第33話 ノイズの海
あの日、ミラは“光の扉”をくぐった。
発見されたのは、郊外の廃ビル跡。
保護にあたったヒーロー協会の医療班は、
彼女の体内から未知のチップを摘出した。
解析不能。記録もなし。
ただ、怪人のシステムと似た暗号構造を持っていたという。
専門チームによる治療が行われ、
そして――元の姿に戻った。
いま、彼女は再び“ヒーロー”としての日常を過ごしている。
救助。報告。再起動。
戦場とオフィスを往復しながら、
胸の奥では、あの“ユラン、ユラン”の音が、
まだ静かに揺れていた。
……けれど、静かな夜ほど、心はざわつく。
そしてその日も、ミラは確実に成果を上げていた。
夕方、報告書に載った数字は素直で、
救い出された人の名前は静かに並び、
怪人の拠点は三つ目のマーカーとともに地図上から消えた。
隊の空気は軽かった。
誰もが、少しだけ息を深く吸えた。
けれど夜になると、別の地図が立ち上がる。
掌のなか。黒いガラスに灯る小さな海。
タイムラインは光の糸で編まれ、
そこに言葉が降っては溶け、溶けては形を変える。
⸻
【速報】行方不明から“偶然”帰還したヒーロー・
【解説風】“認識阻害”で「場所を特定できない」?そんなことありえるの?
【匿名】怪人側と“取引”してたら説明つくよね。
【匿名】助かったのは
【まとめ】元・行方不明ヒーローの快進撃。裏に誰がいる?
⸻
目を滑らせるたび、喉の奥で砂が鳴った。
知らない顔。知らない声。知らない時間帯に生まれた“確信”。
画面の向こうで、誰かが勝手に矢印を引き、
点と点を線にする。
事実の上に、見えない糸くずが降り積もる。
『エゴサやめなよ。どうせ悪い情報ほど目に映っちゃうんだからさ』
ミレイが呆れたように囁く。
「……見ないで寝よ」
ミラは親指でアプリを閉じた。
閉じたはずの海はなお耳元でさざめき、
ときどき泡立っては、通知の音に姿を変える。
――ピッ。
押し返すように毛布へ潜った。
⸻
『ねえ、ミラ。今日、三人も助けたんだよ。ちゃんと、見て』
胸の奥にいて、呼吸といっしょにふくらんではしぼむ、もうひとりの私。
光の細い管を通ってやってくる、静かな声。
「見てるよ。でも……見てない人たちのほうが多いの」
『見てない人たちは、今日も何かを見たふりをしてる。ふりは、寒いよね』
彼女の言葉に、ミラは苦笑をのせた。
ふりをするための言葉は、時刻表示とともに流れてくる。
その流れに足を取られないよう、彼女は今日も走ってきた。
けれど走れば走るほど、背中にまとわりつく糸は増える。
⸻
【証言“風”】関係者A「現場で“誰か”と連絡を取っていた」
【分析ごっこ】認識阻害=都合のいい言い訳
【匿名】“彼女だけ”帰ってきた理由、考えた?
【つぶやき】英雄ってさ、誰にとっての?
