第23話 木のカメラと優しいウソ
午後の保育室。
窓辺の光が床に四角を落とし、子どもたちの声が波のように寄せては返す。
ミラは、棚のいちばん上からやっとのことで降ろしたお気に入りの木のカメラを手にしていた。
そのとき、少し離れた机の影で、カノンがそっと足を止める。
ふさふさのまつげの奥の瞳が、きらきらと光をうつす。
声は出さない。指先で自分のスカートの裾をきゅっとつまみ、
まるで夢を覗くみたいに、木のカメラを見つめていた。
(……ほしいのかな? でも、言えないんだ)
その視線のやさしさと切なさが、ミラの胸をくすぐる。
一瞬、ミラの指がカメラをぎゅっと握った。
けれど――小さく息を吸って、ふわりと笑う。
「……どうぞ。ミラ、あとででいいの。」
差し出すと、カノンは目をぱちぱちさせ、まつげがふるふる震えた。
声にならない「ありがとう」が、口の形でそっと咲く。
小さな花が風にゆれるみたいに、やさしい仕草だった。
(――ほんとは、いま、ミラが遊びたいのに。)
胸の奥で、小さな火が弾けた気がした。
次の瞬間、視界の色がすこし薄くなる。耳の奥で、細い糸がきしむ。
『やめなよ。また“いい子”のふり? また自分を置いてくの?』
(……あの子だ……)
『貸してあげなきゃって、自分に命令する声。あれ、だれの? 本当に自分の?』
ミラは笑顔を崩さないまま、こくんとうなずく――ふりをした。
けれど、膝の力が抜け、床の木目がふっと遠くなる。
「ミラちゃん……?」
カノンが心配そうに小さく息をのむ。ふさふさのまつげが、光をにじませる。
その優しい景色を最後に、ミラの身体がくずおれた。
「……う、……っ、やめて……やめてよ……!」
近くにいたユウマが慌てて呼ぶ。
「せんせい!」
エミリー先生が駆け寄り、ミラの肩にそっと手を置く。
浅い呼吸。細かく震える指。焦点の合わない瞳。
(また……まただ。ここ数日、間隔が縮んでいる)
胸の内で数える。――一週間に三度目。
やわらかな声で息をそろえさせ、抱え起こす。
「大丈夫、ここにいるわ。いまは深呼吸だけ、いっしょに。……そう、いち、に。よくできたね。」
ミラの震えが少し収まるのを確かめると、エミリー先生は静かに決めた。
(このままでは――壊れてしまう)
⸻
昼下がり、職員室。
モニタの光が書類の上に反射して、白い線を作っている。
ドアの前で、エミリー先生は小さく息を整えた。
「――マリア先生、少し時間をいただけますか。」
振り返ったマリア先生は瞳を細める。
「ええ、どうぞ。ミラちゃんの件ね?」
エミリー先生はうなずいた。
「……小さな体に、あの子は大きな憎しみを抱えています。
“自分の中に、もうひとりの自分がいる”と口にします。
それがミレイ――という名前の子。憎悪の対象が“自分自身”なんです。」
マリア先生の表情が少しだけ曇る。
「自己分裂的な防衛……ね。」
「“いい子でいなきゃ”って、自分を縛っている。泣かない、怒らない、甘えない。
でもそれが逆に、ミレイの怒りを膨らませている気がして。
この一週間で三度、発作が出ています。
このままでは、心が壊れてしまうかもしれません。」
マリア先生は椅子に背を預け、静かに息を吐くと、机の引き出しを開けた。
銀の柄と透明な球体が連なるガラガラがひとつ――
内部の鈴が淡く光り、わずかに揺れる。
エミリー先生の声がかすかに震えた。
「……使うのですね。」
「これは“道具”じゃないわ。心に触れるための鍵よ。」
マリア先生はガラガラを掌にのせ、淡く微笑む。
「彼女を“泣けない子”のままにしておけない。
お昼寝のあと、保健室で受けます。」
「お願いします。……あの子を、救ってあげてください。」
⸻
お昼寝が明けた廊下。
まだ毛布のぬくもりと、おひるごはんのミルクスープの匂いが残っている。
カーテンの隙間から午後の光がのぞき、空気の粒を金色に染めていた。
マリア先生はそっとお昼寝室をのぞく。
布団の列の真ん中、淡いルビー色の髪が枕にほどけている。
その髪は光を受けてきらめき、まるで夕焼けの欠片をこぼしたみたいだった。
小さな胸が上下して、寝息がほんのりあたたかい。
マリア先生は静かにしゃがみこみ、
そっとミラの頬に手を添えた。
「……ミラちゃん、起きられる?」
やわらかな声と、掌の温度が、まどろみの境目をやさしく撫でる。
「……んぅ……ふぁ……」
ミラがもぞもぞと寝返りをうち、目をこすりながら顔を上げる。
琥珀にオレンジを溶かしたような瞳が、まだ夢の名残を宿していた。
「……せんせぇ……?」
声は半分寝言のまま。
次の瞬間、ふらりと起き上がると、そのままマリア先生の胸に――ぽすん。
マリア先生のエプロンのあたりに、ちいさな腕がしがみついた。
「んー……あったかいの……」
寝ぼけた声でつぶやく。髪の先がマリア先生の頬をくすぐった。
マリア先生は目を細め、そっと笑う。
「ふふ……あらあら、大きな赤ちゃんね。」
その言葉で、ミラのまぶたがぱちぱちと動き、意識が少しずつ浮上する。
「あっ……ち、違うの……ミラ、ちょっと寝ぼけてただけ……!」
顔がほんのり赤くなって、両手で頬を押さえる。
マリア先生はその頭をやさしく撫でた。
「そう? でもね、甘えることは悪いことじゃないんだよ?」
ミラはその言葉に、目を瞬かせる。
胸の奥に、何かやわらかいものが落ちてきた気がした。
恥ずかしそうにうなずくと、マリア先生の手をぎゅっと握る。
マリア先生はその手を包みながら、少し微笑んだ。
「ねえ、ミラちゃん。お昼寝のあと、ちょっと体がびっくりしてたでしょ?
念のため、保健室で“ねむねむチェック”しよっか。
ふかふかの椅子があるのよ。」
ミラは眠気の残る目をこすりながら、こくんとうなずく。
「……ねむねむチェック?」
「そう。寝ぼけたあとに、元気の魔法をかけるチェック。
終わったら、ジュースも少し飲めるかも。」
「……いく。」
「うん、えらいね。せんせいと、ゆっくりお散歩しながら行こ。」
廊下に出ると、床に差す光がふたりの影を重ねる。
その小さな手を包みながら、マリア先生は静かに思った――
(この子の心にも、光の通り道をつくってあげなくては。)
遠くで風鈴が鳴ったような、静かな午後。
ミラの小さな足音が、やわらかな光の中に溶けていく。
その音が、やがて保健室へと続く扉の前で、そっと止まった。
⸻
🕊 次回予告
第24話 ふたつの涙が、ひとつになる音
泣けなかったミラ。
怒ることも、甘えることも、自分に禁じてきた。
マリア先生のやさしい
ミラは心の奥にいるもうひとり――“ミレイ”と出会う。
それは、誰にも見せられなかった自分。
怒りも涙もやさしさも、すべて抱きしめたとき、
ふたりの心はやっと、**「ひとり」**になる。
⸻
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