第24話 ふたつの涙が、ひとつになる音
保健室――。
カーテン越しの光がやわらかく床に落ち、空気はひとつぶの粉砂糖みたいにきらめいていた。
小さなクッション、小さなブランケット。
そして――手のひらサイズの透明な鈴入りガラガラがひとつ。
「ここ、すわろっか。」
ミラは小さな椅子にちょこんと座り、つま先を合わせたり離したり。
胸の奥はまだこわばっている。
マリア先生はそばにしゃがみ、琥珀色の瞳でやわらかく微笑んだ。
その声は、毛布をふんわり掛け直すみたいに静かだった。
「今日は“やさしい時間”にしよう。むずかしいこと、ひと休み。」
ガラガラをそっと持ち上げ、耳もとで、ほんのすこしだけ振る。
――ユラン。ユラン。
細いガラスの糸を撫でたみたいな、かすかで透明な音。
肩の力が、少しほどけた。
「ミラちゃん、ここ、ぎゅってしてもいい?」
マリア先生が腕で小さな輪っかを作る。ミラはためらいながら、その輪っかに身体をいれる。
胸に背中が触れ、ことことと一定の鼓動。
「よしよし。今日は“泣かない”のは、おやすみ。」
胸がきゅっと鳴る。――泣かないのが、いい子。ずっと、そう思っていた。
――ユラン。ユラン。
抱擁が、すこしだけ強くなる。ミラの意識が、静かに内側へ沈んでいく。
ぎざぎざに尖った黒い光――悲鳴の形。
一歩、近づいた瞬間――ドン、と胸の内側で見えない何かが叩きつけられた。
視界がきしみ、耳の奥が金属みたいに鳴る。
『――来るな。』
低く焦げる声。
次の瞬間、黒が爆ぜた。
影が燃え上がったみたいに熱を帯び、渦を巻く。
(……っ!)
恐怖が足首から這い上がり、膝がふるえる。
幼い身体が知らないほどのこわさ。
その瞬間、遠くで“現実”のマリア先生の腕が、ミラの小さな体をぎゅっと包む。
温もりが、恐怖をなぞって溶かしていく。
――ユラン。ユラン。
音が、世界の境界をやわらげる。
光が、渦の中に道を描く。
渦の中心で黒が形をとった。
泣いている子――でも目は怒りで赤く燃え、輪郭は牙のように尖っている。
ミラに似た顔。
『どうして捨てたの。どうして“きれいなミラ”だけでいたの。
さっきだって、おもちゃ、ほんとは遊びたかったくせに。
わたしの声、踏みつけて、笑った!』
(……そうか。たしかに、あのとき……)
胸の奥が締めつけられる。
けれど、逃げたくない。
『どうして心配する私に、汚い!いなくなればいい!って言ったの!』
「……おぼえてないの。
でも、たしかに言ったのかも。……ごめんなさい。」
『ごめんなんて、いらない!』
怒りの風圧。影の嵐が吹きつける。
ミラは目を閉じ――一歩、踏み出した。
「ほんとうはね、わたしも、さみしかったの。
あなたが泣くと、こわくて……どうしたらいいか、わからなかったの。」
『……うそ。どうせ、また“いい子”ぶるんでしょ……?』
「ううん。」小さく首を振る。
「“いい子”でいるの、もうやめたいの。だって、あなたが泣くと、胸が痛くなるんだもん。
ねぇ、痛いのって、いっしょだったんだよね。」
『……痛く……なる……?』
「うん。だって、あなたも、ミラだから。」
その言葉と同時に、現実のマリア先生の腕が、優しく抱きしめる力をすこし強める。
声が心の中にも届く。
「二人とも、ここにいるよ。
“捨てられた”と感じたほうも、“怖くて閉じた”ほうも。どっちも、ここにいる。」
――ユラン。ユラン。
音が二人の間に丸い輪を描く。
ミラは初めて、名前を呼んだ。
「……ミレイ。」
『……なに。』
「ミレイは、ミラの“よわい”を、ぜんぶ持っててくれたんだね。
ありがとう。……いま、手をつないでも、いい?」
ミレイの睫毛がかすかに震える。
怒りの赤が、涙の色にほどけはじめる。
ためらいが一歩。もう一歩。