⸻
尖った石のような言葉が混ざる。
丸ごと見ないよう視界をずらしながら、
指はスクロールをやめない。
止めたくて、止められない。
重力が、画面にある。
『ねえ、深呼吸しよ』
「ん」
吸う。胸がわずかに痛む。
吐く。肩甲骨が床に沈む。
それでも海は、波をやめない。
光る泡のなかで、誰かが笑っている。
⸻
【推測】“癒着”って言葉、使っていいかわかんないけど
【返信】やめとけよ、さすがに
【再返信】でも線はつながる。ほら、地図
⸻
地図。
彼らの指先が引いた赤い線が、
どこかで現場写真に重なる。
ミラのいないところで、事件は編集され、
編集された事件が“真実”として並び替えられる。
パズルのピースがひとつ抜けていると、
人はそこに好きなかたちを差し込む。
“認識阻害”で空白になっている場所ほど、差し込みやすい。
⸻
『ねえ、ミラ。わたし、ここにいるよ』
「うん。いるね」
『もー! ちゃんと感じて!』
「うん。感じてるよ」
『じゃあ、どこにも行ってない。戻ってこられたよ』
「……ありがとう」
ミレイが口にすると、簡単になる言葉がある。
“いる”と“戻る”は、彼女の声のなかでやわらかく重なり、体温になる。
⸻
ミラはふと、
闇をやさしく照らし、包みこむ光。
そして
闇を切り裂き、前へ進むための光。
本来、二つは寄り添い、互いを補い合って“ひとつの祈り”になるはずだった。
けれどあの頃のミラは、ミレイを自分の一部として受け入れられず、
それは破壊の衝動――怒り、恐れ、正しさに焼かれた“悲鳴のような光”。
世界を救うはずの手が、同時に世界を傷つけていた。
けれど今は違う。
ミレイを“自分の中のもう一つの心”として抱きしめた今、
二つのアークは静かに響き合う。
闇を照らす
赦しと覚悟が交わるとき、光はもう悲鳴ではなくなる。
ミラの胸の奥で、灯のように、やさしく燃えていた。
⸻
毛布の端を指で触れていると、
ふっと思い出の匂いがした。
保育室。
昼寝の前、薄く暗くした部屋の隅で、カーテン越しに風が揺れていた。
“ユラン、ユラン”――あの日の、透明な揺れ。
マリア先生が毛布を肩まで引き上げてくれた時、頬に落ちた髪の感触。
「泣くのは、こわれることじゃない。やさしくなること」
額に触れる指の確かさは、いまも骨の奥にしまってある。
⸻
どこかで通知が弾ける音がした。
膝の上の画面が勝手に目を覚まし、
また別の断片が流れ込んでくる。
【画像】“匿名の地図” 赤丸だらけ
【文】
肺が縮む。
“帰還地点”――そんなもの、あるなら教えてほしい。
ミラ自身、どこから戻ったのか分からない。
強く、深く、目に見えない手で覆われて、
引き上げられるようにして気づけばここにいた。
その空白を、誰かが勝手に塗りつぶす。
⸻
『ミラ、見なくていい』
「でも、見ないでいると、置いていかれる気がするの。
私がいないところで、私が決められていくから」
『それは、前にも怖かったこと』
「うん。泣けなかったとき」
『無垢なミラちゃんはもっと素直だったよ』
「ちゃんと覚えてるよ。体の主導権を乗っ取ろうとしたことも」
『それはミラが私に酷いことしたから。でもそこから分かり合えた』
「そうだね。いつもありがとう」
『もっと褒めて』
「はいはい、えらいえらい」
『泣くのは、こわれることじゃない――』
「やさしくなること」
二人で言うと、言葉は音楽になる。
胸のなかで、ほどけては結びなおす。
それでも海は、こちらを覗き込む。
彼らは“証拠”と呼ぶために、断片の角を削り、
互いの断片を押しつけ合う。
⸻
【まとめ動画】“
【タグ】#ヒーローと怪人
【タグ】#線はつながる
【タグ】#信じたいものだけ信じる
⸻
タグは海の潮目だ。
潮目に向かって、魚の群れが動く。
誰かが笑いを置く。
誰かが怒りを置く。
誰かが正義を置く。
それぞれの重りが水面を歪ませ、
夜が少し冷たくなる。
⸻
「……わたし、どうすればいい?」
『寝る。食べる。明日、また助ける』
「それしか、ない?」
『それが、全部』
「死ぬまで?」
『死ぬまで』
⸻
ミレイの答えは単純で、単純であることが怖くて、
そして救いだった。
簡単なことがいちばん難しい夜。
簡単なことだけが、夜を渡らせてくれる。
⸻
ミラはスマートフォンを伏せた。
液晶の面は、寝室の天井をぼんやり映す。
窓の外では、風がビルの角を撫でている。
街の音はもう遠く、
代わりに冷蔵庫の低い唸りと、
