつげがふわりと揺れる。
「いま、その風がタクトくんを包んでるよ。ほら、頭のうえ……」
先生が小さく息を吹く。そよ、と風の音。
「……あ……きた……ぼくにも……ねむの風……」
「うんうん。ちゃんと来たね。えらいね。」
「……じゃあ……もう……がんばらなくていいんだ……」
「そう。もう大丈夫。おやすみの時間だよ。」
タクトの口もとがふにゃっと笑って、毛布の端をぎゅ。
まつげが一度ふるえて、すとん。
風に包まれるように、寝息が静かに落ちていった。
(タクトまで……!)ユウマ、残り一人。
⸻
先生の指が白い月みたいにページをすべる。
「道の先で、子鹿がぴょんって跳ねました。」
“ぴょん”が胸の奥で本当に跳ね、お腹がころり。
コットの金具に、コテン、コテンと小さな音。
「森の真ん中、泉のそばで、くまが大きく息をしました。すって、はいて。」
先生が見本の呼吸をすると、ユウマの胸も勝手に合わせてしまう。
(まずい……でも、きもち……)
まつげに光の粉がちょこん。
まぶたが少し重たくなる。
先生が小さな声でたずねる。
「ユウマくん、まぶた、ねむの木の影に入ってきた?」
「……入って……ない……です……」
(声がふにゃってる! がんばれ、ぼく!)
「森の出口に、白いうさぎ。『ここからは、もっと静かな道だよ』」
“もっと静かな道”。その言葉だけで、耳の奥がぽかぽか。
ユウマは思わず、先生のほうへころりと体を傾ける。
(……ちょっとだけ。あったかい……)
「ひかりの道を、ころころ転がる小さな星がありました。ひとつ、ふたつ、みっつ。」
ひとつ、胸にふわ。
ふたつ、お腹にころん。
みっつ、額にぽん。
頭のてっぺんで、ちいさなスイッチが“カチン”。
(――あ。いま、いける。落ち方、わかった。)
でも、最後の意地が小さくむくり。
(ここで寝たら、赤ちゃんみたいって思われるかも……)
先生の手が、ユウマの毛布の上にそっと置かれる。
「ユウマくん、ここからは“先生のとんとん”を使うね。
これは、“ねむっても大丈夫”っていう、安心のしるしなんだよ。」
⸻
魔法(まほう)のとんとん
胸のまんなかに、“とん。……とん。”
音じゃなくて、ぬくもりで刻むテンポ。
二拍目が、すこしだけ長い。
二つめで、息がゆっくりほどける。
「とん……とん……ユウマくんのまぶたにも、ねむの木の影がおりてきたよ。」
「……せんせ……とんとん……だめ……」
――トン、と響くたび、ユウマの体の奥からふわりと空気が抜けていく。
「とん……とん……ふふっ、だめって言ってもね。もうユウマくんの体が“ねむねむさん”になってきてるよ。」
「……ぼくは……ねむけなんかに負けな……」
「とん……とん……気持ちいいね。風さんが、ユウマくんのまつげをなでてるよ。」
「……ふわぁ……あったかい……」
胸の中がゆっくり軽くなって、足先が雲の上に浮かぶみたい。
肩がとろけ、指先が夢のほうへ吸いこまれる。
「とん……とん……そう、あったかいね。そのまま、夢の風にまかせてごらん。」
「……やだ……まだ……行きたくない……」
ユウマは小さく首を振って、毛布をきゅっと握る。
「夢に行ったら……赤ちゃんみたいに……なるもん……」
わずかな理性で、夢のすべり台の手すりをつかんだ。
先生はそっとユウマの髪をなでながら、声をやわらかくする。
「大丈夫。先生がついててあげるからね。こわくないよー。
それにね、眠るのは赤ちゃんだけのものじゃないの。」
ユウマのまぶたが少し揺れる。
「……え……」
「大人も、子どもも、みんな“ねむねむさん”になる時間があるの。
だから今はね、赤ちゃんみたいにねむねむしても、誰も笑わないんだよ。」
ユウマの胸がゆっくり上下して、ふうっと小さく息が抜けた。
「……せんせ……あったかい……」
「うん、あったかいね。安心して、夢の世界にすべっていこうね。」
世界がまるごとやわらかく揺れて、毛布の重みさえも遠くなっていく。
――時間が、ひと呼吸ぶんだけ止まった。
まぶたの奥が光の粒で満たされて、
音も匂いも、すべてが“おやすみ”の色に変わる。
夢のすべり台のふちにあった手が、
とろんとほどけていった。
「あ……すべる……いく……せんせ……」
まつげが一度、二度、ちょうちょみたいにふるえて――
ほっぺが毛布にぽすん。
口もとがちょっとだけ“むに”。
手のひらは胸の上で小さく丸まる。
すう。……すう。
かわいい波音が、胸から始まって部屋にひろがった。
「とん……とん……うんうん、上手に行けたね。夢のほうへ、いってらっしゃい。」
⸻
しじまのラストページ
部屋は、寝息の合奏。
リクは最速、タクトは二番。
ユウマは、胸の上で手をぎゅっと重ね、完璧な“昼寝の顔”。
エミリー先生は、最後の一文をそっと落とす。
「――そしてみんなは、ひかりの上で、安心して、おやすみなさい。」
パタン。
絵本が閉じると、やわらかな音の輪が布団の上に広がった。
先生は一人ひとりの肩に、羽みたいに軽い手を置いて回る。
「おやすみ、リクくん。今日の実験は大成功だね。」
「おやすみ、タクトくん。ことりさんも一緒にね。」
ユウマのところでは、胸にもう一度だけ、ちいさく“とん・とん”。
「はい、これでおしまい。みんな、ちゃんと眠れたね。
今日は“ねむねむの勝ち”だよ。」
その囁きが毛布の中で小さく弾け、寝息がひとつ、深く落ちる。
眉間のしわがほどけ、ほっぺがぷにっとゆるむ。
カーテン越しの光が、午後の白をすこし薄め、影を長くする。
時計の秒針は、静かな部屋にやさしく溶けた。
先生は絵本を胸に抱え、ゆっくり息を吐く。
――今日も無事、みんなが眠りへ。
口元に、いたずらっぽい笑みがかすかにのぞく。
(ふふ。いい勝負でした。)
椅子に腰を下ろし、寝息のリズムに耳を澄ます。
その呼吸に合わせて、先生もゆっくり深く息をする。
窓の外で、風が白い雲の端をひとひら、そっとちぎった。
静かな午後に残ったのは、閉じたページの音と、すやすやの音だけ。
そして絵本のなかのきつねとうさぎは、きっと今も、
ユウマの夢の上を、ぴょん、と駆けている。
⸻
次回予告
第26話 壊れて、やっと見えた青
クレヨンの青がこわれた日、
ふたりは“いっしょに描く”ことの意味を知った。
優しさを混ぜた空は、昨日より少しあかるい。
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