伸ばされた小さな手と小さな手が、触れる。
額をこつんと合わせた瞬間――世界が揺れた。
触れたところから、殻がほどけていく。
怒りの芯ごと抱きしめられた瞬間、
⸻
現実の保健室。
マリア先生の胸の中で、ミラの体が小さく震える。
「ミラちゃん。」
やわらかな声が落ちる。
「ねぇ、もし泣きたくなったら、泣いてもいいんだよ。」
ミラは首を横に振る。
「……ないてないもん。」
声が震えた。
意地を張るように、唇をぎゅっと結ぶ。
「そう。泣いてないミラちゃんも、ちゃんとえらい。」
背中を撫でながら、マリア先生は微笑む。
「でもね、泣いても、えらいの。
泣くのは、こわれることじゃない。やさしくなることだよ。」
――ユラン。ユラン。
音が胸の奥をくすぐるように広がり、
ミラの目尻に、ひとしずくの光が浮かぶ。
「……せんせい、ミラ……なかないって、がんばってたのに……」
「うん。ずっとがんばってたね。ほんとうに。」
ぽたり――最初の一粒が落ちる。
慌てて指で拭おうとして、追いつかない。
「っ、ひく……っ、……せんせ……」
「大丈夫。ここにいるよ。」
涙が連なり、息がとぎれはじめる。
マリア先生は、ミラの頭を胸に抱きよせた。
「こわかったね。
もうね、ひとりでがんばらなくていいの。
ミレイも、せんせいも、ここにいるよ。」
その一言が、
胸の底が抜ける感覚――。
「…………っ、ぁ、あ、あぁぁぁぁぁっ!!」
声が弾け、体がふるえる。
抑えていた涙がほどけ、まるで初めて泣けた子どものように泣き崩れた。
「うわあああああんっ!! うわぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
――ユラン。ユラン。
音が、涙の波をやさしく導く。
「せんせぇぇ……っ、ミラ、こわれたの……っ」
「こわれてないよ。心が、やっとお話できたの。」
「っひぐっ……ひぅ……っぁぁぁぁん……!」
その泣き声に、心の中のミレイの泣き声が重なる。
『……だいじょうぶ……もう、いっしょ……』
二人分の涙がひとつに溶け、ブランケットに滲む。
肩は大きく上下し、鼻はつまって呼吸は下手くそなまま。
でも、涙はもう迷子にならない。出口がある。
どれくらい泣いたのか、わからない。
やがて声がかすれ、涙が少しぬるくなる。
しゃくりが「ひく……ひく……」に変わり、肩の上下が小さくなっていく。
マリア先生の手が、背中で二度、三度――大きく円を描く。
その円の内側に、呼吸が帰ってくる。
「……っ、ひ……ぅ……」
『……ぅ、……ひく……』
マリア先生が、ほんの少しだけ抱きしめる力を強めた。
「――やっと泣けたね。えらい。」
その一言で、二人の胸が同時に震える。
涙の残りが、最後の雨みたいにさらさらと落ちた。
泣き顔のまま、二人は同時に、ちいさく笑う。
マリア先生は、そっとポケットから小さなティッシュを取り出した。
「ほら、お鼻――チーンしよっか。」
「ふんっ……」
鼻をかむ音が重なり、マリア先生がくすっと笑う。
「いい音だったね。これでまた、きれいな空気が吸えるよ。」
――ユラン。ユラン。
音はもう囁きほど。けれど、それで十分だった。
泣き疲れた心が、ようやく静かな岸に着く。
「……ミラ、ないてもいい?」
「いいよ。」
「いっぱい、ないても――いい?」
「うん。いいよ。」
笑いながら、少し泣く。
泣きながら、少し笑う。
涙と笑いが同じ場所から出てくるのを、ミラははじめて知った。
マリア先生は少し離れた机に手を伸ばし、冷たいカップを差し出した。
「ね、がんばったごほうび。約束してたジュース、覚えてる?」
ミラのまつげがふるふると揺れ、ぱっと顔が明るくなる。
「……ジュース……」
両手でカップを受け取り、うれしそうにストローをくわえる。