時計の“コツッ”という針の跳ねが、世界をつなぎとめていた。
⸻
毛布を口元まで持ち上げる。
ふいに、指が唇へ近づいた。
あの頃――眠る前に、安心を呼ぶための小さな儀式。
ほんのすこし、爪が触れかけたとき、ミラははっとして手を止めた。
その瞬間、胸の奥に懐かしい光景が広がる。
失敗して泣きそうになったとき、
マリア先生がそっと膝を折って目線を合わせてくれた。
「大丈夫。ここにいるよ」
そう言って、エプロンの裾を“ギュッ”と握らせてくれた――あの合図。
それが、ミラと先生の約束だった。
怖いとき、泣きそうなとき、言葉が出ないとき。
ただ“ギュッ”と握るだけで、
“わたしはここにいる”と伝わる、二人だけの合図。
⸻
毛布の中で、ミラはそっと手を握った。
あのときと同じ強さで。
自分で、自分に。
それはもう、誰かに助けを求める合図ではなかった。
「大丈夫。わたしはここにいる」
――その言葉を、今度は自分が渡す番だった。
⸻
ふと、唇に指先が触れそうになる。
あの夜と同じ、柔らかな記憶の誘惑。
幼い自分が安心を求めて差し出した仕草。
けれどミラは静かに我に返り、
手を毛布の下でぎゅっと握り直した。
幼い私も、大人の私も、
どちらもここにいる――それを確かめながら。
⸻
『……大丈夫?』
「うん。大丈夫。……大丈夫にする」
喉の奥で、言葉が丸くなる。
“やめる”のではなく、“いまはしまっておく”。
それは拒絶ではなく、約束に似ていた。
きっといつか、ほんとうに必要なとき、
自然と出てくる。
その時まで、眠るための合図を、胸の奥で抱いておく。
⸻
目を閉じる。
暗闇に、保育室の光がゆっくり溶けていく。
薄いカーテン。
床に落ちる影。
「おやすみ」――マリア先生の声。
“ユラン、ユラン”。
音は見えないブランコのように、
彼女の胸の中心を行ったり来たりする。
⸻
思い出の中の世界は、優しさの向きが決まっていた。
小さな体に、大きな毛布。
小さな不安に、大きな手。
泣き声に、隣り合う呼吸。
そこでは、欠けたピースに無理やり別の形を押し込む人はいない。
欠けは欠けのまま、眠ることができた。
⸻
現実の夜は、冷たい。
冷たさは悪ではない。
ただ、温度がないだけだ。
温度のない言葉が行き交う場所は、摩擦で火がつきやすい。
誰もが正義の輪郭を持ち歩き、
知らないうちに刃に変える。
だれかの確信は、だれかの呼吸を浅くする。
浅くなった呼吸は、浅い言葉を呼ぶ。
そして海は、ますます泡立つ。
⸻
『ミラ』
「……いるよ」
『ここにいるよ』
「ここに」
二人の短い呼応が、夜の真ん中に杭を打つ。
杭は見えないけれど、足裏で確かに感じる。
そこに立って、目を閉じる。
まぶたの裏で、昼の青が乾いていく。
クレヨンの色みたいな、少し粉っぽい青。
それが今日の空だったと、胸にしまう。
⸻
ふいに、画面の向こうから名前を呼ばれたような気がして、
ミラは目を開けかけた。
でも開けない。
呼ぶ声は、誰のものでもない。
「こっちを見て」「ここが真実だ」「それは嘘だ」――
無数の手が袖を引く。
袖の糸がきしむ前に、そっとほどく。
ほどき方は、保育室で覚えた。
泣くこと。
息を合わせること。
眠ること。
そのすべてをまとめて、“やさしくなること”と呼ぶのだと、
マリア先生は教えてくれた。
⸻
明日も、現場はある。
誰かの名前が地図から消えかけていて、
誰かの声が押し潰されかけている。
そこへ手を伸ばすために、今は目を閉じる。
暗闇に“ユラン、ユラン”が揺れ、やがて音は遠のく。
⸻
ミレイが最後にそっと言った。
『おやすみ。明日も、ちゃんと起きようね』
「うん。……おやすみ」
ミラは指を毛布の中に隠したまま、眠りに落ちた。
海のざわめきは、閉じた扉の向こう側へ退き、
部屋には自分の呼吸だけが残る。
夜は冷たい。
けれど、眠りは温かい。
その温度差のあいだで、彼女は静かに――眠った。
⸻
🕊 次回予告
第34話 宿敵!ノクス・ヘルザード!
「光は、ひとりでは届かない。――だから、ふたりで撃つ。」
廃都での決戦。
かつて家族を奪った宿敵〈ノクス・ヘルザード〉との再会。
怒りと涙を抱えたミラは、分かたれたもう一人の自分・ミレイと共に、
“ふたつの光”を重ねて闇を撃ち抜く。
それは復讐ではなく、再生の祈り――。
やさしさが、闇をも包む戦いの果てに。
⸻
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