ちゅうっ、と一口。口の端にちょっと笑みが浮かぶ。
「……あまい……」
マリア先生がやさしく笑う。
「泣いたあとって、味がやさしく感じるのよ。」
「ほんとだ……やさしいの。」
ミラはもう一口飲んで、カップを胸の前で大事そうに抱えた。
頬がほんのりピンクに染まって、目がとろんと緩む。
その様子を見て、マリア先生もつい頬がゆるんだ。
「ふふ……いいお顔。ミラちゃん、ほんとによくがんばったね。」
ミラはちょっと照れくさそうに笑いながら、マリア先生の袖をちょこんとつまむ。
「……せんせい、ミラ、がんばったから……なでなでして?」
「もちろん。」
マリア先生は微笑んで、そっと頭を撫でた。
淡いルビー色の髪が指の間をするりと抜け、ほのかに甘いミルクの香りがした。
「えへへ……」
ミラは嬉しそうに目を細めて、ストローをもう一度くわえる。
その音が、保健室の静かな空気にちいさく溶けていった。
マリア先生はその横顔を見つめながら、静かに息を吐く。
――ようやく、あの子は“泣ける子”になってくれた。
そしていま、小さな手で世界に触れながら、初めてだれかに甘えている。
それは、心が「ひとりでがんばらなくていい」と学んだ、いちばん最初のしるし。
⸻
ミラはジュースを飲み終えると、そっとカップを置いて、クレヨンを取りにいった。
白い紙を膝にのせる。
青で空、黄で光、うすい桃色で涙の小さな丸。
真ん中に、二人。
握った手を、少し大きく描いた。
それは“勝利”ではなく、“合意”の印。
クレヨンを片づけていると、カノンが静かに近づいてくる。
ふさふさのまつげが、また光をうけて揺れた。
「……それ、かわいいね。」
「うん。ミラと、ミレイ。」
「ミレイ?」
「うん。ミラのなかにいる子。もう、いっしょにあそべるの。」
カノンは一瞬だけ不思議そうな顔をして、すぐににこっと笑う。
「じゃあ、こんどは私も、いっしょにあそんでいい?」
「……うん。」
ミラがうなずくと、カノンのまつげがきらきらと揺れた。
窓からの光が、二人の影をやさしく重ねる。
――ユラン。ユラン。
もうそれは、こわくない。
二人の隔たりをやわらげ、言葉を渡してくれる、やさしい音。
ミラは胸に手をあてて、小さくつぶやいた。
「……やっと、なけた。
ミラ、えらい。ミレイも、えらい。」
胸の内側で、ふたりの笑い声が重なる。
涙の味がする笑いだった。
そして、その笑いは――
「泣けない子の午後」に、あたたかい息を残した。
⸻
断章:
泣くことを わすれていたね。
笑うたびに すこしだけ 胸が痛んだ。
「いい子」でいようとして、
ほんとうの声を しまいこんでいた。
それでも あなたは となりにいた。
泣けないわたしの中で、
ずっと 声を上げようとしていた。
――やっと わかったよ。
あなたは わたし。
わたしは あなた。
痛みも、やさしさも、
どちらも うそじゃなかった。
ずっと 守ってくれていたんだね。
いま、手をつないだら、
涙が ひとつの形になった。
あたたかくて、やさしくて、
それは わたしたちの光。
だからもう、
泣いてもいいし、笑ってもいい。
どちらも 本当の声だから。
これからは ふたりで 生きていこう。
もう さびしくない。
もう はぐれない。
だって――
わたしたちは ふたりでひとつの ひかり。
これからも ずっと いっしょだよ。
⸻
🕊 次回予告
第25話 おませトリオ、ねむねむに散る ― エミリー先生の戦い ―
午後のひかりの中、エミリー先生 vs おませトリオ。
「ぼくら、もう赤ちゃんじゃないから!」
果たして三人は、“ねむねむの声”にあらがうことができるのか――。
⸻
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